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卑しいレトリックーー鈴木政男『人間製本』

第一審で初めて法廷に立ったとき裁判長が家庭についてたずねた。家庭のことは取調べずみなので、何をきくのかわからなかったが、裁判長にききかえして親子のあいだが円満かという意味だとわかると、勉次は相手を見さげはてて吐のなかでくちびるをそらした。政治犯人の審問に家庭問題を持ちだすことが卑しいレトリックに思えたと同時に、「たとえおれが掏摸(すり)を働いたのだとしても、それャおれ一人のせいなんだ。」と言いはなちたかった。

転向文学として有名な中野重治「村の家」の一節である。果たして、政治の活動や運動のなかで家庭や家族を主題化することは「卑しいレトリック」なのだろうか。『人間製本』もまた、ストライキの主軸要員、白石徹男の家族との葛藤が描かれる。

『人間製本』においては、いくつかの封建的主従関係が描かれている――太陽印刷と下請け会社である坂田製本工場のズブズブな関係、坂田製本工場内における職人気質がもたらす独特な信頼関係、そして白石家における家族内の父権制。こういった社会構造の矛盾をあぶり出す配置の見事さと、さらにはそこに息づく労働者たちの生活実感に基づいた人物描写はたしかに魅力的である。演劇研究の藤田富士男は「ポジティブな部分もネガティブな面も併せて描き出そうとする鈴木の捉え方は、戦前のプロレタリア演劇時代には希な描写方法であり、職場作家がまさに自我を克ちえて自立した姿を表わしている」としているのも、頷ける。

二・一ゼネストを目前にした時期に舞台を設定し、日本における資本家と労働者の階級闘争の必要性とその運動の機運を寿ぐ『人間製本』という演劇において、ドラマの部分、つまり人間の変容という観点での、中心的役割を果たしているのは、白石徹男である。様々な封建的な関係が白石徹男という人物には凝縮して押し寄せており、「ぼくは、坂田も含めた敵の階級をね、もっと心の底から憎むようにならなくちゃいけないと思ってるんだ。(はげしく)たとえ、それが肉親であった場合でもね」と意識的・自覚的に階級闘争の運動家としての意識変革をもたらそうとしている。それに対して恋人の道子は「あたし――あなたのような気持にはなれないのよ。あたし……なれないわ」と返す。

戦中・戦後の労働者演劇を研究する小川史は「このやりとり(引用者注:第三幕の徹男と道子の会話)は,『人間製本』のなかでももっとも重要な部分である。おそらく、この『なる』、つまり階級闘争へ向けた主体の変革をめぐる、懐疑、羨望、恐れが『人間製本』の根本的なテーマであり、そればしばしばこの脚本について言われるような社会矛盾の構造的な認識という問題を凌駕するものである」と述べているが、非常に興味深い指摘である。演劇の魅力の一つは、目の前の役者の身体や意識の「変容」に他ならないからである。

中野重治が「卑しいレトリック」と書いたのは、自らの活動の領域と自らの生れの問題とを同じ目線で判断されることによって、活動の領域での「矛盾」や「苦悩」が家庭の問題へとすり替えられることを忌避したからである。白石徹男の場合には、会社の下請け問題や労働者の目先の生活資金の問題、封建的な権力構造への立ち位置の問題が家庭においても発生しており、『人間製本』において活動領域での問題が家庭の問題への矮小化されているわけではない。白石徹男の主体の変容――生れてきた環境と自らの理念との矛盾、それを見つめ、自己批判を通して新たな自意識を生み出す――を通して、坂田製本工場の人々も、さらにはそれを見ている観客たちも、階級闘争における困難さを共有しながら、ストライキへと踏み出す必要性を実感することになる。そのとき運動と家庭との関係は、「卑しいレトリック」というよりもむしろ、階級闘争のなかでは家庭も職場も同じ地平に存在する、いや、自らの家庭の封建制を打ち壊すことによって、自らに巣くっている封建制を内破し、階級運動のまったき闘士として生れ直す。「たとえおれが掏摸(すり)を働いたのだとしても、それャおれ一人のせい」ではなく、社会や環境の複合的要因によるのである。

『人間製本』は1949年3月に新協劇団によって上演される以前に、1948年7月に大日本印刷の職場演劇として東京自立劇団協議会のコンクールで上演されている。白石徹男が勤務する太陽印刷は「市ヶ谷の壕端にある会社」とあるように明らかに大日本印刷そのものがモデルとなっている。さきほどの小川史は労働者演劇の特徴として「表現が主として資本家一労働者という権力構造のなかで労働者の政治的表現になる潜在性をつねに秘めていたことである」と書いているが、『人間製本』には「潜在性」というより明らかに自らの会社を非難する部分が露骨に含まれる政治的演劇であった。太陽印刷会社の宮内常務が登場せず、舞台上において再現されないのは、そのあたりの「政治的」配慮があったのだろうか。鴨川都美の論文からの孫引きだが、「大日本印刷なぞ、会社が八万円とか装置費を寄附したとかいふ」という藤森成吉の証言はその点で興味深い。

描かれない部分ということで言えば、二・一ゼネスト運動の顛末である。マッカーサーによる中止命令が発され、共闘委員長である伊井弥四郎はラジオでこう語った。「私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います」。この後に続く「一歩退却、二歩前進」はとくに有名である。

『人間製本』のラストに鳴り響くメーデー歌とインターナショナルはあえなく進駐軍のアメリカによって骨抜きにされた。そのときの白石徹男の姿は、べたりと土間にくずれ、放心したように退場した白石靖造の姿と重なるのだろうか。

※鈴木政男『人間製本』(『テアトロ』一九四九年・三月、『現代日本戯曲大系』第2巻所収。)


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