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殺人者の記憶法

「殺人者の記憶法」を鑑賞。2018年公開。製作国、韓国。117分。

鑑賞後、映画とはなんぞや、漠然と頭を巡らす時間が何日か続いた。

映画とは、最古の知的体験型装置である。暗い(黒い)箱の中に閉じ込められた空間内で、日常から非日常へ、また日常に戻る過程へと、観客のデリケートな部分をさらけ出す映画という装置自体は、100年間形をあまり変えずに残している。観客は約2時間の映画体験のあいだ、緊張、感動、恐怖などさまざまな感情を想起する。映画と一括りにしたところで、種類は多岐におよび定義がむずかしいことに気づいた。

20代前半で映画製作を志し、少しだけ独学で映像について学んだとき、ウォルター・マーチ氏の著作「映画の瞬き」を読み、印象に残っている言葉がある。
映画館で恐怖を煽る映像を見ている子どもに、隣にいる大人が声をかけている。
ーー大丈夫、ただの映画だよ。ーー
ここでウォルター氏が話しているのは、
ーー大丈夫、ただの絵画だよ。ーー
とはあまり聞かない、という点。
しかし、映像に関しては、「大丈夫、ただの映画だよ。」という言葉は実際に使ったり耳にしたりする方が多いのではないか。絵画を見るときでさえ、"絵画の価値を体験する"、ということはある。しかし、絵画から経験を想起したり、感情を爆発させて泣き出したり怒り出す人はいないだろう、という旨の仮説だ。

映画による経験の錯覚は、映画のように視覚と聴覚で物や人物の動きを追わせる演出、俳優がト書を読んでいることを観客が忘れる演技などが、われわれの心理共有能力に働きかけてくることによる。
ーー映画体験とは、まるで親しい友人と対話をしているときのような感覚である。(要旨)ーー
優れた映画とは観客と対話し、体験を経験と錯覚させてくれる。この映画でこんな体験をしたんだ、いや、わたしはこんな体験があった!劇場を後にした観客が、語りだす。SNSの発達により、やがて映画はコミュニティや国を越えたそれぞれの立場から、より具体的な証拠を持って語り合うということが、時代や国を越えた次元で可能になってきている。

ならば、映画やドキュメンタリーを読みとく学問は存在しうるか?映画製作が社会的背景や時代との関連性、国家的制約などのもとに行われている事実を踏まえれば、ひとつひとつの映画の展開を批判的に解読する社会学を構想し、例証することは可能ではないだろうか。映画による社会学(ここでは単に映画学とする)の発展とは、映画を観終わった後の私的宇宙に内閉しがちな我々の2時間の対話を細かく分類・分析していくことであり、第三者の視点に対話を開示していくことである。つまり、映画学とは映画を客観的に研究・明示して議論の場に挙げることであり、優れた映画を新たに生み出し、社会が正当に評価していくための土壌となるのだ。

本作では殺人者同士の対決がテーマだ。最も鍵になるのは、主人公の過去にある殺人者としての記憶は、ある事故による外傷と精神性のショックにより、一時的に更新されてしまうという設定。そして、記録するという習慣は忘れないという設定のお陰で、主人公はボイスレコーダーと日記を頼りに、愛する娘を殺人者から守る自分の使命と殺人者としての過去の自分の存在を留めておけるのだ。

二人の殺人者がいることに、観客は戸惑いを覚える。というのも、この映画は、刑事対殺人鬼のように勧善懲悪の話ではない。はじめから主人公が殺人鬼である過去が明かされる為、たとえその過去が主人公の劣悪な少年期の環境によるものであったとしても、観客はなかなか主人公に感情移入が出来ないだろう。むしろ、この主人公がどう人生を送るのかを観察し始める。主人公が殺人鬼を追い詰めていく姿は狂人の如く鬼気迫るものがありながら、テープレコーダーの記録を頼りに、少しずつ真相に迫っていく。犯人である殺人鬼も主人公の娘をガールフレンドにし、同僚を騙すことで記憶障害の主人公を殺人容疑の真犯人に仕立てあげ、罪のないガールフレンドを殺害しようと計画する。

