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【怖い話】 双子鏡の話 【「禍話」リライト105】

 髪をとても短くしていたのがきっかけだった記憶がある。
 現在なら「ベリショ」という言葉もあって、女性が短髪にすることも珍しくないが──

「平成のはじめ頃でしたから、まぁ目立ちましたよね。私は単にカッコいいと思って短くしてたんですけど」

 当時高校生だったWさんは、同じクラスの女子グループに目をつけられた。

「なにこの髪型ァ~って、汚いモノみたく指でつままれたりね。あとは教科書やカバンを──。まぁ、いろいろされましたよ」

 Wさんの顔が翳る。よほどのことをされたらしいと想像できた。
 負けん気の強いWさんは抵抗したし反発もした。だがこちらはひとり、向こうは4、5人。積極的に庇ってくれる友達もいなかった。

「相当に疲れてましたね。負けるもんか、って変な意地もあって。今から考えると、ムキになってたんですねぇ」

 教師や親にも黙って、ひたすら耐えていたという。

 

 ある日フッと、すべてが面倒になった。
 いつものようにぐちゃぐちゃと言いがかりをつけてくる相手グループに、開き直るように尋ねた。
「あ~はいはい! わかったわかった! で? じゃあどうしろっていうの? 髪が気に入らない? でもこれ、すぐ伸びないしさぁ!」
 短い髪を自分でねじりながら睨む。
「私の何が気に食わないのか知らないけど、一体どうしたらイイわけ? え?」

 すると向こうは一瞬、虚を突かれた様子だった。思わぬ方向から逆襲されて驚いたようだ。
 やがて顔を寄せて話しはじめた。
 どんなことを話し合っているのか、ちらちらとWさんの方を見てニヤついている。

 数分後、ひとりが向き直って「じゃあさぁ」と言った。
「あんた、旧校舎の鏡って知ってる?」
「鏡? あぁ、階段にあるとかいう──」
「そうそう。なんか変なこと言われてるでっかい鏡。あれをさぁ、カメラで撮ってきたら、許してあげる」
 言っている奴も背後にいる残りの連中も、意地悪な笑みを浮かべていた。



 ──旧校舎にある鏡については、長年妙な噂がつきまとっていた。
 Wさんも先輩や友人知人から、断片的に様々な話を聞いていた。
 不確かで不完全だが、どれもこれも気味の悪い話だった。
「学校の怪談ってやつですよね。七不思議的な──」


 旧校舎の北側、2階と3階の間の踊り場に、大きな鏡がついている。
 大人ふたりが横に並んだくらいの幅があり、高さは頭から足まで全身が写るほど。かなり大きな姿見であるという。

 旧校舎の南側は吹奏楽部や文化系の学部が使っているものの、北側はほぼ使われていない。
 特に鏡のつけてある踊り場は「立入禁止」になっていて、階段の上下にチェーンが下がっている。
 好奇心に駆られて踊り場に行ったり、近寄っただけでも、教師にひどく怒られる。

 ──確かな情報はそれくらいで、これから先は校内で囁かれている噂話。

 そもそも、鏡の出所でどころがはっきりしない。

 新しい校舎が完成し、先生や生徒の「引っ越し」が終わった頃に、どこかから持ち出されてきたものらしい。
 体育館の奥、誰も寄りつかない古びた倉庫から、業者が鏡を運び出すのが目撃された、という話もある。
 とにかく鏡はどこかから急に引っ張り出されて、いきなり旧校舎の北側の踊り場に据えつけられた。
 誰が指示したのかは不明である。


 当時の生徒も興味を示した。
 不良っぽい男子生徒たちが度胸だめしのつもりで見に行った。
 その時は何ともなかったという。
 後日、職員室に呼び出された。
「用事があって通るなら仕方ないが、遊び半分で見に行くとは何事か」
 怒鳴られたばかりか、殴られたとも伝わっている。

「ふざけんな。誰でも通れる場所だろ」
「見に行くだけで説教されるなんておかしい。理由を聞いても教えてくれない」
「横暴だ。どっかに訴えてやろうか」
 教室に戻ってきた不良たちはそう息巻いていたそうである。

