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アニソン会、そして『優しい音楽』について思うこと


・イベントに来てくれた方や、僕の言葉にのほほんと耳を傾けてくれる人に向けての記事になります。

当日大体の人とは話をすることができたのですが、余り時間をとれなかったり、雰囲気的に真剣な話ができなかったり、疲労で頭が回らなかったりしたので、ここにちゃんと書き記します。

1万字くらいになったので、ブックマークするかフォローするかしてくれると読み進めやすいです。


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・2023年9月都内某所にて。今や恒例になりつつある(といっていいのか?)、友人知人を巻き込んでの音楽イベントを開催しました。

今回はアニソン弾き語り企画。
題して「アニメヲタクは電気鼠の夢をみるか」です。

・タイトルをどうするのか、共催の和田くんと相談しながら色々と迷っていたのですが、本番直前くらいに僕がえいやと名付けてしまいました。

定番だし可愛げあるかなと思いつつも、「ポケモン贔屓すぎるか?」と不安に思っていました。なのでみわちゃんがポケモンの「Together」を歌ってくれて安心しました。技名が織り込まれた歌詞が本当にキャッチーで秀逸です。


でも僕は「バトルフロンティア」の方がちょっと好きです。高校時代に合唱で何度もやっていたので。



会場BGM

・なぐもくんから頼まれていたので、会場BGMにしていた曲のリストを共有します。


事前にアンケートで、皆んなの好きなアニソンやアニメを集めて、そこから抜粋しました。

・アンケートの項目に「あなたにとってアニメとは?」といったことも書けるようにしていたのですが、そこは活用できず申し訳なかったです。

特にその情報は開示する予定も今後使う予定もありません。何か企画内でミニゲームとかするなら使えるかなと思ったのですが、それほど時間やリソースに余裕がなかった感じです。
でもそういった余分なことがあるのも、なんかいいかなと思ってたりはします。





・以下、やるまでに起こっていたことや、どんなことをやりながら思っていたのかを話していきます。

話が飛躍するだろうし何転かすると思うので、上手いこと噛み砕きながら読んでほしいなと思います。



経緯

・今回は和田くんが一緒に企画と運営をしてくれました。
そうするに至った背景を話すと、まずは僕から和田くんに「一緒に何かやらない?」と声をかけたことが始まりです。
今年と去年のGWに皆さんご存知の通り僕はライブを企画したのですが、和田くんがどちらにも出演していなくて「一緒にイベントやりたいな…というか和田くんの歌聴きたいな、、!」と淡い想いが募っていました。

なので「だったら直接声をかけて一緒にやればいいじゃん」という発想の転換をしてこちら側に引き入れました。

つまり「お前も鬼にならないか」論法です。




・あと細かい話にはなるんですが、46代卒コンにて、和田くんが新発バンドのMCで「また一緒にやろう」という風なことを言っていたのを覚えていて。
「ああ凄い、この人は不確定な未来に対しても意志を示すことができる強さを持っている、素敵だ、頑張って欲しい」と感動しました。
それで「きっと僕が良いなあと思うことを一緒に良いと思ってくれる可能性が高いぞ!」という想いや期待がありました。


あと、一緒に散歩したり遊んだりバンド組んでくれたりと、いろいろ関わりが深く気の置ける友達というのも理由の一つです。

なぜ2人でやりたかったか

・去年やったBUMP会同様に1人で運営をする選択肢もあったのですが、今回は2人でやってみました。理由は

1.自分の心と身体の体力が保たない

2.発案者が自分とはいえ、自分以外の血肉が通ってほしかった

という側面があったからです。

・やっぱり自分一人でやることには危険性やリスクが伴うと思っています。
だって「体調不良で回せなくなったら色々終了してしまう」し、僕だって「不出来さや問題などの諸々を抱えているので、舵の切り方を間違える可能性がある」からです。

数人の仲間うちで飲み会をするだけなら、そこは懸念しなくても良いと思います。
ただ数十人以上集めるとなると「安定性」や「公共性」や「安全性」があったほうが良いと思っています。
もちろん、それを完全に保証すべきだとは考えていません。本当の意味での公を目指しているものではないので。

