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私が表現の自由を守ろうと行動し始めた理由

はじめに

2022年。表現規制派の動きが過激化してきたように思う。

炎上しなければ、規制派のターゲットにされなければ自分の好きな表現が守られるという保証はない。
それは「今は」狙われていないだけであり、いつターゲットにされるかわからないからだ。

私は、いわゆる表現規制派に対して、否定的な発言やツイートは今までも実施していた。
しかし、表現の自由を守るために専用アカウントを作り本格的に活動を始めたのは2022年4月末からだ。
黙っているだけでは、好きな作品やコンテンツが炎上した際に守れない。

表現(サブカル)を守るため、腰を据えて活動しようと決意したのは好きなアイドルを守りたいからであり、勇気をくれたのは彼女の活動である。
大切な人を守れる力が欲しい。それ以上に戦う理由なんてない。

サブカルが人生


私は「学校に行かないと漫画やゲームをしてはいけない」家庭に育った。
上履きが捨てられたりバイ菌扱いされるイジメに遭っても、人気のない路上で下校中に痴漢されて、学校に行くのが嫌になっても、不登校にはならなかった。
漫画が読みたかったから、逃げずに通学することができたのだ。

父の不貞や弟が重病になった時、家族の仲が険悪になっても、共通の好きなアニメや漫画の話をして完全に縁が切れることはなかった。
家族と一緒に暮らすのは色々あって難しいが、今でも一緒にアニメ映画に
行ったり、実家のリビングでアニメやドラマも観る。
「共通の趣味」や「好きな作品」が「共通言語」となり、仲を繋いでくれているのだ。

ノイローゼになって抗鬱サプリを飲まなければ、理由のない”漠然とした不安”に苛まれる状態から抜け出せたのは、アイドルのおかげだった。

好きなアニメの聖地巡礼をしていた時に、出会った好きなアニメが同じ人と結婚した。

私の人生はサブカルによって、辛いことを乗り越えてきて出会いや
コミュニティにも恵まれることができた。
社会からドロップアウトせずに済んだのも、自分の家族の絆を完全な破綻から守ってくれたのも、結婚できたのも、立ち上がる勇気をくれたのも全部サブカルのおかげだ。
私の人生はあらゆる創作物やタレントやクリエイター、アーティストのおかげで成り立っていて、いま生きていられるのは表現の自由が保障された国だからだ。
表現を規制から守るということは、自分の中では人生や命の恩人を守ることとほぼイコール。

表現規制派からしたら「なぜオタクは死に物狂いで規制に反対するのか?」と思うかもしれない。
自分の人生や命の恩人である表現を「お気持ち」で規制されたくない。
それが少なくとも自分の中の答えであり、規制に対して反発する人が少なくないのはサブカルに人生を救ってもらった人や、影響を受けた人が少なくないからだと思う。

表現に安全圏はない

私はフィギュア・漫画・アニメ等といろいろなものに影響を受け、収集活動も行う生粋のオタクだ。

その中でも、いま最もハマっているものはアイドルである。

俗にいう「地下アイドル」や「ライブアイドル」と呼ばれているもの。
ライブ活動をメインにして、TVや雑誌などのメディアに出演することや
大きな会場で単独公演を行うことを夢見て活動するアイドル。
夢を叶えられるのはその中でも本当に一握り。
だけど、アイドルとオタクの数だけドラマがある。

「夢を叶えられたか」は結果論であって、頑張る姿に勇気づけられて「推しから勇気をもらう」だけでなく、アイドル自身も「自分を信じてくれているファンの期待に応えたい」と(多分ほとんどの子は)全力で頑張る。
ファンとタレントの距離感が近い分、相互に影響し合うドラマ性も魅力の1つだ。

地下アイドル(ライブアイドル)のイメージが付きにくい人は、読切漫画『私、アイドル辞めます』を読んでみると雰囲気がわかるかもしれない。

筆者自身がアイドルオタクであり、とても深い内容の作品。
SNSでバズって『となりのヤングジャンプ』デビューを果たし、世界最大のアイドルフェスTIFとコラボを果たしたシンデレラ作品。
作中のヒロインが憧れたTIFと現実世界でコラボ。
夢が間接的に叶ったと思うと涙が出る。

