見出し画像

小説「喫茶ナゴリタン」⑥

六 ケチャップ炒めと人となり


「ミキミキ、ツンパ、カルテイハ?イエスカノーカ、ハンブンカ?」

「はぁ?」

「反対から読んでみろよぉ~へへ」


 男子達からのちょっかいや嫌らしい視線に少々過敏になっていた時期がある。祖父がアメリカ人だったこともあって、私は少し身体の発育がよかった。とはいえ小中学生の男子がやることと言えば、せいぜい下品な悪口と幼稚ないたずらくらいなものだから。知らないふりやそっけない態度をとるだけで、たいていのわずらわしさからは逃れられた。

 それにいざという時はいつも母が守ってくれた。私以上に濃いアメリカの血が流れていた人だ。きっと母が受けてきたいじめの方が、程度もきつかっただろうと思う。今と違って人権感覚なんて無いに等しい頃。戦後間もない時代のことだから。

 私は「ガイジン」とか「あいの子」という言葉のナイフでどんなに深く胸をえぐられたとしても、すべて母に打ちあけてしまえばそれで安心できた。母は私にとって、強くて優しい憧れの女性だった。



「エー!ガイジンボインッ!」



 ある日、買い物帰りに酔っ払いにからまれて、すれ違いざまに突然、胸を鷲掴みにされた。いきなりのことで一瞬何が起きたかわからなかったが、私はすぐに汚い手を振り払い、全速力で走って逃げた。緊張と恐怖で張りさけそうな心に、悔しさや悲しみがこみあげ、こらえきれずに涙があふれた。涙で呼吸が早くなり、余計に激しく脈打つ心臓。その息苦しさに耐えながら、もつれて転びそうになる足を必死に前へと押し出し、やっとの思いで私は自宅に駆け込んだ。すぐに母は警察に連絡をして、すぐに警官が事情を聴きにやってきた。確かにパトロールは増やしてくれたけれど、その後、犯人が捕まったという連絡はなかった。

 痴漢やいじめに理屈なんて通じない。たった一度で被害者の心の急所を突き、恐怖心を注ぎ込むからだ。それほど強い殺傷能力がある上に、消えない後遺症まで残す。私は未だにあの商店街の裏通りへ一人で行くことができない。傍から見れば「運悪く悪質な痴漢にあったかわいそうな子」で終わってしまう話なのだろう。私だって頭ではそう理解することはできる。でも問題の核心はそこではない。思春期だった女子への痴漢は絶対的な急所だ。通り魔に合った人間の苦しみを、どう表現すればいいのだろう。第三者に伝えることなどできるのだろうか。あの屈辱を思い出すたびに、私の胸元に獣の手が伸びてきて、今も私を震撼させる。とにかく性犯罪は、法的な罪罰と、被害者に与える傷の深さの間に、大きな隔たりがありすぎる。


 私は子どもながらに、背の高さや日本人離れした見た目のせいで目立ってしまうことを理解していた。だから自然と地味な服を選ぶようになったし、肌の白さを隠すため、わざと日焼けするような工夫もしていた。自分らしさを抑えること、引っ込み思案でいること、絶えず人目をうかがうこと。これが自分を守る術だった。思春期に沁みついてしまったその感覚は、大人になった今も少なからず残っている。

 幸い私はさほど勉強をしなくてもテストの点数をとることができた。だから「ガリ勉キャラ」さえ守っていられたら、全てが無難におさめられると信じていた。それ以外に自分の居場所を守る選択肢が思い浮かばなかったのだ。我ながらこの戦略はなかなか有効で。女子同士の派閥闘争や、クラス内カーストのバランスをはかっていく上でも大いに役立った。

私の通っていた中学は大多数の不良男子と、そこに憧れる女子で構成されていた。授業をサボれることが彼らのステータスであり、公共物の破壊は勲章であり、日直やそうじといった真面目な行いはむしろ堕落。だからクラス内では私を含む数少ない真面目メンバーだけで、その持ち回りさえこなしておけば、たいがい丸くおさまるわけだ。