ただ、そういった目配せがあるのと無いのとでは、参加者の心理的な側面で大きな違いがあるし、長い目で見たら大切にしたほうがいい事柄です。

そのために取れる選択肢の中で最善策かつ最も目的に誠実な手段として
「同じ目的や熱量を持つ別の人間の血肉が通う」という手段をとりました。

細々と話してしまいましたが、要するに一人より二人でやる方がメリットが大きめだったということです。


ですので、和田くんへは途方もない感謝があります。実際、自分の体力と気力に限界がきていたタイミングもあったので本当に助かりました。

当日の進行や買い出し、スケジュールや連絡の管理などなど。すごーくありがたいです。僕より仕事忙しそうなのに。




なぜアニソンなのか→「童心に還る」「素直になる」というテーマ

・テーマをアニソンにした理由は大きく2つあります。
まずは周りには結構アニメが好きな人が多い気がしていて、楽しんでくれる人が多いのではというのが1つ。

そしてもう1つは「童心に還る」こと、つまりは「素直になる」ということが和田くんとの共通で大事にしたいテーマだったからです。


・「童心に還る」そして「素直になる」ということ。
このテーマってどういう意味なのか。ちょっと漠然としてるなと思ったので、終わってからもう少し考えてみました。
また46代の卒コンの話になるのですが、留学生だったドラマーの子(名前わかんなくてごめん)がMCで「もし悩んだら子どもの頃の自分に聞いてみて」というのを言っていて、本当にそうだよなと思った記憶があります。

彼のあの言葉の本質は「素直な自分になれ」という意味なんじゃないでしょうか。


あと、僕が4年の時に昭和記念公園でお別れ会みたいなのをしてもらったのですが、
その時にみんなの前で「初心を忘れないこと。楽器を始めたばかりの何もできないのにワクワクしていた自分のことを思い出してあげて」ということを話しました。

今思えば、それも全く同じことを言いたかったんだなと思います。


・一方で「強く生きる」「一人で生きれる」が正解みたいな世の中にもなっているなあと思うんですよね。

そのために武装して鎧を着込んでいる人をよく見かけます。身体でなく心に鎧を来ている人のことです。

たしかに、今は簡単にインターネットを通じて悪意が飛び交う時代だし、まともじゃないチクチクボールでキャッチボールをすることも「ビジネス」とか「マナー」として必要とされるような社会ですから。
常に臨戦態勢、鎧を来ていて当たり前みたいになっても仕方ないような気がします。


でも素直でいることや、そのままでいることが難しくなってしまった世の中だなと思います。

そうやって鎧を着ている人の声って、全然聞こえないです。
人に伝えるための声のはずが、鎧の中ばかりを反響して、いつのまにかその人が自身に言い聞かせてるだけみたいになっている。そしてそれに気づいていない。

そういう人の声って、やっぱり篭ってるしこちらの応答も伝わらないし、話しているはずなのに何もお互いに浸透してこないなと感じます。
強くいようとして自分を守ってばかりだと、相手に言葉は届かないです。




・コミュニケーションの原点に立ち返ります。
本当に伝えたいことって何なのか。伝えるとはそもそもどういうことなのか。

その出発点に立ち返ると、まず一番には「素直さ」「実直さ」が必要なんだと思います。

つまり、よく息を吸い、考え、自然に声を出すということ。
急がず焦らず地道に言葉を紡いでいくということ。


・僕はその重くて息の詰まる鎧が脱げたらいいのになって思います。息苦しいし「素直さ」「実直さ」の妨げになるから。

鎧が必要な瞬間もあるかもしれませんが、出来る限りは鎧を脱いで少しでも素直でいられる時間や機会が増えたらいいし、僕の作る企画はそういう場所にしたいです。
弱くても安心していられる場所、素直でいることが許された空間。

中々見当たらないけど、たしかにあったほうがいいものだと僕は思っています。


そして、素直になった人の言葉や音楽は、取り繕いがなくて素敵だと感じますし、誰かの心を動かすような耐久度や美しさがあるように思います。

・「童心に帰る」っていうテーマは子どもの頃の素直だった時みたいに、あなたのそのままの声を聞かせて、という意味なのかなと思います。そのためのアニソンです。


うーん、アニソン。素晴らしい。


なので、みんなが各々懐かしいことを思い出している様子や、素直に聞き浸っている様子がすごく愛おしかったです。
素直でいられるのって、やっぱり幸せなことだなあと改めて感じました。