トーマスエジソンは「成功とは99%の汗と1%の才能」と言ったそうですが、 僕は98%の運と1%の汗と1%の才能だと思います。
by秋元康

『運をつかむ』(秋元康)第3734号

自分より才能が有って、努力もしている人がいる中で自分にたくさん仕事があるのは「運」のおかげだという秋元康の言葉です。
努力も才能もあっても、グループや人脈含めて運の要因も大きく、売れるかどうかがわからない厳しい芸能界。

もし、表現規制の流れが活発になったら、せっかくデビューしてやっと掴んだ成功やチャンスを「性的である」「犯罪を誘発する」「未成年に悪影響」とクレームを受け、出番や活躍の場がなくなってしまう可能性がある。
表現規制は漫画・アニメだけの話ではなく地続きで様々な表現分野と繋がっているからだ。

例えば、2020年1月にタレントの茜さやさんの広告が「性的」と炎上した事件がある。

巨乳の人がただCMや広告に選ばれただけで「性的」と叩かれる。
それが当たり前となってしまった場合、巨乳の人がタレントやアイドルを夢見て努力しても「身体的特徴」がクレーマーを引き寄せるデメリットとなり、職業選択の際に不利になってしまう可能性が十分に考えられる。
それは身体的差別であり、許されない。
表現の自由を守るということは、女性の意思決定権や自由を守ることにも繋がると思う。

表現規制の波は、今は「性的かどうか」が注目されているが、そのうち「未成年に見える人の飲酒・ギャンブル・喫煙描写は禁止」と規制項目を増やしていく可能性もある。
そうなった場合、背が低く童顔な子は、成人していたとしても「成人向けの広告」には採用されなくなる可能性が高まってしまうのではないだろうか?

私の好きなアイドルはお酒が好きで、居酒屋で「年齢確認された」ことを「若く見られた」と解釈してニコニコ話していた。
しかし、実年齢がどうかではなく「子供に見えるかどうか?」を規制派が掲げる児童ポルノの指標としているように「未成年に見える」というのは、規制が進んでしまった場合、芸能活動していく上でデメリットとなってしまうのではないか?
彼女が笑顔でお酒を飲み続けられるように、規制派に勢いを与えてはならない。

表現規制の波は地続きでつながっている。
表現規制を認めていくと、規制対象はどんどん拡大していくだろう。
その波を少しでも食い止められるように守れる力が欲しいと思い、行動することを決意した。

現役のアイドルやタレントだけでなく、アイドルに憧れを抱くようになった子の夢を、童顔や巨乳といった身体的特徴がデメリットと化してしまうような未来で潰されたくない。
巨乳なども身体的特徴は個性の1つであり、着る服や広告の在り方も表現として尊重されるべきだ。


近年炎上した表現まとめ

自分の好きな表現物が炎上したり、規制される可能性があると言われても、まだピンと来ていないかもしれない。

そこで、最近(約半年分)炎上した表現の事例を見てみよう。

2021年8月 ご当地Vtuber

2021年8月交通安全啓発活動について「へそ出し・スカートが短い」と
千葉県議会議員の伊藤とし子氏のブログを発端に炎上したVtuberの
戸定梨香さんの炎上。

2021年11月 温泉むすめ

https://togetter.com/li/1869603

犯罪者が紛れ込んでいそうというとても酷い発言も出たり、脅迫や嫌がらせ騒動につながりコラボ店舗がパネル撤去に至った。

2022年4月 月曜日のたわわ

単発の新聞広告の炎上。
看板やコラボなど、長期間掲示される広告ではなく、たった1日の新聞の広告が国連女性機関から注意喚起がされるほどの大炎上をした。

長時間表示されるのであれば、掲載取消しを求めたとしても理解はできる。
しかし、たった1日掲載されただけの広告がここまでの大炎上が起きたのだ。
しかも、ちゃんと服を着ていて、腕で胸元を隠して露出度が高いとは言えないイラストである。

露出度の有無・単発案件なら大丈夫という保証はないという事が判明し、衝撃を与えた事件であった。

また、著名人が炎上した漫画を買っただけで炎上をしたのも今回が初めての事例だと思う。

炎上した作品を買い支える。応援するエンカレッジカルチャー
その応援方法すら、燃やされる。
ただ漫画を買って写真をSNSに載せただけなのに

炎上した作品を応援しただけで炎上のターゲットとされる。
異常な状態ではないだろうか?

