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小説「喫茶ナゴリタン」 ①

1 ナポリタンじゃなくてナゴリタン



窓から射しこむ西日の強さで、僕の読書への集中は途切れてしまった。店内を見回し、ようやく見つけた壁掛け時計の針は、すでに4時を回っていた。時折こっちを見て噂話をしていた、おばちゃん達はもういない。


古い喫茶店には磁場がある。コーヒーやケーキの魅力以上に、その空間の帯びる磁気に吸い寄せられているのだ。長い間そこにあるであろうランプやソファー。壁にしみこんだコーヒーの香りと、喫煙者たちにいぶされたシミ。「変わらずにそこにある」という事実はやがて、近代化する街との摩擦を起こすのだ。そうして生まれた磁気によって、時間の流れが歪められているような気がしてならない。その証拠に、良い喫茶店ほど頻繁に「えっ?もうこんな時間か……」という声が聞かれる。


僕らは近所の古本屋で文庫本を一冊ずつ買い、「喫茶ナゴリタン」という店に入った。対面で座り、ろくに会話もしないまま、かれこれ一時間以上読みふけっていたことになる。


「マスミ、もう4時過ぎてるけど」

「え?ウソっ?!」


マスミは少しあわてて店の時計を見上げると、少しさびしげに本を閉じた。僕は残りのコーヒーにミルクを入れた。


「さっき帰ったおばちゃん達…たまにこっち見て、な~んかニヤニヤヒソヒソしてた」

「ふーん」

「あのカップル一緒にいるのに話もしないで、ず~っと本読んでるわよ…みたいな」

「そりゃあ…しゃべりたくてしょうがないおばちゃん達からしたら、不思議でしょうがないんじゃない?」

「まあね、これはこれで至福の時間なんだけどなあ」


僕らが付き合うようになったのは、だまって過ごす時間のバランスがちょうど良かったからかもしれない。僕にとっては話が合うかなんてことはどうでもいいことだ。聞く耳さえ持っていれば、どんな話題でもそれなりに楽しめるものだと思っていたから。むしろ沈黙のままで過ごせる時間の方が重要だった。一方的に自分の話を続けられたり、考え事をしたい時にそれを許してくれない人は、性別を問わず苦手だった。そんな僕のペースを変えることなく自然に接してくれたのは、マスミが初めてだったような気もする。


この店は沖縄出身の奥さんと内地出身のマスターが営んでいて。マスターの淹れる自家焙煎珈琲と、奥さんの作る風変わりなサブレーがうまいと聞いてやって来た。


「お水いかがですか?」

「あー少しいただきます」

「あ、私も」


普段は割とグイグイと人の懐に入り込んでいくタイプのマスミは、水を注いでいる奥さんに話しかけた。


「あの…お店の名前ってなんでナゴリタンなんですか?」

「あぁ、実はうちの店の看板メニューだったんですよ」

「それ、もうないんですか?」

「いえ、一応あるんですよ。沖縄そばの麺を使ったナポリタンのことでね」


奥さんはちょっと説明がめんどくさいような様子で張り紙のメニューを指さした。


「えっ…しかもナポリタンとナゴリタン両方あるし」

「え?あ、そういうこと!?、ナポリじゃなくて名護!」


思わず僕らは顔を見合わせて笑ってしまった。


「でもね、ほとんどのお客さんはとなりに書いてある普通のナポリタンを頼むのよ…」


奥さんがちらっと視線を送った先のマスターが少し照れ臭そうに笑った。


「ナポリタンとはやっぱりなんか違うんですか?」

「ほとんど一緒。でもやっぱり麺が太くてもちっとしてるから、食べ応えがあるかな…。あと付け合わせでゴーヤーの塩もみがつきますよ。箸休めになってちょうどいいのよ」

「へー、おいしそう」

「もともとはうちの家庭料理でね。母によく作ってもらってたの…お兄さんは沖縄よね?」

「あ、はい、名護です」

「じゃあ家で出てくることあるんじゃない?ケチャップ味のうちなーやきそば」

「言われてみれば…たまーにあったかなあ。でもうちは普通のソース味が多かったかも…」

「あー、ソースもあるわよね。ほら、うちのだんなは内地の人だから物珍しかったみたいでさ。なんか気に入っちゃったみたい」


マスターははにかんだまま、お湯をポットに移しかえている。


「マスミは食べたことある?」

「んーん、普通のソーキとかのってる沖縄そばしか知らないよ」

「少し食べてみる?」


彼女は小さく笑って頷いた。


「じゃ、すみません、一人前だけお願いしていいですか?」

「ありがとうございます。マスター!ナゴリタン一つ…お願いします!」


「はいよー」


マスターは返事と同時にフライパンを火にかけた。無駄のない動きで冷蔵庫を開けると、手際よくいくつかの材料を取り出した。


「なんで喫茶店のナポリタンってうまそうに感じるんだろうな…」

「ナゴリタンだけどね」

「あ、そうか……」

「なんかこうレトロな感じがするからじゃないの?」


マスミは店内を見まわし、古臭いシャンデリアに目を止めてそう言った。この店はもともとスナックかなにかだったのだろう。花柄の床や、二人掛けの濃い赤のソファーのデザインに、昭和バブルの香りが色濃く残る。