演奏とかの感想

・急に人並みの感想に移りますが、たくさんの人が来てくれて本当に嬉しかったです。

始まるまでがすごい不安で心配なので。いつも必要以上に不安になってしまうあたりマジで性格が責任者向きではないなと悩んでいます。

だけどトッパーを務めてくれた(務めさせてしまった)りおちゃんの歌が始まった途端「あ、これは良い日になるな」と確信が持てて、安心して気が抜けてしまいそうでした。

スケッチブックにイラストを書いてきてくれたのも、すごく良いなあと思いました。どう考えても普通はそうならないじゃないですか。あと睡眠時間は大切にしてほしいんですが、大丈夫なんでしょうか。

でも、僕はこういうちょっと狂気じみた愛を持つ人がとても好きです。

なぜなら、採算度外視の愛情には他にない強い輝きが宿ると信じていたいし、
誠実に捧げられた愛情は、よく常識を飛び越えて自由さを獲得するからです。

りおちゃんが自由にアニソン愛を炸裂させてくれたことで、みんなも「この会は力を抜いて自由に楽しんでもいいんだなあ」と思えたんじゃないでしょうか。

そういう意味では、りおちゃんが最初にやってくれて本当に良かったと思います。
あと、りおちゃんは聞き手へ上手いこと気遣いをしながらも愛を暴走させますよね。

器用で変な人だなとも思いました。本当によく寝てくれ。



「誰か」に向けて歌うということ

・他にも印象に残った場面があります。

ゆうじとみらいちゃんは放課後ティータイムのカバーをしてくれたのですが、二人ともに共通していたこととして「あの頃の自分に向けて」とか「これからの自分のために」というような形で、

つまりは自分を救ってあげるために歌を歌っていて、それってすごく素敵で優しいことだなと。

今回は、想いを馳せた相手が「過去や未来の私」ではありましたが、
それは「自分以外の誰か」を想うことと本質的には同じ作業だからです。


そこで共通して大事なのは人間への想像力で、そういう想像力を持って歌を歌える人は、「誰か」のために何かを想える強さを持っているなと思います。



誰かのために歌われた音楽というのはとてもとても美しいし、自分に向けられていなくても、いつまでも聴いていたいなと感じます。


アニソン会自体、もしかすると「あの頃の私に向けて歌を歌う」というような優しいコンセプトと隣合わせだったのかなとも思います。



「変わることで、変わらないであり続ける」という話 To:なぐもん

・なぐも君が『変わらないもの』を演奏する時に言っていた「変わっていくことがある一方で、変わらないことがある」というような話について。

彼はそれを上手に言葉にできない一方で、演奏や歌に通して形にするという行為を選んでいたのがすごく素敵でした。

それにしても良い曲というのは、その時々で演奏者から込められる感情が違っていても、ちゃんと輝くことができる耐久力のようなものがあるなと思っています。



・僕もなぐもくんも、というか僕たち周りの世代は皆んなそうだと思うのですが、

コロナ禍の大きな変化の波に揉まれる中で「変わっていくことを良しとしていいのか、もしくは変わらないでいることを良しとしていいのか」を考えたことがあるんじゃないでしょうか。

世の中でも、変わらずにいるvs変わる必要がある、みたいな多くの摩擦が生まれていたように思います。

・僕がその時を過ごす中で得た結論は「変わることで、変わらないであり続ける」でした。

何より僕が大学を卒業して、社会人になる中でもこうしたイベントやライブを企画するのも、まさにその結論に基づいて行動しているからです。
今までには無かったことをやってみることで、今までと同じことを大切にしているのです。


・アニソン会当日の思い出ですが、会が終わったあとに10人くらいで残って一緒に飲んだりダーツをしたりボードゲームをしました。

そうやって皆んなで遊んでいる光景は、大学生だった時に感じていた部室の風景や温度と全く同じでした。

それは僕のかつての宝物で、大切な思い出で、コロナ禍に奪われてしまったものでもあります。

なので、「こんな日は今までになかったけど、今まで大切にしてきたことと同じことを大切にしているな」と思えて、とても嬉しかったんですよね。




・僕の結論の「変わることで、変わらないであり続ける」というのはもっとちゃんと言い換えることができます。


「大切なものに宿った大切さはずっとそこにあり続ける。
ただ時間や出来事が起き続け、僕たちの側がいつのまにか違う場所に行ってしまうだけ。
だったら目を向ける角度を変え、焦点の当て方を変え、そして手の伸ばし方を変えること。
それが大切なものを大切にするということ」