2022年4月 ハートクローゼット

月曜日のたわわから派生し、代表が月曜日のたわわを読み感想を述べたことで胸大きい人向けのアパレル会社ハートクローゼットも炎上。
「巨乳向け立体製法の服がある」という事が広まり、掲示板サイトに購入者の一般女性の画像が転載され、変態達に性的かつ好奇な目に晒される事象も起きた。

ただ、漫画を読み感想を言っただけ
ただ、可愛い服を着て写真をSNSに載せただけ
それなのに、ネットで叩かれ晒される。

ただ話題のものについて率直な感想を言うだけの行為。
自分の素直な気持ちを伝える事、好きな服を着た画像を載せる事すら安易にできなくなりつつある。

炎上したものはVtuber・温泉むすめコラボとそれに関わっていた居酒屋・新聞広告・服飾ブランド・巨乳女性モデルの広告など、必ずしもアニメや漫画表現に関わるものだけではない。

自分の好きな表現も聖域内ではなく、いつ何の拍子で炎上するか分からない状態なのだ。


表現の自由は憲法で保障された基本的人権の1つ


そもそも、表現の自由自体、憲法で保障された基本的人権の1つである。
憲法13条では個人として幸福を追求する幸福追求権も認められている。
基本的人権は憲法11条でも保障されており、表現規制派が護憲を唱えながら言論や表現に対して規制を加えようとするのは矛盾しているのである

日本国憲法第11条
国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第21条
一項、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
二項、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

日本国憲法

ただ、憲法で保障されているからといって何をやってもいいわけではない。
憲法12条では憲法の乱用をしてはいけないと記載があり「公共の福祉」のため利用する責任を負うと記載がある。

日本国憲法第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

日本国憲法

この「公共の福祉」というのは人権と人権がぶつかった際の調整機能であり、自らの権利の行使を優先し、他者の権利を脅かしてはいけないことだと解釈している。
「見たくないものを見ない権利」で他者の表現を徒に無くしてはいけないし、人権に一部制限を与える法的規制(暴力・誹謗中傷・その他損害を被らせる行為)など他者に被害を与える場合に限られると思う。
「お気持ち」で憲法を濫用してはならないし、憲法で「認められている権利」に規制をかける場合、その論拠となるものを明確に示さなければ「違憲」であると思う。
それを踏まえて、現表現規制派の多くが護憲派であることに大きな矛盾を感じずにはいられない。


「好き」と思う気持ちを守りたい

私が守りたいものは自分の好きなアイドルだけではない
なりたい自分になる自由(ファッション・人間性)
好きなものを楽しむ自由(行動・内心の自由)
作りたいものを作る自由(創作の自由)

先に述べた幸福追求権(憲法13条)と表現の自由(憲法21条)で「権利」として、すべての国民が保証されている「基本的人権」に含まれる内容だと思う。

"なりたい自分になる"自由


ファッションやメイクなどは自分のなりたい姿や、自分の思い描くかわいい・かっこいい姿になるためにメイクを工夫したり、服を選ぶ。

しかし、性被害に遭った場合、ミニスカートや露出度の高い服など着ていた服を被害者が責められることが多い。

インドの芸術家で活動家のジャスミーン・パテージャさんは、被害者に非はないと証明するため、事件当時の服を寄付してもらっている。

性犯罪において、加害者が悪いのに被害者を責めるようなことがあってはならないと思う。

誰もが生きやすい社会というのは、性別や年齢問わず、好きな服を着て一人でも自由に好きなことができることを指すと思う。
イラスト、広告のファッションは自由であるべきだし「性的である」などと曖昧な理由で誰かの好きなファッションや表現を規制するのはおかしい。

本来、フェミニストは女性が着たい服を着たり、自由意思で行動や発言しても安全が脅かされない社会の実現を目標にする人だと思う。
私も痴漢被害や声掛け、DMで卑猥な文言を送り付けられるなどに遭ったことがあり、性犯罪やセクハラを許す気は毛頭ない。