「でも昔スパゲティってナポリタンとミートソースくらいしかなかったよね」

「確かに。しかもいつの間にかみんな“パスタ”とかおしゃれに言うようになってるし」

「イタ飯ってのが流行ってからじゃない?」

「何それ?」

「え?知らないの?イタリア料理のことイタ飯とか言って、一時期めっちゃ流行ったらしいよ」



〝ジュワーッ!!〟

〝ヂッ!バヂッ!!バヂッ!!〟



上澄みのような会話に水を刺すように、ベーコンを炒める音が店に響いた。使い込まれた鉄製のフライパンで熱された油のにおいが一気に立ち上る。油がはじける音が食欲をそそる。マスターはフライパンをあまり動かさなかった。ベーコンの表面をカリカリに焼くためなのだろう。


〝シュォ~!!〟


次は玉ねぎだろうか。水分の多い野菜を炒める音が加わった。僕らの席からマスターの手元は見えなかった。しばらくすると、さらに少し低い音が加わった。


〝ズジューン~〟


スパゲティ…いや、沖縄そばが投入されたようだ。あらかじめ茹でられた、仕込みの済んだ麺らしい。


〝シューシューシュー、カッ!シューシューシューカカッ!〟


軽快にフライパンをふりながら、時々返す。マスターはトングなどではなく、さいばしで炒めているようだった。


〝シュシュウウウウウ~〟


ケチャップを加えたのだろうか。甘酸っぱい香りが僕らの席まで流れてきた。


「あー、これが喫茶店の匂いなんだ」

「え?」

「この油とケチャップの炒めた匂い」

「コーヒーの匂いとかじゃなくて?」

「うん、それももちろんそうなんだろうけど」

「この油の匂いなんだと思うなあ、喫茶店の匂いは」

「油の匂い……?考えたことないな…」


マスミはとても鼻が利く。以前に俺が体調が悪い時に見事にそれを当てて「風邪の匂いがする」と言ってのけたこともあった。なんでも呼吸器が炎症を起こしているときの匂いがあるらしいが、僕には全くわからなかった。


マスターは奥さんが用意していたお皿に手早く盛り付けている。タバスコと粉チーズをお盆にのせた奥さんが待ち構えている。


「はいっおまちどうさま、ナゴリタンね。あ~ごめんなさい、取り皿持ってきますね」

「やばっうまそ~っ!」


この時マスミは今日一番の笑顔を見せた。ケチャップのみずみずしい赤が光る。ただのケチャップではこうならないだろう。きっと何かひと手間入れているはずだ。奥さんが言っていた通り、ピーマンやパセリではなく、薄切りゴーヤーの塩もみが添えられている。さっと湯通しされているのか、ぐっと鮮やかになった緑色が映える。


「ごゆっくりどーぞー」


取り皿とフォークを奥さんが置いていった。


「お先にどーぞ」

「いいよ、先に食べたいだけ取っちゃって」

「へへ、後悔するなよ~」


マスミはそう言って、僕の想像よりはるかに多い、たっぷりの麺を自分の皿に取り分けた。


「ナポリタンってそもそもナポリにはないらしいよ」

「へぇ~そう言われてみると確かに和製英語っぽいもんね、なんか」

「イタリアじゃケチャップ自体ほとんど使わないらしくてさ、そもそも」

「じゃあホットドッグはどうすんの?」

「それは知らないけど……」


マスミは僕のうんちく自慢を、思わぬ方向から止めてみせた。それが意図的なのか無意識なのかはよくわからない。学校なんかでは、僕は何かとリーダーシップをとらされることも多く、同級生に論破されることなどはまずなかったが。マスミはたまにそれを一言でやってのけることがあった。


「ひょっとしてケチャップって日本人が作ったものとか?」

「そこまでは知らないけど……とりあえずナポリのパスタはちゃんとトマトでソース作るから、ケチャップは使わないんだってさ」


マスミの食べるペースは止まらない。食べっぷりがいいところも好きなところだ。


にんにくとトマト缶だろうか。ケチャップにひと手間加わっているから、もうほとんど本格的なトマトパスタの味だ。しかも沖縄そばだから麺が少し太くて平たい。当然モチモチして食感もいいのだ。昔、親に連れていってもらった店の、生パスタの食感に近い気がする。


「このゴーヤの付け合わせ、めっちゃ合うね!」

「ゴーヤじゃなくて〝!ゴーヤー″な」

「はいはい、すみませーん」


「うちなーんちゅは、どうしてもそういうの気になるんだって」

「それも聞きましたー」


少し不機嫌に口を尖らせたマスミは、フォークを置いて水をひと口飲んだ。


彼女の様に、名護は内地からの移住してくる人も多い。大学があるのもその理由の一つだろう。「差別は言葉から始まる」というのをどこかで聞いたことがあるけれど。変になまった方言を使われると、地元の人間はどこか小馬鹿にされているように感じることがある。無理して変な方言を使うよりも、標準語のままの方がお互い楽だと思うのだが。その相互理解が深まる前に「劣化した方言」が一足先に拡散している。


