質問(24/1/18講義)

だいたい全部まなぶ:
ある人がある対象を持続的に認識しているときは、その対象の数的同一性が保証できると思います。しかし、ある人がある対象を認識したあと、ずっとあとになってその同じ対象を認識する、ということが可能なのはなぜなのでしょうか?あるいはある人と別の人が同じ対象を認識することが可能なのはどのような根拠に基づくのでしょうか。
(質的同一性についてはこのような問題は生じない気がしますが、数的同一性の場合は生じそうな気がしています)

永井
ある人がある対象を認識したあと非連続的に同じ対象を認識できるのは、「実体持続の原則」が働くからです。この問題については、今期の講義では到達しませんが、連載においては近々到達するでしょう。

だいたい全部まなぶ:
そもそも、何かと何かが同一である、あるいは異なっている、という判断を行う際はどのカテゴリーが使われているのでしょうか。

永井
単一性です。

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カントの誤診第3回の段落5では、「現実的な百ターレル」と「可能的な百ターレル」が比較され、それは事象内容的には全く同一同じであるとのカントの主張に対し、前者は文字どおり百ターレルの価値を持つが後者は何の価値もない(=両者には根源的な差異ある)、ともいえるが、その根源的な差異があるという主張も「現実的な「現実的な百ターレル」」と「可能的な「現実的な百ターレル」」が再び事象内容的に同じとなる、としています。その後の段落6では、時制について同様の議論がされており、「現実的な「現実的な今(現在)」」と「可能的な「現実的な今(現在)」」が事象内容的にまったく同一」とされていますが、「現実的な今(現在)」または「今(現在)の事象内容」とは何でしょうか。1行目に、「真の今(現在)は端的なこの今(現在)だけであり、他の今は過去における今か未来における今で、現実の今ではない」とあり、5行目に「今(現在)の事象内容は、それが現実的であろうと可能的であろうとどの今(現在)においてもまったく同一」とありますが、この2つの記述からは、いわゆる昨日(過去)と今日(現在)と明日(未来)の事象内容(天候等の自然現象や出来事?)がまったく同一とも読めるのですが。

永井:
この場合の事象内容とは「天候等の自然現象や出来事」のことではありません。「その時点においてその時点自身を指す」という一般的な再帰性のことです。それゆえに、「今(現在)の事象内容は、それが現実的であろうと可能的であろうとどの今(現在)においてもまったく同一」であることになります。

みや竹:
第3回②段落「世界は最初から、一枚の絵に収まるような、のっぺりとしたあり方をしてはいない。のっぺりとしたあり方をしているとは、まずは世界があって、その中に、色々な物たちと並んで人間という動物も存在しており、そのうちの一人が私である、というあり方をしているということである。そういうあり方をしていることも可能であったはずだが、なぜかそんなふうにはなっていない*。そういうあり方の場合と同様に「そのうちの一人が私である」とはいえるにもかかわらず、それは並列的に存在する「そのうちの一人」などではなく、まさにそこから全世界が(初めて)開けているというきわめて特殊なあり方をしている」について質問させてください。
1.ここで「可能であったはず」と言われている世界が、私には可能であるようには思えません。「そのうちの一人が私である」にもかかわらず、「そこから全世界が(初めて)開けてい」ない世界って、どんな世界なのでしょうか。想像はおろか、考えることもできないと思うのですが・・・。

永井:私であるとは私である人物であるということです。すなわち、みや竹という同一の人物であるということです。

みや竹:
2.その世界での「私である、というあり方をしている」人物(みや竹)は、「私がもし、私ではないただのみや竹だったら・・・」などと思うことはできないのでしょうか。

永井:
この問いは、1への私のお答えを前提にして理解した場合には、「風間くんの質問」と同じ問いになります。

みや竹:
3.それとも、私の代わりに、まさにその「私ではないただのみや竹」が居る世界なのでしょうか。でも、だとしたら、それは私がいない世界であって、「そのうちの一人が私である」世界ではないですよね。

永井:「私ではないただのみや竹」が居る世界です。「私」は指示語ですから、指示が成功した場合はみや竹を指します。「そのうちの一人が私である」とは「そのうち一人がみや竹である」の意味になります。

みや竹:
4.それとも、その世界での「私である、というあり方をしている」人物(みや竹)は、「私がもし、私ではないただのみや竹だったら・・・」と思うことはできるけど、その思いにどこまでもアクチュアリティがない(私ゾンビ)、ということでしょうか。でも、だとしたら、その人物は結局他人なのだから、やはりそれは私がいない世界であって、「そのうちの一人が私である」世界ではないと思うのですが・・・。

永井:
前半は「風間くんの質問」とも解釈できます。後半はそれに対する一つの応答とも解釈できます。しかし、後半に平坦に応答するなら、その人物がいる世界のことを「私がいる世界」とみなす、ウィトゲンシュタインが「対象としての用法」と呼んだ「私」の用法がある、ということになります。

※テキスト『〈カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す』第2回、第3回


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