 一週間と経たないうちに、不良たちはおとなしくなった。
 訴えるとか抗議するって話はどうなったんだ? と聞くと、

 ──あれはもういいんだよ。
 ──いいんだいいんだ。俺たちが悪かったんだから。
 ──遊び半分で見に行っちゃダメなんだよ。

 沈んだ調子でそう言う。

 別の生徒が「じゃあ、今度は俺が行ってみるわァ」と軽口を叩いた。
 すると不良が「やめろ」と叫んで胸ぐらを掴み、危うく殴り合いになりかけた。


 そんなこともあって、北側の踊り場は閉鎖されることになった。
 チェーンがつけてあるのは前述の通りで、教師もいちいち、放課後に見回りしているらしい。
 ひどく手間だというのに、鏡が踊り場から外される気配はない。
 教師やPTAから「外しましょう」と提案されることもないという。
 3、4年前に新聞部が記事を書いたことがあるものの、学校側からNGを出され、その号だけ出なかった、とも聞く。

 古びた階段の踊り場に、その大きな鏡はずっと据えつけられたままである、という──



 ──その鏡を、いじめっ子たちは撮ってこいと言うのだ。

 怖い場所だし、先生に見つかれば叱られる。
 嫌がらせのために言っているに違いなかった。
 しかし、

「怪我するようなことじゃないし、断ったらますます馬鹿にされるでしょ? 何より舐められるのは絶対にイヤだったんで、」

 いいよ別に、と即答した。
 そんなモンでいいなら何枚でも撮ってきてあげるよ、と。


 ふぅん、と先方はニヤニヤした。また顔を付き合わせて話して、また向き直る。
「じゃあ明日さぁ、フィルムが余ってるインスタントカメラ持ってくるから。それで撮ってきなよ」
 Wさんは鼻を鳴らした。
「ふーん、カメラは貸してくれるんだ。お金持ちだねぇ」
 舌打ちされる。
「お前さ、マジで行けよ? ちゃんと撮ってこないと許さないから」
「言ったからには行くよ」
「先生に見つかってもチクんなよ? 私たちに言われたとか言うなよ?」
 Wさんは舌打ちをし返した。
「そんなヘタレたことするわけないじゃん。そっちこそチクんなよ?」
「チクんないよ。行ってきなよ。ヤバい鏡の前に。ひとりぼっちでさ」
 ふふ、ふふふ、と含み笑いをして、いじめっ子たちは去っていく。
「明日、逃げんなよ!」
「休んだらゼッテー許さないからね!」
 そんな捨て台詞を残していった。


 ひとり残されたWさんは「さて」と考えた。
 行って撮ってくるのは決めている。こっちにもプライドがある。
 とは言え、不確かな噂や不気味な話しか知らずに出向きたくない。

 友人知人に聞いてみようか?
 いや、確かな話が知りたい。友達の話は「学校の怪談」の域を出ない。
 それに何かのはずみであの連中の耳に入ったら、ビビって聞いて回っていたとネタにされるのがオチだ。
 教師に尋ねるのは絶対にダメだ。話すだけで叱られる、と聞いている。

 しばらく頭をひねっていて、はっと思いついた。

「新聞部が記事を書いて云々、って話があったじゃないですか。書いたけど公には出せなかった、って。じゃあ──」

 印刷したものは一応、保存してあるのではないだろうか?
 ああいうのは「XX年度」と一年分まとめて、ファイルしてあるのではないか。


 そう考えたWさんは、新聞部の部室に行ってみた。
 部員たち数人が忙しく立ち回っていた。締め切り間近らしい。

「あの~っ、ちょっと調べものがあってぇ」
 そう告げると部員はあぁそう、と気のない返事をした。
「昔の学校新聞って、ここにありますかね?」
「昔のやつ? それならあそこの棚」
 こちらも見ずに指さす。本当に忙しいらしかった。
「貸し出し?」
「は? いや全然。ちょっとしたことなんで。ここで見ます」
「ここで閲覧するならそっちの窓側でやって。今こっちの机いっぱいだから」
「はぁ~い、借りま~す」

 Wさんは棚に近寄り、5年分くらいのアーカイブ冊子を取り出した。
 窓の前のスペースに冊子を置く。部員には背を向けているから、気取られる心配もない。

「鏡」とか「怪談」などの文字を探して、冊子をめくっていった。
 ほどなくして、鏡について書かれた新聞が見つかった。隅に大きく「×」が書かれている。没になったのは本当らしい。
 Wさんは鼓動が厭な感じに高まるのを感じながら、その記事を読んだ。