「がっついちゃったな……」

「本当おいしかった、ゴーヤー(・・・・)……のやつ家でもマネしてやってみよう」


僕らは「ゴーヤー」の発音のくだりの後は、やや気まずいままナゴリタンをほおばり続け、十分ともたずに食べ終えてしまった。


「あーあ、もうそろそろ事務所戻んなきゃな…」

「大変そうだね、選挙のたんびに」

「うん、でも昔からずっとだから、もう慣れっこだよ」


名護では選挙が近づいていた。代々うちの家系は保守系の政治家で、父は県議会議員をしていた。やがて僕にもそのお鉢が回ってくるのだろう。


子どもの頃は選挙が近づくと、よく母方の祖母の家に預けられた。スーツづくめの大人達が、実家を頻繁に出入りするようになるからだ。両親と一緒に過ごせない上、どこか落ち着かない家族の異様さを察して、夜が不安だった記憶がある。

もちろん父のことは大好きだったが、選挙の時だけは家の雰囲気がとにかくはりつめていて、子どもながらに不穏な空気を感じたものだ。だから僕は政治家にはなりたくないと思っていたし、父もそれを強いるようなことは一言も言わなかった。むしろ「お前はお前で好きな道へ進めばいいよ」とさえ言ってくれていた。

しかし不思議なものだ。これが血統というものなのだろうか。地域の人の相談にのり、その解決に汗をかき、信頼を集めて感謝される父。その姿を間近で見ている内に「自分もそういう仕事がしたい」という思いが、自然と強くなってくるのだから。


「俺にできることあったらなんか手伝うよ」


そう告げた時、父は本当に嬉しそうだった。


「お前もそんなことを言ってくれるようになったのか」


そう告げた日以来、僕は選挙があるたび、支援者へのあいさつや、パソコン事務の手伝いをすることになった。


そんな環境で育った僕は以前に一度、米軍基地の話題でマスミとケンカしたことがある。聞けばマスミの祖父は、命からがらシベリアから帰還した人で。その祖父の介護経験が、彼女を看護科に進ませるきっかけになったのだと言う。基本、彼女は人の命を脅威にさらす全ての要素を良しとしない。情に厚くて優しい性格なのだが、どこか理想主義なところもあった。


「基地なんかなければいいのに」


彼女がそうなんのためらいもなく口にした時、


「そんな簡単に言うなよ!」


と僕は感情的に反論してしまった。


僕は、絵に描いただけの理想論よりも具体的な状況の改善こそが、平和への近道だと思っていた。理想論に走っていては時計の針を止めたままになりかねない。たとえ誰もが「基地はない方がいい」と心の中では思っていても、この街では気軽に口にできない現実があるのだ。そんなデリケートな課題にずっと当事者として接する環境で育った僕は、軽口を立てられたような気がして、つい声を荒げてしまった。

その日以来、僕ら二人の間でも基地問題はタブーになった。そして、僕と彼女が将来一緒になるためには、越えなければならない大きな壁が存在することを思い知ったのだった。


彼女は僕なんかにはもったいないくらい素敵な女性だ。今でも本当にそう思う。でも僕はこの街で保守系議員の息子として生きていくと決めた以上、イデオロギーの違いはなかなか大きな壁だとも感じ始めていた。時に家族や近所の人たちを切り捨てる覚悟すら必要なのではないか。そんなことまで考えるようになっていた。今思えば僕の独りよがりな発想で、視野の狭い話でしかないとわかるのだけど。

もちろんその一件だけで、すぐにお互いを嫌いになったりするようなことはなかったけれど。一生一緒にいられる人ではないかもしれない……そんな思いが僕の心の中に芽生え始めたのも事実だった。その芽は徐々に枝葉を伸ばし、僕は少しずつ彼女との距離をおくようになっていた。おそらく彼女もその微妙な空気を感じ取っていたのは間違いない。



僕らが喫茶ナゴリタンを出て、駐車場へ向かう途中でスコールにあった。僕らは車に駆け込んでエンジンをかけると、ほとんど同時に空が光った。雷鳴が響く。あっという間に豪雨になった。ワイパーをつけたところでとても間に合いそうもない大雨だ。車のルーフを打ち付ける大粒の雨音でカーラジオはかき消されていた。あまりの雨の強さに僕は車を動かせずにいた。

窓を流れる雨は目隠しになり、雨音で遮断された車内は完全な密室になった。雷鳴にビクッとおびえるマスミと目が合った。僕は肩を抱き寄せようと手を伸ばしたが、彼女がシートベルトをしていることに気づいた。マスミは少し照れくさそうに自らベルトをはずして体を寄せた。髪も身体もスコールに濡れていたが、その体温は温かかった。僕らは静かに唇を重ねた。



「なんかナゴリタンの味がするよ」


「まじかよ…台無しやし…」



彼女は声を出さずに微笑んだ。僕らが一緒に過ごした中で、最も穏やかな優しさに満ちた時間だった。


僕はあの日のナゴリタンの味が忘れられない。


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