 そんな私の地味な中学時代に、唯一仲が良かったのがナオコだった。彼女のお父さんは内地出身の大学の先生で、お母さんが地元の人。ナオコは私なんかよりずっと頭も良くて、不良男子とも普通に会話ができる明るい子だった。そして私とは洋楽が好きという共通点もあった。


「ねえエミコ、この前の英語の時間に習ったビートルズの曲覚えてる?」

「あぁ、LET IT BEでしょ?アルバムがあるよ」

「え?マジで!それ今度借りれる?」

「うん、たぶん大丈夫だよ。一応お父さんのだから聞いとくね」


 私は基本自分ではCDを買わず、もっぱら父のコレクションを聞いているだけだった。だからビートルズとかカーペンターズとかイーグルスとか、だいぶ昔の曲しか知らなかったのだ。でもナオコはマライアキャリーとかティーエルシーとかニルヴァーナとか、新しくて色んなジャンルに詳しかった。私たちは毎週末、お互いCDの貸し借りをして、家の前でおしゃべりするのが一番の楽しみだった。

 今思えばナオコは藤原という内地の苗字だったから。「地元の人間ではない」という生きづらさも少し感じていたのかもしれない。とにかくこの辺りの地域は「地縁」や「血縁」がモノ言う世界で。不思議とそれがある者とない者の間に、見えない線が引かれてしまう傾向があった。私たちが仲良くなれたのは、たまたまそういうしがらみが薄くて、「外の血」が流れている者同士という共通点があったからなのかもしれない。


 でもそんな平和な時間はそう長くは続かなかった。


 中学二年の三学期のこと。急遽、ナオコが引っ越すことになったのだ。卒業まで一緒にいられるはずだったのに、お父さんの転勤が前倒しになってしまったのだ。

 さらに悪いことは重なる。ある日突然私は、うちの学年の番長である健也からの告白を受けてしまったのだ。


「あの、やっぱりごめんなさい。気持ちはとてもうれしいのだけど、今は誰かと付き合うとかそういうこと全然考えられなくて……」


 そう伝えた翌日から、彼のとりまきの男子はもちろん、親衛隊とも言うべき女子達からも露骨に避けられ、睨まれたりするようになった。最初はそんな些細なことで……と思ってさほど気にかけてはいなかったし。時間が解決してくれると思っていたのだけど。私が健也をふった話にはあることないこと尾ひれがついていき、風化していくどころかエスカレートしていった。そしてじわじわと学年全体からの無視へと発展していった。

 もちろん、そんな時もナオコはずっと一緒にいてくれた。むしろ彼女も私の巻き添えになって、無視の対象になってしまった部分もあったのだけど。彼女は変わらず笑顔で一緒にいてくれた。そして私のことを強く心配したまま、彼女は内地へ転校していったのだった。

 彼女がいなくなり、中三に上がった頃にはもう、私の孤立をフォローしてくれる人はいなかった。そんな状況を意に介さず、健也はだまって硬派を決め込んでいた。かたくなに他の女子と付き合おうとしなかったのだ。おかげで私は親衛隊の女子達から「健也を傷つけた女」「健也の心をもてあそぶ女」「調子に乗ってる女」というレッテルを張られていた。中学三年の一年間、私にはまともにクラスメートと会話をした記憶がない。


 もちろん頼れる母に相談して、それなりに意を決し、担任に親子面談を持ちかけたこともある。でも当時の担任は生徒である私と向き合うことよりも、校長や教育委員会へのメンツばかりを気にして言葉を濁すばかりだった。そんな担任の姿勢に嫌気がさした母は


「もう話し合うだけ時間の無駄ですね!」


そう捨て台詞を吐いて、早々に面談を切り上げたのだった。


 その帰り道、母は私を街で一番有名なステーキハウスへ連れていってくれた。


「エミコ、あんたはどうしたいね?西中に転校する?あの腰抜け先生が言ってたみたいに保健室登校で卒業までねばるね?」

「う~ん、今さら転校するって言ってもなんか……西中遠いしさ……」

「それくらい何とかなるわよ、父さんか母さんが車で送り迎えすればいいんだから」

「んーん、そんなのいいよ。お店の仕込みとかもあって忙しいんだし」

「またあんたはすぐ遠慮ばっかりして!困った時くらいちゃんと親に甘えなさい。一応、母さんたちはあんたの親なんだからさ!」


 母の声は少し震えていて、やり場のない悔しさがにじんでいた。私は母の顔が直視できなかった。ちょっと肉の固いステーキをギコギコナイフで切りながら、私は自分の気持ちにもふんぎりをつけたい気分だった。