「──でもね、校内で囁かれてる話以上のことは何にも載ってなくて」

 倉庫から急に運び出されたとか。
 興味本位で見に行った生徒がいたとか。
「様々な理由から」立入禁止になったとか。

 細かい活字を追っても、新情報はなかった。
 無駄足だったかと落胆していると、見出しが目に入った。大きな文字だったので逆に見落としていた。

「名称がね、載ってたんですよ。鏡の名前が」


 双子鏡の噂


 見出しにはそうあった。

 ──ふたごかがみ?
 記事の中に「双子」を思わせる話はない。

 二枚一組なのだろうか?
 しかし据えつけられているのは踊り場だ。大きな鏡らしいから、横に並べては貼れないだろう。合わせ鏡の形にもできない。
 人ふたり分の幅で双子──というのもしっくりこない。
 別の場所に鏡がもう一枚あるとの話も聞いたことがない。


 なにが双子なんだろ。よくわかんないな──
 もやもやしたものを抱えながらWさんは冊子をしまい、新聞部を後にした。
 双子鏡、という得体の知れない名称が頭から離れなかった。



 翌日、いじめっ子たちはインスタントカメラを渡してきた。
「ほらコレ。えっと、10枚余ってるからたっぷり撮れるね!」
 偉そうに言う。
「別のところ撮ってきてもバレるからね。わかってる?」
「当たり前でしょ。そんなことしないし」
 Wさんが答えると、向こうはわざとらしく声を揃えて「へぇ~! すごぉーい!」と言った。

「じゃあ楽しみにしてるから」
「がんばってねぇ!」
「先生に見つからないようにね!」
「あんたが祟られても誰も気にしないから、安心して行ってきな!」

 口々にそう言い捨てて、遠ざかっていった。
 胃のあたりがむかついたが、ここで行かなければ負けだ、と腹を括った。



 放課後、夕方、薄暗くなりはじめた時間だった。
 Wさんはインスタントカメラを握って、旧校舎へと出向いた。

 スマホはおろかケータイもない時代である。持ち物はインスタントカメラひとつきりだ。
 南にある玄関から入って、階上から響く吹奏楽部のホルンの音を聞きつつ、文芸部の部室を素通りして、北側へと向かう。
 そういえばここに入るのははじめてだな、とWさんは気づいた。

 廊下を進むにつれて、木造の建物の独特の湿り気が増してきた。生ぬるい空気感がある。
 掃除もしていないらしい。窓が汚れていて西日が入ってこない。奥へ行くほど暗くなっていく。
 人が活動しているという気配が、どんどん薄くなる。

 誰もいない。

 背中の方で聞こえていたホルンの音も遠くなり、そのせいで自分のいる廊下の静けさが際立ってくる。

 木張りの廊下がぎぃ、と鳴った。


 毎日見回りをしているはずの先生の姿はなかったという。
「なんか私の行った時だけポコッと誰もいなかったみたいなんですよ。偶然なのかなぁ。考えすぎかもしれないですけど──」
 もしかしたら、呼ばれてたのかな、って。


 夕方の旧校舎の北側は、無音だった。
 楽器の音も人の声も届かない。
 傾いた陽射しが入ってきて、わずかに明るい。
 階段を1階から2階へ。2階フロアの床がきしむ。
 古びた匂いがした。

 ぐっと曲がって、3階への階段を見る。
「うわ」
 声が出た。

 話の通り、2階フロアと階段の境界にチェーンがかかっていた。
 チェーンは腰の高さにたるんでいて、両端は壁にがっちりと埋め込んである。
 マジで封鎖してあるじゃん──

 視線を上げると、踊り場に目的のものがあった。
 大きな鏡だった。
 ぬっと立っているような存在感があって、見下ろされているみたいに感じる。

 鏡を見た途端に、命令されて来た苛立ちも、先生に見つかるのではという不安も消えた。

 ──怖い。

 そう思った。


 チェーンをまたぐ。足元で白いものが舞った。埃が積もっている。何年かは知らないが、ずっと手つかずらしい。
 足を上げると、床に靴跡が残っている。
「ちょっ、サイアク」
 証拠は残したくなかったが、踏み消そうとすると風が起きてチリでむせそうだ。仕方なしにそのまま段を上がった。