という風になります。



・卒業して、今こうして生きる中でたくさんの変化がありました。

そもそも昔の自分は、今と人との関わり方も違っていたし、音楽との関わり方も違っていたし、もっといえば根本的に生活や生き方や生きる目的が全部違いました。

これは自己啓発に成功して変わったとかそういう話ではなくて、
死んでもいいと素直に思えるくらいに落ち込んだ人間が、生きるために切り捨てたり変わらざるをえなかったという消極的選択な話です。

だけど、その中でも僕は「かつて大切だったものは、ずっと大切なままでいいんじゃないか」と考えながら、忘れずにずっと頑張っていたと思います。


・なので今日のような昔と同じ眩しい光景に立ち会うことができて、
変わることで変わらない大切景色を見ることができて、「大切なことを大切なままにできたんだなあ」と凄く嬉しかったのだと思います。

それが正しいか間違っているかは置いておいて「これを選んでよかった」と心の底から思えた気がします。肯定できた。



僕の「変わるもの、変わらないもの」論は現状こんな感じです。なぐもくんは参考までに。



余談

・そういえば、誰かがMCで「なんでこうオタクって早口になってしまうんでしょうか」って言った時に、大半の人が反省の顔をしていたり、びくっとしていたのがとても面白かったです。

オタクから連想されるキャラクター性として「早口」はよく上がりますが、そういうキャタクター性って偏見なので本来はあんまり的を射ないはずじゃないですか。

でも、ここまでみんなの反応が一致すると偏見ではなく立派な相関関係があるなあと感心しました。凄まじい範囲攻撃です。

ちなみに僕はオタクの早口が好きです。マリオがスターを取った時みたいな躍動感がしてなんだか気持ちが良いです。あんまり良くない例えですね。
あとは目の前の相手が自由に喋ってくれると、自分に心を許してくれているのかなと、安心できるからかもしれません。



ちゃきくんありがとう、そして自分で歌うということ

・最後の飛び入りタイムで、よっぺの前に自分も2曲だけ歌わせてもらいました。
実は今年になってから、家でひとりコードを弾きながら歌うことが増えていていました。といっても2曲くらいを延々繰り返すだけで、明日が来てしまう悲しさや辛さをごまかすのが目的ですが。

せっかくなので僕もできたら良いなあと思い、最近はバンプの好きなアニソンを練習していました。
ただやっぱり練習不足だったし疲れていたし時間も押していたので、ちゃきくんの番が始まるまで「やっぱやめとこう…」の気持ちでした。

だけど偶然にも、くじでトリになったちゃきくん。そして更なる偶然に、最後にバンプオブチキンの「友達の唄」をやってくれました。

これって運命のバトンみたいなもので「こんなチャンス二度とないのでは?」と思ってしまい、自分もやってしまった次第です。


・結果やってよかったなと思っています、理由もなく家で弾き歌っていた自分を、少し肯定してあげられた気がしたので。

でもやっぱり怖いなとも感じました。

企画者が企画を私物化して人より自分の快楽を優先してはいけないし、例えそうでなくてもそうやって人に感じさせてしまうのは良くないことだと思うからです。


企画をする側になると、優先順位を本当に気をつけなければならないなと考えています。
なぜなら「人」の力を借りながら「人」のためにやっている企画だからです。

そこの「人」の中にも自分は含んでいいとは思いますが、他の人より優先すべきものでは絶対にないです。1ミリでもダメ。
なぜなら舵を直接握っているのは自分で、それだけで簡単に大きなブレが生じてしまうから。
それで本来の目的がブレるくらいなら、絶対にやらないほうがいいです。

自分が演奏できたのはちゃきくんが繋いでくれたバトンもありますが、それよりもみんなが楽しんでくれていたおかげで、自分のためにやるのをちょっとくらい許してもいいかなと思えたからです。