性犯罪と表現の自由に関して負の相関関係はないことを、エビデンスベースでまとめているnoteである。

私は本来のフェミニストは別に表現規制派ではなく、むしろ女性の自由なファッションや言動の自由を認めるべきであると考えているため、対立軸とは考えていない。
むしろ、女性の自由意思を尊重し、安心して自己実現を行える社会にするため、部分的に協力できるのであればしたいと思う。

自分が表現を守るうえで、対立するのはあくまで「表現規制派」であり、広義の意味でのフェミニストではないと考えている。

アンチによる腐女子叩き

「男性向け作品の表現規制は必要だが、BLは無罪」というような発言をしたフェミニストがいるらしく、表現規制反対派だった腐女子の方々を巻き込み大炎上をしたのは記憶に新しい。

自分の作品が不健全図書指定されるとどうなる?知られざる想い(第103回)

くすぶっていた不満の空気の中、不健全図書にBLが指定されやすい件について思いを語った漫画家が炎上した。
BLにも18禁レーベルは存在するので、「BLだけゾーニングされていない」という噂自体が間違いである。
そもそも、不健全図書制度自体税金の無駄かつ、月に一度生贄を差し出すような制度なので廃止にするべきであり、自分の子供のような存在の作品が不健全図書認定されAmazonや書店などから消える作家の気持ちを考えるべきだ。
ぜひ、立憲民主党の栗下善行元都議員と自書が不健全図書認定されてしまった星崎レオ先生の対談に目を通してほしい。
不健全図書制度がある限り、BLのゾーニングや自主規制を強めたとしてもターゲットが青年向けや少女漫画に代わるだけで何も解決しない。
表現規制反対派であるならば、「BLずるい」ではなく、不健全図書制度の廃止や規制緩和のほうに話を持っていくほうが傷つく人が少なくて済んだと思う。

ちなみに、腐女子とフェミニストが必ずしもイコールではないことは結論が出ているため、フェミニストを自称する表現規制派がどんなに憎くても叩いていいことにはならない

『日本心理学会大会発表論文集 日本心理学会第83回大会 
腐女子はフェミニストなのか?』

https://togetter.com/li/1330981

データベース消費論も腐女子フェミニスト説・男オタクアンチフェミニスト説も根拠がない

また、表現規制の戦いに腐女子はノータッチだったという話もデマである。

漫画児童ポルノに反対した人の半数は女性であり、絶対数は不明だが、この中に多数の腐女子が含まれていることは想像に難くない。

『アンチフェミニスト腐女子から見たらフェミニスト腐女子』

また、一般腐女子にもアンチフェミニストの方は少なくない。

表現規制問題は地続きであるため、男女論や特定のコンテンツが好きな人を叩くのではなく「表現規制反対」の名のもと、連合軍的にともに戦うほうが望ましいと思う。
選挙で勝つのは「票数が多い人」であり、数は力であることは民主主義の原則だからだ。

私自身は腐女子ではないが
「好きなものを好きと言えて、楽しむ自由」
に関しては絶対に守らねばならない権利であると思うし、クリエイターもファンも自由に創作や感想を言えるのが属性やコンテンツ問わず大切なことだと思う。

また、好きなものを楽しむ権利や好きな服を着る権利は誰に対しても尊重されるべき権利なので、たとえ表現規制派で対立している相手であっても、私はその人たちの権利をはく奪したいと思わない。

仮に優遇されている表現があったとして「自分たちにも同じ権利を与えろ」ということは構わないし、正しいと思うが「お前だけずるいから同じように規制されろ」というのは表現規制が加速し、規制され他者が好きな人からは恨みを買うので何もメリットがない。
何かの表現が規制されたとしても、別の表現規制が緩和されるわけではないため無益な同士討ちになるだけだ。

表現の自由を守る戦いは「専守防衛」であり、規制から守るための戦い。
自分の嫌いな表現をどうしても守りたくない場合、最低限規制派と共に一緒に石を投げないでほしい。
人間にはキャパやそれぞれの信条がある。
何でも反対や反発する必要はなく、疲れたら休めばいい。
一緒になって規制派の仲間になって罵声を飛ばすのは、表現の自由を守るための戦いを不利にするだけなので、冷静に対応してほしいと願う。