 ぎし、ぎし、と、板を踏み抜きそうな音が響く。その他には自分の呼吸音と、心臓の音しかない。


 空気の流れのせいか、踊り場には埃が積もっていなかった。
 Wさんは鏡の前に立った。
 同級生や先輩から聞いた噂、学校新聞の通りの、本当に大きな鏡だった。
 枠も額縁も、装飾のひとつもない簡素な鏡で、それがまた異様な感じを与えた。


 目を閉じて息を整えて、鏡の中を覗く。
 Wさんの全身が写っている。
 短い髪、顔、ブレザー、スカート、ソックス、靴──

 手や足を動かしてみる。
 鏡の中の自分はその通りに動く。
 怖い話みたいに別の人が写っていたり、別の動きをするようなことはない。

 鏡の中の私の後ろ──
 誰もいない。

 素早く振り向いてみた。
 誰もいなかった。

 大丈夫だ。何ともない。
 ただの大きな鏡だ。

「立入禁止」「怯える不良たち」「双子鏡」などの単語が頭をよぎったが、抑え込む。
 これは、ただの、大きな鏡だ。


 カメラを持ち上げる。フィルムのギアを巻くと、かりかりと小気味良く鳴った。
 カメラをかざす。
 レンズ越し、鏡の中に、カメラを構えた自分がいる。変な気持ちだ。
 瞳を左右に動かして、異変がないか確かめてから、

 ──大丈夫、怖くない。
 シャッターを切った。

 カメラはカシャッ、と言って、何のトラブルもなく一枚撮れた。

 ふぅ、と大きな息が出た。力みが取れると余裕が出る。
「──これだと暗いかな?」と言って、フラッシュのスイッチを入れる。
 きゅぅん、という例の独特の音がする。その間にギアをかりかりと巻く。しばらく経つとフラッシュの待機音が止んだ。

 また鏡に向かってカメラを向ける。
 自分の姿、背後、異変はない。
 大丈夫。
 指で、シャッターを切る。

 パシッと光った。

 その一瞬にも目を閉じずにいたが、変なものは視界に入らなかった。

 ふぅ~っ、とさらに大きく息をついた。
 所詮は噂か、とも思えてくる。

 ──1枚目が心配だから、もう1、2枚撮っておいてやろうか? ちゃんと写ってなくて文句を言われるのはムカつくし──
 フィルムをかりかり巻きながら、踊り場の両端や鏡の隅に目をやる余裕さえ出てきた。

「──ん?」
 鏡の左下に文字がある。
 暗いので近づいて、しゃがんで眺めてみる。

 寄贈された年と、送り主の名前が記してあった。
 学校への大きな贈り物にはよく書いてある文字だが──
 それを見たWさんの呼吸が一瞬、止まった。



昭和48年8月
  三三三三三三 贈



 名前の部分が尖ったもので消されていた。
 一文字も読めない。がりがりに削られている。

 ぞわっとして後ろに下がった。
「なにこれっ──怖ぁ」
 そう呟きつつ、目は文字から離せない。

 昭和。昭和48年って確か、ウチの高校ができた年? 
 去年で創立20年とか言ってた気がする。だから、たぶんそうだ。
 学校ができたお祝いに鏡とか花壇を贈るってのはあるだろう。小学校にも中学校にもあったし。
 けど、なんで。
 なんで名前のところが全部削られて。


 ぎしっ。
 Wさんの背後で、板の床がしなった。

 ぎし。ぎし。ぎし。
 2階から、誰かが階段を上ってくる。
 重い足音だった。

 うわ、見回りの先生だ──
 Wさんはそう考えて、制服のポケットにカメラを滑り込ませた。
 ヤッバぁ、どうしよう──
 言い訳は頭に浮かばない。

 しかしこういう時は、まず謝るほかないだろう。立入禁止区域への現行犯だ。
 Wさんは叱られるだろうなと思いつつ、
「あっ、スイマセン──」
 言いながら振り向いた。




 ふと気づくと、Wさんは歩いていた。

 あれ、ここどこかな? 
 なんか、歩いてるな私。
 なんで歩いてんだろ。
 どこ? 