それも全部僕の主観と直感の判断なので、本当にみんなが楽しんでいたのかは理解しきれませんし、誰かに「好き勝手やりやがって」と嫌に思われていた可能性はあります。

でも最大限考えて、力を尽くしていることは多少なりとも伝わっているかなとも確信を持てたからです。



まあでも基本的には控えたほうがいいだろうな〜、という感覚はずっと持っておこうと思います。



・大体の企画内の感想は以上です。
いろいろ不安や懸念はあって当たり前なので、これだけ楽しければ大儲けではないでしょうか。
第二回、やりたいですね。別のこともまたします。




和田くん重たいの持たせてごめんね




ここから先はアニソン会だけでなく、もう少し視野の広い話です。
僕たちがこういう企画をすること、こういう形で音楽をやっていることについての話です。





「身内向けの音楽」ばかりやっていていいのか問題

・大体の僕の音楽や、僕の企画するライブは「身内向けの音楽」と揶揄されるような性質があります。
具体的な例えでいうと「バンドごっこやってるだけ」だとか「それ知り合い以外に聞いてくれる人いるの?」みたいな突かれても仕方のない、隙のあるものです。

軽音サークルやコピバンを好まない人は、主にそういう部分を指摘したいんだなと思いますし、僕たちのようにそれを楽しんでいる人であっても、そういう側面との付き合い方に悩む人はいるんじゃないでしょうか。


改めて考えてみます。
「身内向けの音楽」。どうですか。


「身内向けの音楽」のよくある例

・どこかに、ある母親と父親がいます。
まだ小学生にもなっていない彼らの子どもが、初めてピアノの発表会に出ました。
演目はメヌエット。何度も練習していましたが、まだまだ拙い演奏です。小指は使えていないし、テンポもバラバラ。
きっとまだクラシックも知らないし音楽の三要素も知らない。形式的に拍手が送られるだけで、観客の誰の印象にも残らない数分間です。

でもそんな演奏に対しても、その子どもの母親や父親は感動し、溢れんばかりの涙を流すことがあります。
僕はこういう光景を何度も目にしたことがあります。

・この話は「身内に向けた音楽」の代表例でしょう。
これを「くだらない話」だとか「音楽とは関係ない」と片付けることはできます。

でもできるとしても、そうしたいでしょうか。僕はしたくないです。

その感動を否定した先で大きなプラスがあるとは思いませんし、というか否定する必要もないし、もっと言えばおそらくバッハもそれを望まないでしょう。

もしそんな片付け方をする人がいれば、まともに音楽をやったことがない人か、音楽どうこう以前に人間を嫌悪する人ではないでしょうか。

もちろん「身内向けの音楽」の様相はこれだけでなく、多岐にわたります。

ただ「演奏する人がいて、それを聴く人がいる」というシチュエーションの元で考えた時、全ての音楽とこの例は地続きだと思います。

もちろん僕たちのしている音楽ともです。



改めて「身内向けの音楽」。どうですか。
僕は大して音楽に詳しくありませんが、それでも奥深くて面白いなと思っています。


なぜなら音楽は、「音楽」という概念であるだけでなく「人が演奏し、人がそれを受け取る」という音楽を媒介とした活動のことでもあるからです。



面白い理由はそこに「音楽」以外のことが起きているから

・面白さ、つまらなさとはなんなのかという話をします。お笑い的な面白さの外側にある、ちょっと難しい方の面白さの話です。

僕はその感じ方や判断には「豊かさ/貧しさ」「創造的/消費的」という軸があると思っています。



・アニソン会を見ていて感じたことがあります。
遊びに来てくれた30人ほど、彼らが演奏を聴く様子はそれぞれ全然違っていたんですよね。

各々が本当に自由でした。リラックスして聴く人、真剣な顔をして聴く人、つい声が漏れてしまう人、ニコニコしている人、お菓子を貪っている人、ドキドキしている人。なぜか頭を抱えている人。