最後に


私自身、嫌いな表現や地雷があり、好きじゃないタイプのオタクもいる。
”嫌いなものでも守る”
そのことに対して嫌悪感を感じる方に対して非常に共感する。

しかし
「差別をなくすためには自分の中の差別心と向き合うこと」
が大事であるように「嫌いなもの」の存在を認め葛藤をしている時点で
「自分は差別なんてしない。すべての差別に反対」
と言っている方々より客観的に自らを省みている冷静さを持っていると思う。

私は創作や言論の自由を最大限に認める一方、その作品を発表することや発言したことで生じる責任に対しては各自責任を持つべきであると思っている。
たとえば、表現や言論の自由を「ナイフを使う権利」であるとするならば、それをどう使用するかに対する責任は別途「使用者」が責を負うべきであり、他者を傷つけたのであればそれに対する責任は別途、法的に裁かれるべきだと思う。

感想や批判に対しても、自由であるため明らかな侮辱や誹謗中傷出ない限りは最大限尊重されるべきだと思っているので、「不快な表現であっても発表する権利を守ること」と「不快な表現物を見て不快感を表明すること」はそれぞれ別の問題だと認識している。
そこを区別することで、自己矛盾と折り合いをつけている。

表現の自由を守る戦いは茨の道だが、規制された先に待つ延長線上に、アニメや漫画だけでなく音楽やドラマ,広告などもあり、誰しもが無関係ではいられない。

私の好きな音楽業界はコロナ禍で「生活に必要がないもの」としてライブを行うこと自体が難しい時期を何年も過ごした。

「(コロナで世界が大変なことになって)こんな時に音楽なんてやってる場合かよ。こんな時に音楽なんて聞きに行く場合かとそういうことを言う人が沢山いるわけですよ。
沢山いるの。
そうなんだろうなって思った。
きっとそういう人たちにとっては、”音楽”なんて何の価値もなくて
今日なくなったって良いもの。
すごくちっぽけなものなんだろうな。
~中略~
でもよ!”お前”はどうなんだよ?”お前”は?
”俺”は”俺”にとっては”音楽”ってものがあったからこそ
このクソみたいな国で、クソみたいな時代を生き抜くことができたし、これからもきっとそうだし、”音楽”ってものがあったからこそ倒れた時も立ち上がろうって思えたんだよね。そうでしょ?
”誰か”にとってはそうじゃないかも。
でも、”俺”にとっては”お前”にとってはそう。
それだけで十分。それは・・・俺たちはそれを守るために命かけてレゲェパンクバンドやってます」

SiM / DEAD POP FESTiVAL 2021 DAY1 <FOR J-LOD LiVE>
冒頭MC

ライブに行くだけで叩かれた時期に、ソーシャルディスタンスを保って、叩かれるかもしれないリスク背負ってフェスをしたSiMのMC。
コロナ禍でたくさんのライブハウスが閉店し、ジャンル問わず色々なグループやバンドが解散に追い込まれた。

誰かにとっては「無くても困らない」「有害だと思うから無いほうがいい」ものでも、誰かにとってはそれが生活の要であり、生きる希望である。

私はサブカルのおかげで生きてこれたし、推しの夢や未来を守るため、お世話になった作品やクリエイターを守るため規制しようとしてくる人たちから守るために活動していきたいと思う。

今は党派を問わず、表現の自由を守る約束賛同議員の選挙活動の手伝いや、インボイス制度反対などできる範囲で活動している。

人によってできることもやりたいことも違うから、私のやり方や主張とは違う人もいるだろし、別の方法で自分の好きなものを守るために戦う人もいるだろうし、むしろ各自が得意分野で個性的に主張してくれた人が興味を持ってくれる人もいると思うから多様性を大切にしたい。

何が好きで嫌いか、巨乳や童顔、身長や好きな服は全部その人の個性であり、それを”特定の属性”として一括りにしてまとめて批判や対立を激化させるのは好きじゃない。

人間ひとりひとりの個性を尊重し、各自が好きなものを好きと言えて、安全が脅かされることなく創作や発表ができる社会。
それが自分の表現の自由を守り、実現したい未来であり、唯一の願いです。

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