こども時代

こんにちは
今日は関東はすごく冷たい雨が降っています
暖かい日が続いたのでこたつは片付け
冬物もせっせと洗って片づけてしまいました泣
だいたいいつも先走って後悔
GWまではこたつも出しておかなといけないのか?
でも暑くてこたつ布団が邪魔だったしなぁ・・・

わたしの人生のメインはモラオとの生活になってしまいましたが
その話をするのにも毒親が絡んでくるのでまずは人生の初めからにしようと
思います

ワタシは農家の長女として生まれました
最初の子だったのでまあ男でも女でも
喜んでくれたとは思います
祖父母にとっても初孫で妹A子が生まれる1歳8か月までは
きっとかわいがってもらったと推測

おそらく江戸時代からずっと続く農家で祖父は7人兄弟の長男
父は3兄弟の長男
頭の中は跡継ぎのことでいっぱいでした
結婚したら世継ぎの男が生まれなければいけないという思想
でも
ワタシが1歳の時に生まれた妹A子も
3歳の時に生まれた妹B子も女の子で
最後の望みを託した4人目も女の子でがっかりしたとよく言っていた

ワタシが6歳の時に生まれたC子を見て
もうしょうがない
長女に婿でもとらせればいいかと
そういうことで諦めたらしい

3歳でふたりの妹ができたワタシは
母親のひざに乗りたくても
抱っこしてもらいたくても
我慢しなければならず
母の横に座るだけで満足するしかなかった
母もワタシと手をつないで歩いた記憶がないといった
まあそういう感じ

物心ついたころからすでにお姉ちゃん
祖母はワタシのことをお姉ちゃんと呼んだ

C子が生まれたのは私が小学校に入学してすぐの4月だった
うちの子たちを見て思うのだけど
小学1年生
まだまだ学校のこともよくわからないし時間割すら完璧に揃えられる状態ではない
ワタシは忘れ物が多かった
なんで忘れものをしてしまうんだろうと悩んでいた
先生は女の先生で
おそらく妹も大勢いて農家で母が忙しいんだろうと察してくれたのか
そんなに怒られたという記憶はないのだけど

母はやはりとても忙しい人になってしまった
こどもから見ても想像はつく
毎日8人分の食事作りを朝昼晩3食
まだまだ手のかかるこどもの世話
世話といっても学校から帰るとワタシが妹たちと遊んであげたりしていて
何か問題が起これば母か祖母を畑に探しに行くという感じだった

いつからだろう
父は怒鳴ったり頭をげんこつで叩くようになった

4人でぎゃーぎゃー騒いでいると
うるさーーーーい!と怒鳴り
いつも不機嫌で怒っている印象

悪いことをしてぶたれるのならいざしらず
何もしていなくても
気晴らし?なんだったのか?
急に頭をぐーで叩かれたりした
これはワタシとA子だけらしい
B子とC子はやられてない模様・・・・
そういう不公平さも大嫌いだった

怒鳴り散らす父
気が付いたらもう大嫌い
母はぶたれても見て見ぬふりだった
それでもこのころはまだ母のことは好きで
毎日休みなく働いている姿を見て少しでも助けたいと
そういう気持ちだった

小学4年生の夏休み
長期休みの時は洗濯をかってでた
当時はまだ全自動ではなく2層式の洗濯機で外にあって
6人分の洗濯ものを3回に分けて洗っていた
まずは白い服を選びだし
洗濯したら隣の大きい桶に水をはって手ですすぎ
脱水機にいれ脱水して干す
次に白以外の服を洗濯して水洗い脱水干す
最後に汚れていそうな親の作業着など
1時間以上かかっていた

今考えてもけっこうエライよね?ワタシ?とか思うんだけど
母も毎度毎度ありがとうというわけではなし
別にワタシもありがとうは求めていなかった

その日
ワタシが洗濯をしていると父がにやにやしながら寄ってきた
目の端で見えたけど気づかないよう目を合わせないよう
心の中では
来るな来るな来るな・・・・
と念じていた
念は叶わずワタシにむけて言ったのは

おお
洗濯か
まあ当然のことだからな

とだけ言って去っていった

この日を境に父に対して完全にシャッターを下ろした

別に褒められようとしたわけでも
ありがとうを求めたわけでもない
ただただ母が少しでも楽になればいいなと
それだけ考えていた10歳だったのに
わざわざその言葉を投げかけてくる父
今考えても
悲しい気持ちしかわいてこない

あまりにショックすぎて言い返すこともできず
母にも言えなかった
誰にも言えず今日までずっと心の中にしまって
時々取り出しては嫌な気持ちになる笑

今日を区切りに
noteの箱にあの時のワタシのきもちを入れて蓋をして
この話はすっぱり忘れよう


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