それぞれが自由なタイミングで体を揺らし、その表情はバラバラに移ろいでいました。

さっきの軸で言えば、これは凄く「豊か」で「創造的」な出来事です。


・なぜそれぞれ聴く様子が違っていたのでしょうか。ここには、ただ「音楽」を感じる以外にも様々な感じ方があったからだと思います。


それは、
1.演奏者のアニソンへの愛情、またそこに至った過去やルーツなどの背景を感じとれた。つまりは演奏者へと強く想いを馳せた。

2.懐かしい曲を聞いて、聴き手自身の中に眠っていた記憶や体験が蘇った。つまりは演奏を通して聴き手が自分の内側に深く目を向けた。


3.演者と聴き手の間にあった、様々な出来事や思い出、関係性が重なって立体的な演奏に感じられた。つまりは2人の脈絡の一端として受け取った。

があったのだと思います。

この3つは「他者」「自己」「他者と自分の間で結われていく関係性」をそれぞれ感じることができた、という話になります。もしかするとそれ以外の整理の仕方もあるかもしれません。


ここで大事なのは、僕たちが音楽を通して感じることは「音楽」だけではないということで、音楽を媒介として「人間」やその「関係性」の脈絡を感じている、ということです。

そして、それはライブという形では一層大きな情報量となります。


脈絡

・それぞれの「人間」と「関係性」の脈絡に焦点を当てるようになると、「音楽」の持つ「窮屈になりがちな価値判断」を適用する意味が相対的に弱くなっていきます。


「窮屈になりがちな価値判断」と言いましたが、わかりやすくいうと「上手いかどうか」「音楽的に富んだ表現かどうか」「歴史的、文化的にどうか」といったもので、それを判断する意味あいが下がっていくという話です。


さっきの発表会の例を思い出してもらえるとわかりやすいはずです。

あそこでは、そんな価値判断を母親も父親も子ども自身も気にしていません。


・僕はこの「人間」と「関係性」の脈絡を感じられることは、とても大事で素敵なことだなと思います。

なぜなら先に話したように、たった30人に向けられた演奏でも、各々が感じることが全く異なったものになっていくからです。

あえて極端な物言いをすると、1万人が同じように身体を揺らし、手をあげ、拍手をして似通った感想がでてくるライブよりも、
30人それぞれが違う表情をして、違う感想がでてくるライブの方が、一人一人には深い感動やや印象を残すと思うし、そして面白いなと思います。

だって「豊か」で「創造的」だから。


作ることも受け取ることも、どちらも「創造的」な行い


・創造的、クリエイティブとは何なのかという話をします。

僕は、自分にしか生み出せない作品を生み出すことこそ、創造的な行いだと思っています。

なぜなら、他の人では代替不可能な事象を引き起こすこと、自分にしかできないことするのは、自分が自分以外の何者でもないことの証明になるからです。

反対に、もし他の人でも作れるものを自分が作ったとしてもそれは創造的だとあまり思えません。

それを繰り返した先で、もし全員の人が他の人で安易に取って代われるようになってしまったら、「豊か」でないし「創造的」ではないし、なにより面白くないと感じるはずです。


・ここで僕が思うのは、
「作る」「発信する」だけでなく「感じる」「聴く」ことも実は創造的でクリエイティブな行いだということです。


なぜなら、自分にしか感じられないことを感じたり、自分だけにしか受け取れないものを受け取ることができるからです。

「聴く」「感じる」ことを始点としても、自分が自分以外の何者でもなくなっていくこと、
つまり「豊かさ」「創造性」が進んでいくことに繋がると僕は考えています。




「身内に向いていない音楽」は、「音楽」以外のせいで、ちょっと厄介

・ここまで、1万人が同じように感動して聴く音楽よりも、30人が違う表情で聴く音楽の方が面白くて「豊か」で「創造的」だという話をしました。

興行や金銭のやりとりを除いたから言える話でもあります。

もし資本主義の土俵に入ってしまうと、これまで話した面白さも「豊かさ」も「創造性」もかなりどーーーでもいい価値になってしまいます。本当にどうでもいい。

なぜなら、より多くの人に満足感を感じてもらい、より多くのお金を稼ぐことが大事になってくる一方で、「豊かさ」「創造性」は役に立たないからです。

「創造性」や「豊かさ」なんかじゃ家賃は払えないし家族にご飯は食べさせられないし息子の学費も親父の葬式代も払えませんから。さらにいえば「音楽」の持つ「価値判断」も大して役立たずです。