「うん、じゃあ一個だけわがまま言ってもいい?」

「なんね」

「高校、私立に行きたいんだけど」

「し、し、私立?」

「うん、中学はこのまま保健室と教室を行ったり来たりしてねばるからさ、どうせあと一年もないんだし」

「でも、なんでわざわざ遠くの私立なんか行くわけ?」

「内地の大学行けるように勉強する」

「あいや、あんた高校私立行って、大学も内地に行くつもりね?」

「やっぱり、だめ?」

「うーん、まあそりゃあ、母ちゃんだって応援はしてやりたいけど。学費とか仕送りとか、それなりに先立つものが必要なるからさ……」

「うん、わかってる。私もできる限り奨学金取ったり、バイトしたり頑張るからさ」

「う~ん」


 結局肉を切れなかったナイフを置いて、私はちょっと語気を強めて言った。


「もうなんかこの辺の人とだけ付き合ってたら、頭がおかしくなりそうでさ……」


 そう口にした途端、押しこめてた感情が堰を切り、止める間もなく涙に変わった。


「もっとナオコみたいな普通の友達を作りたい……」


「えー……そんな泣かんの……。本当にごめんなあ、母ちゃんがアメリカーの血のせいで、あんたにまでこんな思いさせて……」

「……」

「だー、もう思う存分泣いたら早く涙拭きなさい、あんたのそんな顔見てたら母ちゃんまで泣きたくなるさ!」


 二人で涙を拭きつつ、鼻をかみつつ、先に気を落ち着けた母が口を開いた。


「まあ、確かに、この街だけで一生を過ごすのは賛成しないよ、母ちゃんだって」


 私は無言でうなずいた。


「これだけ変化の激しい時代に、一生ここで暮らしていたんじゃ、世の中から乗り遅れるはずね」


私が顔を上げると、母はいたずらっぽく続けた。


「それにこの街にはあんまりいい男もいないしねえ?」


「フフ、だよね……」

「なんね、あんた急に元気になって!内地行きたい本当の目的は男あさりね~?」

「男あさりって、母ちゃん口悪すぎやし……」

「はっさ、やっといい顔なってきたさ。とりあえずまあ、あんたの気持ちはわかったからさ。父ちゃんには母ちゃんからうまく相談してみるさ」


 そういって母は無料のコーヒーをもう一杯お替りした。


「でもあんた、私立行くんだったら、しばらくここのステーキはお預けだよ。それでもいいね?」


 母は笑ってそう言ったが、本当にステーキが食べたいのは母ちゃんの方なのだ。私はむしろ母ちゃんの作る「うっす~い豚肉のケチャップ炒め」の方が好きだった。



 その数年後、大阪の大学へ進学し、一人暮らしを始めた私は豚肉のケチャップ炒めを作ってみたことがある。母の味を想い出して、玉ねぎとキノコと豚肉を炒め、ケチャップで味をまとめる。たったそれだけのレシピのはずなのに母のそれとはまったく味が違っていた。どうやらケチャップだけで味付けをしていたわけではなかったらしい。ガーリックやスパイスやトマトの缶詰を少し使って、味付けしていたことをだいぶ後になって、母から聞いた。


 母は豪快にふるまうことで相手に気を使わせない人だった。一見楽天的なようで、実は細かい気配りをする人なのだ。ケチャップで適当に作っているように見えて、細かい火加減はもちろん、色々な隠し味を入れて、繊細に味を整える。そんな料理のやり方は母の性格そのものだったような気がする。私にとって、豚肉のケチャップ炒めは母の人となりを感じられる、大事な実家の味なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?