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ライオン・キング(2019)

2019年公開。アメリカ製作。119分。

最大の印象は、原作より強く生命のつながりが表現したいという監督の意志の顕れ。というのは、超実写として表現された表情のない動物の映像が、虚構としてではなく生命の物語を繋ぎ、ミュージカル的な過剰演出に頼りすぎない動物たちの穏やかな営みとして脳裏に焼き付いているから。

ライオン・キングは、生命のつながりというスケールの大きな感動を、動物の日常にセリフを当てる、という"もしも"の設定で語りかける。観客が期待しているのは、草原や大地のなかを動物たちと一体となり、想像上のカタルシスに思いを巡らす時間。

それは、現実に起きていることに小さな意味を見いだしていく、われわれの個人的な作業とは一線を画す何か特別な感覚をもって、観るものを惹き付けている。いまこの作品を再び映像化する意味はなんだろうか。

この作品の中盤で大きな意味を持つハクナマタタとは与えられたものを最大限活かしきることとわたしは心得た。今の自分を最大限楽しみ、先の未来を心配しない。自分のための人生、自分が主人公として生きる。その為のことば。

悪役として君臨するスカーのことばは対照的だ。手に入れることよりも与えることを考えよと説くムファサ王のような、現在の状況を守り継続しようと努める意識を批判し、変わりゆく未来には準備せよ、と警告して現状への不満を煽る。スカーは現状に満足していない為に、自らの未来を自らの力で拓いていけなければ、勇気とは意味をもたない。つまり、王としての自分でなければいけないという意識である。手に入れるべきものが、いまここにない、という渇望の状態だ。

ムファサ王は勇気とは必要に応じて取り出すものであって、心の状態とは一線を画す緊張状態だと認識する。それは、王という地位を先祖からの継続する任務だと考えることで自らを律したうえで成り立つ、思考である、と。

シンバにとってハクナマタタとは、生きることを肯定することばである。渇望した状態から、自らを催眠にかけて満足させる思考である。シンバはハクナマタタということばによって、自分を生きることに必要になることばの存在に気づいた。そしてナラというパートナーのことばによって自分が何者か、つまり中断していた王子としての任務の存在を思い出す。

与えられたものの大きさに気がつかずにいたシンバは、生命の輪のなかから離れてから気づいた自身の弱さから、未来に恐怖を感じる。やがて水面に映った自身の姿(アニメでは怯えているシンバ→気高いムファサに変わる演出)に、自らの任務(使命)を思い出す。それはすなわち自らの宿命に従うことを意味する。催眠によって満足を得ていたシンバは渇望を再び呼び醒まし、ことばによって亡き父と交信したのち、与えられた自分の使命を思考する。やがて与えられたものを奪わんとする存在への反撃へと心を変えていく。このときのシンバはスカーと同じく、渇望の状態といえる。

このシーンで観客はシンバの勝利を確信するが、登場することばの存在の大きさに気づかされるのではないだろうか。スカーのように、与えられていないことを自覚することで何かを手に入れようとすることは多くても、シンバのように与えれたことばから思考して変わっていくことは難しい。結果としてシンバが宿命ではなく、幸運により王となることは、父ムファサの運命からも浮き彫りにされる。良くも悪くも、ことばの行き交いがシンバの運命を変えるはたらきをしたのだ。

人間と動物の決定的な違いとは、幸福とは何かを自ら決めることが出来るところにある。いや、人間であることはつまり、決めなければならないということであり、思考は避けることができないものだ。だからこそ迫られる選択肢は与えられたことだと認識しているものにしか、勝利はみえない。ライオン・キングを見に来る心理、それはより多くのことばを受け入れる幸運を、この映画が観るものに気づかせてくれるからだろう。

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