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小説「喫茶ナゴリタン」⑤

五 記憶を味わう木の精霊

名護には「ヒンプンガジマル」というシンボルツリーがある。樹齢が三百年ともいわれるその大樹は、国の天然記念物にも指定されている。

本来、名護から市外へ南下するときは、58号バイパスを直進するのが最短ルートなのだが。多少遠回りしてでもこの「ヒンプンガジマル」の前を通る人たちも少なくない。彼らは市外へ向かうときにはこの木に向かって「いってきます」と告げ、戻ってきたときは「ただいま」のあいさつをするのだと言う。地域にゆかりの深い人にとっては、このガジマルの木は地元の玄関口を守る神様のような存在なのだろう。エミコもそんな風習を持つ人間の一人だった。


「ガジマルさん、いってきますね……」


そう言ってエミコは母がいる老人ホームへと車を走らせた。



   *



「エミコってきれいになったよなあ」

「ササァ……」

「内地行ったら帰ってこないタイプかなあと思ったけどさー」

「ササァ……」



ガジマルの木は葉音をたてて静かに気根を揺らしていた。ヒンプンガジマルに住む精霊、マールーの問いかけにも近頃はほとんど反応を示さなくなっていた。木の周囲はすっかりアスファルトで固められ、もう何年も前から根詰まり状態になっている。なけなしのエネルギーをふりしぼるように新芽を吹いては、ここまで生き延びてきたのだが。2年前の台風を受けて以来、回復に費やすエネルギーをいよいよ捻出できなくなってきている。



「エミコが小さい頃はさー、俺の仲間もいっぱいいてさー、みんなで魔物(マジムン)やいじめっ子から守ってやったもんさー」

「……」

「エミコはアメリカーの血が入ってたし、頭もイイ子だったしなー、うちなーに留まるタイプじゃないとは思ったけど」

「……」

「伝説の男、サイオンみたいな顔したダンナ連れて帰ってきやがったなあ」



強い海風が吹き、ガジマルの枝葉を大きく揺らした。その反動で勢いをつけたかのように、ガジマルは重い口を開いた。


「人間ハ変ワル、生キ物ハ成長スル、木ハヤガテ枯レル」

「枯れるとか言うなや…また魚のアラを持ってきてやっから、元気出せってば」

「……」

「カラスにばっかり食わさんで」

「マールー、山へ連レテッテオクレ……」

「そらぁ、魂を運ぶのは俺の仕事だけどさー、明日の満月じゃ早すぎるって、もう少しふんばってくれよ……」

「大キナ暦ガ動イテイル、モウ戻レナイ……」

「勝手に決めるなや……魂の抜けた枯れ木で眠るのなんて俺はごめんだよ……」


マールーは声のふるえをごまかすように、少し上ずった声で答えてそっぽを向いた。


ガジマルは三百年近く生きてきた。そしてこの町で暮らす人たちを何代にもわたって見守ってきた。でも今は人間が自然をコントロールする時代に変わりつつある。その変化は短期的には有効なこともあるかもしれないが、将来待ち受けているリスクは計り知れない。開発が進み、経済的に豊かになりつつある街。マールーたち自然界の精霊にとっては、生きづらい時代になってきていることは確かだった。鉄骨というギプスで枝を守られたガジマルも、何とか生きながらえてはいたけれど、確実にその限界が近づいていた。


「マールー、愛スル我ガ子、宝物、アリガトウ……」

「ガジマル……?」


そのままガジマルは眠ってしまっていた。もう明日まではもたないのかもしれない。このまま明日の晩まで目を覚まさなかったら、山奥にある水鏡のところへ、ガジマルの魂を連れていってやろうとマールーは決めた。そして深いため息をついたとき、はりつめていた心が緩んだのだろうか。ひとすじの涙が頬を伝った。

涙をぬぐってふと商店街の方に目を向けたとき、提灯の明かりがともり始めた。次々と提灯に明かりがともっていく。桜祭りが近づいていた。


青年会の若者たちだろうか。祭りの準備に忙しない様子だった。街を盛り上げるために黙々と働く人間の姿は美しかった。マールーはそんな姿をガジマルの幹にもたれて眺めながら、栄養満点の大好物、魚の目玉を飴玉のように口に含んだ。


自然は人間に生命を与えることができ、人間は自然を守る能力に長けている。なのにどうしてたびたびバランスを崩してしまうのだろう。どうしてすぐに自然への畏敬を忘れてあぐらをかいてしまうのだろう。近頃はキジムナーの姿が見えない子どもが増えてきている。添加物たっぷりの食事による満腹と引きかえに、魂の感度を落としているのかもしれない。そして多くの子ども達がアレルギーにさいなまれている。


マールーは島の食べ物しか口にしない。それが何よりの薬だとガジマルに教わったからだ。生まれた場所で手に入るエネルギーを吸収することによってこそ、生命はその土地で生き抜くための身体を作ることができるのだと言う。しかし多くの人は、島の外から取り寄せた高純度のエネルギーを選んできた。それを吸収することによる進化の方を望んできたのだ。

 そして徐々に人体では処理しきれない毒がたまってくると、やがてそれは海へと注がれるのだ。河川を通じて、山からの湧水として、浄水場からの処理水として。海とそこに住む生物たちは、人知れず、だまってその毒を浄化し続けているのだ

マールーの好物、魚の目玉には、栄養だけでなく生命の記憶が詰まっている。生命が海から陸へと移り住む時の進化の過程。戦争犠牲者たちの焼け溶けた血肉と無念の歴史。経済成長と環境汚染の系譜。自然と人類の間に起こる事象の全てを、魚は網膜に焼き付け記憶してきた。精霊たちはその記憶をなめながら、時に自然を通じて諭しているのかもしれない。愚かな人間をからかうように、地球の記憶を伝承するように。

生命は記憶を食べて生きている。人間はそのことをもう一度学び直すべき時期なのかもしれない。

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