 下は土の剥き出しで、左手に古い建物がある。
 建物の切れ目に差し掛かると、身体が勝手に左に曲がった。

 そうか。私、ぐるぐる回ってるんだなぁ。
 あ、これ旧校舎じゃん。
 旧校舎の周りをぐるぐる回ってるんだ。
 なんでだろう。
 なんで?
 えっ、えっ?

 そこでやっと、驚いて立ち止まった。

 ええっと── 
 Wさんは思い出そうとする。

 そう、旧校舎の踊り場の鏡をカメラで撮ってて。
 で、上ってくる足音がしたから、先生に見つかったと思って。
 謝りながら振り向いて、それで──

 そこからの記憶がない。

 人がいた、というのはかすかに覚えている。しかしどんな人だったのか、話をしたのか、その後どうしたのかは、まるで思い出せない。
 カメラはポケットの中にあって無事だった。

「新校舎」に戻る。靴がチリで汚れたままなのに気づいて手で払う。
 払いながら、昇降口の真ん中にかけられた時計に何気なく目をやった。

 旧校舎へ出発してから、1時間半が経っていた。

「ええっ?」
 Wさんは混乱した。ここを出て、いくら慎重に進んだとは言え、20分もかかっていないはずだ。

 ──じゃあ私、1時間以上も旧校舎の周りを歩いてたの?
 いくら頭をひねっても、Wさんは振り返った直後からの記憶を絞り出すことはできなかった。



 恐怖のような、不安のようなものに包まれながら、Wさんは帰宅した。時間は夜7時を回っていた。
 古びた校舎の中を歩いて全身がなんとなくホコリっぽかったので、
「おかーさぁん! お風呂沸いてるー?」
「沸いてるけど、あんた一番に入るの? 珍しいねぇいっつも遅いのに」
「今日アレだよ、学校で掃除とかしたから、ホコリがさぁ」
 そんなやり取りをして、Wさんは一番風呂にありついた。

 わけのわからない出来事は一旦忘れて、熱いお湯に浸かっていた。
 すると、居間の方で固定電話が鳴るのが聞こえた。

「はぁい、もしもし?」
 Wさんには姉がいる。そのお姉さんが出た様子だった。
「はい──。あ、いまちょっと──え? じゃあ──」
 きれぎれに返答が聞こえてくる。
 やがて風呂へと近づいてくる物音がした。戸の前で立ち止まる。

「ねぇ。あんたに電話なんだけど」
「えーっ、わたし風呂入ってんじゃん。誰?」
「学校の友達だってさ。なんか、急ぎの用事らしいよ。出なよ」
「急ぎの用事ぃ?」

 せっかくゆっくりしてたのに、とむくれながら、Wさんはタオルを巻いて風呂を出た。居間に行って受話器を取る。

「はい、もしもし?」
「もしもし。私、Kだけど」

 Kは、Wさんをいじめているグループのひとりだった。

「え。なに? なんか、用事?」
 Wさんは探るように返事をした。
 すると。

「あんた、根性あるねえ」

 とだけ言われて、ぷつんと電話は切れた。


 ──は? どういうこと?
 風呂に戻って浴槽に浸かり直したWさんは考えた。
 ──どっかで、私が鏡の前に行って写真を撮るまでを監視してたってこと?
 でも人の気配はなかった。覗き込めるような窓もなかったはずだ。
 階段を上ってきた人以外とは遭遇していない。


 よくわからないままお風呂を出て、パジャマに着替えた。
 ご飯を食べてゆっくりしていると、玄関のチャイムが鳴った。
 時計を見ると9時過ぎだった。

 こんな時間に誰だろう、と父、母、姉とWさんは顔を見合わせる。
 お姉さんが立って、「ハァイ」と言いながら玄関へ向かった。
 話し声がする。
 くぐもって内容は聞こえない。

 さほど間を置かず、お姉さんが居間に顔を出した。
「ねぇあんた」Wさんの方を見る。「また学校の友達なんだけど──。大事な用事がある、って」

 また?
 Wさんは気味の悪いものを感じつつ居間を出た。

 玄関にはTというクラスメイトが立っていた。
 さっきのKと同様、Wさんをいじめている娘である。

 顔つきがどこかおかしい。
 得意げな表情のようにも見えるし、ひきつっているようにも見えた。
「なに、どうしたの? こんな夜に」
 おずおずとWさんは聞いた。
 Tは表情を変えないまま、こう言った。