物語終盤での二人の対決は人間対人間の素手での生々しい殺し合いになる。観客は、殺人者の恋人と殺人者の父親の対決を見守る純真無垢な娘の表情に注視する。お父さんは殺人者なの?と聞く娘に対し、殺戮に勝利した父親は、私は殺人者だ、
と答える。娘は絶望し、殺人者の父親を拒絶する。時間が経過すると、娘は記憶を失った父親が保護されている施設で冷静に彼の髪を切っている。記憶を失った父親への同情とも、自身の置かれた状況への諦めともとれる表情がこちらの共有心理に訴える。

果たして理性的な判断とは、なんだろうか。記録という習慣は理性に基づくものであるならば、狂人とは並外れた危機意識がもたらす一時の心理状態だろうか。殺人者の意識とせめぎ合いながら、娘を守れ、若しくは殺人容疑から自身を守れ、そう語りかける意識が記録による仕業であるならば、これは理性的な判断であり自己防衛の働きであるかもしれない。この映画の主人公には一瞬だけ、本能で記録している場面がある。それが、最後に娘を誘拐した殺人鬼のもとへ車で向かいながらテープレコーダーに録音するシーンだ。男は記録する。私は殺人者だ。娘を殺される前に男を殺せ、と。直前までの理性的な彼と、本能の殺人者としての意識から殺人を予告する彼が、はじめから記憶障害による枷がはめられた殺人鬼として生きている同一の人物であることを、彼自身が認知する瞬間だ。

殺人を犯したことのない観客だからこそ、全く違う次元に置き換えての個人的な記憶にまで物語が肉迫し、先程まで冷静に観察していた理性心理を強烈に揺さぶられる。善と悪、白と黒の単なる二原論に落ち着くことのない本能の感情を観客は呼び起こされる。それは、人間というものの元来の姿への凝視を要求し、答えを突きつけようとする製作者の意図した装置ではなかっただろうか。殺人というテーマが倫理的に取り上げられているのではなく、人間という存在を掘り下げる為のあくまでも副材料としての機能を果たしている。そう感じたのは同じアジア人種としての共感力かもしれない。

「殺人者の記憶法・新しい記憶」では違った視点から記憶の曖昧さ、人間の理性と本能の側面に迫る。自分に都合のよい記憶を優先させて、過去の忌むべき記憶を忘れていく人間のさが。記憶の意味を自分に都合良くすげ替えることが出来る、人間の生物的側面について本作では、主人公とカウンセラーによる記憶の検証という設定で、物語を新たな視点から語りだす。日記というより小説だな。カウンセラーの呟いた、ふとしたセリフがしつこく胸に残る。人間の心理に即した、日常にドラマ性を持たせる日記という記録方法に、人間の記憶の不確かさを見せつけられたことで、我々自身の記憶までも疑われている感覚になり、しばし熟慮してしまう。

ラストの数分間で明かされる主人公の殺人者としての正体には、記憶の編集を利用して殺人を繰り返す人間の整合性が顕される。記憶とは、あくまでも個人的なものである。ゆえに、他人の干渉を許さないものなのかもしれない。主人公の徹底した殺人鬼ぶりは、記憶をめぐる知識の大半を西洋科学への信頼で解決させている、そんな我々へのメッセージとして、人間らしさを捨て華奢になってしまった現代の人間像を感じさせた。

映画体験の可能性を切り開いた本2作は、記憶という人間の機能から深く人間性を抉りこむ。新しく編集される記憶という未知の恐怖感がある映画だった。そして映画とはあくまでも非日常の黒い箱での出来事である、ということを観客と製作者が認識する、鑑賞後の対話が出来る映画であった。日本のこれからの映画製作、映画の発展における映画学の必要性は否めないだろう。隣国韓国ではこれだけ映画の機能を利用し、人間性の追及をした作品が撮れるのだ。世界という第三者の視点から人間を見つめた映画を撮るための映画学を、日本というコミュニティから再発信することが急務だと思う。そのためにも、映画学が広く早く認知され、よい作品を育んでいこうという風土とが映画体験の可能性の広がりに追い付けることが先ず優先されるべきだと思う。映画体験の後でも黒い箱から出ることなく非日常の毎日を過ごしている観客を生まない為にも、だ。

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