資本主義はダルいけど大事、だから距離を考える


・ではお金を稼ぐにはどうすればよいでしょうか。

こんな事は散々言葉にされ尽くしてきたので、僕が詳しく言う必要はない気もします。

簡単に言うとミ♯とファが同じ音だとも知らない大勢の人を、当て振りか演奏かも判断できないデカい会場に詰め込んだり、動画編集で鴨ったりすればいい。

という話になります。


・「豊かさ」「創造性」のある音楽、つまりはいろんな聴き方や感じ方ができる音楽なんて、わかりづらいし不安定で使い物になりません。

大事なのは1万人に等しい満足感を与える音楽(っぽい体験やブランド)です。
そこでは再現性や科学になるわけですから、過去の好例基づいた踏襲になります。

何かと何かを混ぜ合わせた音楽が売れは消えを繰り返したり、レーベルは第二のマカエンやback numberetc...を仕立てるのに必死になったり、
ギターやベースなんて聴きづらい音使うより、ピアノやヴァイオリン使うようになる。

んー。でもしゃーない。だって確率が高いし、わかりやすいから。

わかりやすさは営業において一番大事です。一番お金になるから。


悪態つこうと思えばいくらでもつけてしまいますが、そんなのはどの仕事に対しても一緒です。

どんな飲食店にだって「もうちょっとしっかり清掃したほうがいい」と言えるのと同じレベルです。というか昨今話題の中古車やワンニャン売買、性消費ビジネスに比べればどれだけマシかって話です。かなりマシ。

先に言ったような極端なものもそんなになくて、もっとガラパゴスで流動的で変化の最中。

だからあんまり文句言うのも良くないです。頑張っている人もたくさんいるし。



・資本主義って本当に難しいなと思います。

人がご飯を食べたり生きるのには、有限の中で労働(時間)と賃金の循環を起こさなければいけません。
それはめちゃくちゃ大切。本当に大切で大事。でもだからこそ無視できなくて厄介。


・音楽だけじゃなくていろんな事にいえますが、開かれすぎる、つまり「身内以外の外に向ける」というのは資本主義や社会システムとの接続を余儀なくされることです。

僕のする企画レベルでの開き方でもそうです。

みんなのお金や時間とは切っても切り離せないし、そのためにできるだけみんながお金や手間を気にしなくていいよう、努力している事がたくさんあります。




『優しい音楽』について


・改めてになりますが「身内向けの音楽」ってどうでしょうか。

僕はそれって『優しい音楽』なのかなと思います。
だってそれは音楽的価値判断や資本主義から離れているおかげで、一番許されていて自由だから。


・そこには音楽よりも先に、まずそれぞれの「人間」と「関係性」の脈絡があります。
それ故にそれぞれが違うことを感じられて、豊かで、創造的で、面白いです。

そして聴く側だけでなく演奏する人も自由です。

音楽的価値判断やお金のことはいったん置いておいて「自分にしかできないことをする」「自分が良いと思うことをする」ができます。
人気不人気、良い悪い、上手い下手も関係なくなって、アニソン会でテーマにしたように「素直になる」ことが許されます。

それは、弱さや拙さを取り繕わずそのまま表現して存在せてあげることです。
それは誰かを勇気づけることに繋がり、聴く側の素直さも引き出すことになります。
それは鎧を脱ぎ、確かな温度で触れ合うということです。


僕はそうなってやっと、表現することの先にある真の意味で「何かを伝える」「何かが伝わる」という現象が起きるのかなと思います。


そして確かな温度で触れ合った先にあるのは、一層代替不可能になった経験や出来事であり、
そこにしか存在しえない「他者」と「自己」とその間に結われた「関係性」があります。

つまり、すごく面白いんじゃないでしょうか。




なので。

「身内に向けた音楽」は『優しい音楽』で、

それは許されていて、自由で、

素直に発信と受信ができるもので、

創造的で、豊かで、きっととても面白いですよ。












僕は多分、ただ音楽がやりたいんじゃなくて、その『優しい音楽』の場所を作りたくて、受け取りたくて、演奏がしたいんだと思います。

だって、本当は音楽なんてどうでもいいと思うくらいに、そこにいる人たちが好きだからです。

好きだから、伝えたくて、受け取りたくて、素直に生きてほしくて、それでいて幸せであってほしいから。


あくまで市井の人として、この手が届く場所までは、誠実に大切にしていたいなと思うんですよね。

そのための『優しい音楽』ですよ。

















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