「わたしだったら行けないよ。あんた、すごいねえ」

 え? とWさんが聞き返す。それには答えずに、

「すごいわ。あれはすごいわ」
「なにが?」
「いや、すごいわ。はい」
 Tは手を広げて差し出してきた。
「えっ、何?」
「カメラ」
「は?」
「カメラ。ちょうだい」
「あぁ、うん──」

 てっきり自分が現像するものと思っていたWさんは、部屋に戻って制服のポケットからカメラを出して、玄関にとって返した。
「はいこれ、まだ7枚くらい残って」
 言い終わる前に手の中からもぎ取られた。引ったくるような勢いだった。

「じゃあね」

 Tは踵を返して玄関を開けてそのまま出ていった。ちらりとも振り返らなかった。

 Wさんが玄関でしばし呆然としていると、お母さんに「変わった子ねぇ。どうしたの?」と尋ねられた。

 ううん、別に。なんでもないよ。
 Wさんは小さく言った。 



 10時を回ったので寝室に入った。 
 すぐに切られた電話のこと、おかしな態度でカメラを持ち去られたことが気にかかって、どうにも落ち着かない。
 テレビやマンガに目を通して、眠気が来るのを待った。気疲れしたから、今夜はゆっくり眠れるはずだ──と思っていたら、

 居間で電話が鳴った。
 11時になっていた。


 ごそごそと両親や姉が寝室から出てくる気配がする。こんな時間に電話というのは非常識だ。
 Wさんは不吉な予感に囚われて、ベッドの上で膝を抱えてじっとしていた。 
 コールが止まった。誰かが応対している。
 誰かが廊下を歩いてきて、Wさんの部屋をノックした。返事をするとドアが開いた。お姉さんが怪訝な顔で立っている。

「──なに?」
「なんかさぁ、またあんたに電話なんだけど」
 ぞわっとした。
「いや、あの、もう寝たって言ってくんない? 喋るのとか、明日でもいいし。いくら友達でもこんな時間に」

「違うの」
 お姉さんは首を振る。
「先生だって。S先生。伝えておきたいことがありまして、って」
「S、せんせい?」

 S、と聞いても数秒、顔が浮かばなかった。

 S先生はクラスの副担任だ。
 副担ではあるけれど、Wさんのクラスで授業は受け持っていない。
 教室に顔を出すことも少ないし、Wさんと話したことも一度か二度、ごく短いやりとりだったはずた。

 そのS先生が、電話をかけてきている。
「どうしたの。ほら早く出なさいよ」
 お姉さんが急かす。
「こんな時間の電話なんだから、なんか緊急の連絡かもしれないでしょ」
 う、うん、と頷いて、Wさんは居間へ向かった。

 電話機のそばに、受話器が横にして置いてある。
 鏡を見に行ったのが先生にバレたのかもしれない。それならそれでいい。怒られても仕方ない。
 けれど、そうではないように思う。
 ではどんな用事なのかと問われると、わからない。想像もつかない。

 受話器を持ち上げて、「もしもし、Wです」と言った。
「おぉ、Wか。Sだけど」
「あっ、はい。こんばんは」
「何ともないか?」
「え?」
「何ともないか?」
「いえ、別に何も──」
 そう返事をすると、受話器の向こうで「は~ぁ、そうかぁ」と感心された。

「いやあ、おまえはすごいなあ」
 S先生は続けた。
「あんな距離で見たのに何ともないのか。いやあすごいなあ。すごいよおまえは」

「あの、それどういう──」
 ぶつり、と電話が切れた。

 Wさんはしばらく頭が回らず、電話の前で立ちすくんでいた。

「あんな距離で見たのに」
 階段で振り向いた時のことのように思える。
 しかし──


 考えても仕方ないのでWさんは寝室に戻った。
 どうしたの? と尋ねてくる両親や姉に生返事をして部屋に入った。

 電気を消して、ベッドに横たわる。テレビやマンガどころではない。
 ぎゅっと目をつぶって、「寝よう」と呟いた。
 今日のことも明日のことも考えないようにした。
 布団の中にいたら、やはり疲れていたのか眠ってしまった。



 怖い夢を見た。

 暗い廃墟の中を逃げ回っている。何から逃げているのかはわからない。
 木造の廊下を走っていると転んだ。膝や服が汚れる。長年放置された廊下はうっすらと白いもので覆われている。
 なぜか立ち上がれなくなる。
 這って逃げる。 
 床がぎしぎし言う。
 這っている自分の膝の下だけではない。背後からも同じ音がする。
 振り返ると暗がりの中、廊下の奥から誰かが来る。
 姿は見えないのに濃密な気配がある。
 逃げなきゃ。逃げなきゃ。
 手足が動かない。
 うわ。動かない。やだ。
 這いずって逃げようとする。体が重い。
 自分のすぐ後ろで、



 ──ここで目が醒めた。
 汗をかいていた。本当に逃げていたように息が荒い。心臓が痛いほどどんどん鳴っている。
 不快な出来事が重なったせいで、こんな夢を見たに違いなかった。

「勘弁してよ──」 

 手で額の汗をぬぐってから、喉が渇いていることに気づいた。口の中まで乾燥してざらついている。
 水でも飲まなければ寝直せないほどだった。部屋に飲み物はない。

「はぁ、もうっ!」

 Wさんはベッドから下りて、台所に行くために部屋を出た。

 面倒なので廊下の電気はつけない。姉の部屋と両親の寝室、鏡とトイレの前を通りすぎて、台所の戸を開けて入った。
 台所の電気もつけない。家のそばにある街灯のおかげで、うっすらとシルエットが浮き上がっている。
 コップを手に取って蛇口から水を汲んだ。
 ぐっと飲み込むと、少し落ち着いた。頭もすっきりしてくる。
 と。


 こつん、と違和感にぶつかった。
 おかしい。

 ここへ来るまでの道のりのどこかが変だった気がする。
 部屋を出て、家族の部屋のドアがあって、それから。

 鏡?

 すごく大きな鏡があった気がする。
 自分の肩幅より大きい鏡が。

  
 眠気が覚めるにつれて、確かに見たという思いが強くなっていく。

 歩く自分の全身がちらりと写った記憶がある。
 枠や装飾などはなかった気がする。

 そんな大きな鏡は家にない。
 でも。
 あの大きさの鏡は見たことがある。
 今日の夕方。
 旧校舎の踊り場で。


 あの鏡が、家の廊下に?

  

 肌がぞわぞわと粟立ってきた。
 首や肩が硬くなっていく。

 そんなこと、あるはずが──

 そう考えていたら、突然。
 Wさんの頭に、階段で振り返った直後の光景が甦った。



「あっ、スイマセン──」
 そう言って振り向くと。

 女の子がひとり、階段を上がってきていた。
 自分と同年代で、たぶん同じ制服姿だった。

 女の子は、大きな鏡を運んでいた。
 踊り場のとそっくり同じ鏡だった。

 女の子の体の左半分は鏡で隠れている。
 右の目はWさんをじっと見つめている。

 女の子は鏡面をこっちに向けていた。
 階段の鏡とWさんを挟むような形で。

 一歩、一歩と、ゆっくり上がってくる。
 ぎし、ぎしと、階段が音を立てている。

 恐怖で動けないでいると、上がってきた鏡に。
 踊り場に立っているWさんの全身が写って──


「あぁそうかあ、そうなんだ」
 Wさんは自分の姿を見ながら呟いた。
「だから双子鏡って言うんだ」




 ──その記憶を、突如として思い出した。


 全身が凍りついた。
 廊下には出れないし、部屋にも戻れない。
 もしあの鏡が廊下にあるのを見てしまったら。
 取り返しがつかないことになる。

 ここで寝よう、と思った。
 朝まで台所から動かなければいい。それなら安心だ。
 ただ、ひとつだけ──


 台所と廊下をつなぐドアが開けっぱなしにしてあった。
 廊下の方は真っ暗だ。
 夢の中の、廃墟の廊下を思い出した。
 あそこから「何か」が入ってくるのではないか、と不安になる。
 閉めなければいけない。


 夜中だった。
 おそろしく静かだった。
 物音を出したら全部おしまいになるような気がする。
 Wさんは音を立てないように、台所のドアへと近づいていった。


 手を伸ばす。
 廊下には目をやらない。
 腕の先だけに視線を向ける。
 指が、冷たい金属の取っ手に触れた。
 その時。



「よいしょっ」
 廊下から女の子の声がした。

 それと同時に。
 ずるっ、という大きな音がした。
 壁から重いものを外すような音だった。





 目を覚ますと、白い天井があった。
 蛍光灯も白く、カーテンも白い。
 自分の家の天井ではなかった。
 眩しい。

 眩しくて、目元を覆いたくなった。
 腕を上げようと身動ぎすると、肩のあたりを押さえられた。
「大丈夫?」
 お姉さんだった。
 パジャマではなく私服だ。
 背後に丸椅子が見える。
「なに? えっ、私どうしたの?」
 混乱するWさんに、お姉さんは優しく声をかける。
「いいから落ち着いて、ね?」
「いや、落ち着いてるから──」
「ほんとうに?」
 真剣な顔で聞かれた。
 うん、と頷いた。
 お姉さんは深くため息をついて、肩から力が抜けた。
「お姉ちゃん、ここどこ?」
「病院」
「え?」
「あんた──覚えてないの?」



 お姉さんがゆっくりと説明してくれたところによると。
 Wさんは「夜中に台所で急に大声を出した」らしかった。


 お父さんもお母さんも私もビックリして飛び起きてさ。
 台所に行ったらあんたが叫んでて。
 ちょっと、私たちには手に負えなくて。
 それで、救急車呼んでさ? 救急車の人にあんたを運んでもらったの。
 とりあえず、っていうか。落ち着くまで。

 お姉さんはそう言ったけれど、「大声を出した」だけではないようだった。
 Wさんの腕や手に、アザのようなものが幾つもあったからだ。足には湿布が貼ってあった。手首には鈍い痛みも残っている。

 お姉さんが連絡して病院へ来た両親も、最初わずかに怯えていた。
 大丈夫? 落ち着いた? としきりに尋ねられた。

 自分は半狂乱になって、ひどく暴れたのではないか、と思った。
 家族にケガはない様子だったものの、テーブルや冷蔵庫やドアなどにひどく体をぶつけたのではないか、と想像した。


 女の子の声と物音を耳にした以降の出来事は、何ひとつ覚えていなかった。



「念のため、って言われてCTとか色んな検査をしましたから、相当心配されるような暴れ方だったんでしょうね。
 異常なしでした。家族には『勉強とか人間関係とかでうまくいかないところがあって』って言い訳しました。
 それでまぁ、ストレスかな、っていう結論になって、一週間くらい入院して、問題なかったので、退院しました」


 ──その後は、何事も起きなかったんですか?


「なんにもなかったですね。本当になんにも。声とか音とか姿とか、一切なかったです。最初のうちは怖かったですけどね。
 親や姉さんも、しばらくは腫れ物に触るような扱いでした。それもちょっと怖かったかな。どんだけ暴れたんだろう、って思って。
 あと、電話をかけてきた副担任の先生もちゃんと学校に来てましたよ。あの人にも、特に変化はなかったかなぁ──」


 ──それで、あなたをいじめていた子たちはどうなったんですか?


「いじめてた子たち、ですか」
 Wさんは少し困ったような顔をした。
「それは、詳しく話さなきゃいけませんか?」


 ──いいえ、おいやでしたら、無理にとは言いません。


「そうですかぁ。まぁ、そうだなぁ──」
 眉間に皺が寄る。
 しばらく考えた後で、Wさんは小さな声で言った。
「あの子たちはね──学校にはもう、来なかったですね」


 これくらいでいいですか? 
 なんか、長いのにわけのわかんない話でゴメンなさいね!
 でも、聞いてもらってスッキリしました!

  Wさんが微笑んで立ち上がりかけたので、もうひとつだけ、と呼び止めた。


 ──旧校舎の鏡は、どうなったんでしょうか?


 Wさんは座り直した。
 微笑が消えて、無表情になっていた。
 無言で、首を横に振った。


「わかりません」という表情ではなかった。
「知らない方がいいですよ」と言っている顔をしていた。






【完】

 

☆本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」別館、
 忌魅恐いみこわ
 最終夜より、編集・再構成してお送りしました。

 なお「忌魅恐」とは、某大学にて部員が突如として全員失踪した文芸部に残されていた怖い話の冊子を譲り受けたかぁなっきさんが
「こういうのはな、世に広めてどんどん薄めてった方がいいんだ」という 悪意 善意で語って拡散するシリーズです。

★禍話については、こちらもボランティア運営で無料の「禍話wiki」をご覧ください。

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