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イナタウツボ・ミステリーズ

「愛がなければ私はただの鳴る銅鑼」(新約聖書)

はじめに
 イナタウツボは「わかりにくい」作家である。
 なぜなら、いつもイナタはひとり、深い瞑想の中で微笑しているからだ。
 彼とは、予備校、美学校、シェアハウス「渋家」、そしていま運営している共同アトリエと、常に一緒に芸術に携わってきた。おそらく、私は彼の芸術について最もよく知る人間のひとりである。
 しかし、それでもなお、よくわからない。
 コンセプトを聞こうにも、発する言葉は詩的な喘ぎのようで、要領を得ない。すべてが潜在している。その潜在性は、おそらく、彼の作家的本質でもある。「わけがわからないけど凄い」という正統な前衛的経験を与えてくれるのが、彼の作品群なのだ。
 とはいえこのエッセーは、少しでもイナタ作品を読み解きやすくするための試みである。そのために、いくつかの補助線を引いてみよう。


ルーツ・プロセス・コンテクスト
 まず、彼の個人史と絡めながら、アーティストとしての経緯を概観する。
 イナタは予備校時代から、石山修武などに感化され、ドゥローイングやフィールドワークを通して、実践的にアーキテクトを志向していた。その後、2009年に早稲田大学建築学科に入学し、ル・コルビジェやダニエル・リベスキンドに傾倒している。つまりモダニズムと同時に、それを脱構築するポストモダン建築にも影響を受けていた。これらから、彼の作品のベースに建築的思想・造形性が底流していることは明らかだろう。
 また大学の傍ら、美学校の「内海信彦 絵画表現研究室」で二年間絵画を学んでいる。師独特の抽象画を契機に、ジャクソン・ポロックを筆頭とする抽象表現主義の影響を大いに受けていることは、言うまでもない。そればかりでなく、アウシュビッツ=ビルケナウをはじめ、この時期に海外の様々な場所へダークツーリズムを敢行したことが、作家としての背景に「大きな物語」を刻印している。
 そして学生時代には、ギャラリーKで二度の個展をこなした。2009年の初個展では、初期衝動のエネルギーを伴った巨大な画面が渦巻いており、ここでは既に、鉄や顔料、サビを活用したイナタ特有のマチエールの原型が見てとれる。一方、二度目の個展「破水、沸騰。」(2010年)では、屏風か、あるいは舞台装置のように絵画平面が自立しはじめ、銀の球体やパネルが空間に配置されていることから、インスタレーションの萌芽が胚胎されていた。何より注目すべきは、これらの絵画が身体性でもって制作されていたことだ。それらは肉体や木刀を用いた一回性のアクションで描かれ、そのうえ、会期中には半裸で踊るなどのパフォーマンスも行われている。
 まさにそれと相前後して、イナタは暗黒舞踏/コンテンポラリー・ダンスに入れあげていた。土方巽や大野一雄を糸口に、多くの舞踏家の舞台を手伝いながら、自身でも踊りを試みていたのだ。それらのキャリアが結実したのが、2012年に中野の小劇場「テレプシコール」で開かれたダンス公演「肉舞 -shishimai-」であろう。これは、イナタが企画・舞台美術を担い、計七名のダンサーを招集、生肉を敷き詰めた舞台上で身体表現がとり為されるという異色の舞台だった。
 さらにこの期間には、多くのグループ展への出品が差し込まれている。たとえば「行使膣展」(文房堂ギャラリー, 2010年)には、「もの派」の修習を経由して、鉄格子をそのまま切り取ったような重量級の立体作品が鎮座していた。あるいは二度に渡るシリーズ「腿テント」(ギャラリーK, 2010年/文房堂ギャラリー, 2011年)は、唐十郎「紅テント」へのオマージュであり、布で覆われた空間に土を敷き詰めた演劇的なインスタレーションだった。むろんそこでは作家たちによるハプニングも起こされており、特にイナタは十字架を背負い徘徊している。十字架というモティーフには、幼少期に洗礼を受けた彼のクリスチャンとしての一面が顔をのぞかせてもいよう。
 他方で、「渋家」関連のグループ展やアート・プロジェクトでも幅広く作品を発表してきた。「渋家トリエンナーレ2010」への参加を端緒に、「TRANS ARTS TOKYO」(旧東京電機大学, 2012年)や「イケる気がする展」(HIGURE 17-15 cas, 2013年)では、出品のみならずディレクションも務めている。特筆すべきは、TATに出展した《Independence of Parallelogram》だ。これは平行四辺形への偏愛を可視化した習作であり、直角や四角形のもつ固定化された図像に抗うシェイプト・キャンヴァスである。そもそもイナタにとって、平行四辺形の原点はムンクの絵画にあるという。この非安定的なフォルムは、傾きと平行を基にしたムンク作品の独特な図像的解釈から探り出されているのだ。
 ほどなく、イナタは仲間とアトリエ「CAVE MORAY」を構える。その間、とりわけヒップホップを中心としたクラブ・ミュージックやドラッグ・カルチャーにコミットしつつも、ドゥローイングやペインティングの試作と深化を継続して今に至っている。
 ことほどさように、多様なコンテクストが錯綜するその交点こそが、イナタウツボという作家なのだ。

個展のテーマとトピック
 次に、その上で今回の個展を見渡してみよう。
 そもそも、展示タイトルは「YabernModern-波音-」であった。ここではまず、「野蛮(Yabern)」と「近代(Modern)」という正反対に位置するものの存在、そしてその間に横たわる境界線が、韻文的に示唆されている。しかしイナタによれば、それらは静的なものではなく、「お互いがふれ合い、混じり合い、入れ替わり、波のように揺れ動いている」(作家ステイトメント:以下同)。つまり本展のコアは、真逆のものが境界を行き来する際に孕む、ダイナミックな矛盾それ自体にある。
 なおかつ注視すべきは、これまでにはみられなかった時事性の介入である。作家によれば本展の軸には、東日本大震災と、ISISを中心とした中東の紛争、そして友人の死が横たわっている。
 たとえばイナタもむろん、3.11の衝撃を踏まえて制作を続けてきた。彼は福島の被災地いわきや富岡町を訪れながら、「建築も、自分の思想も」、「直立してたものはすべて揺さぶられて傾いた」ことを痛感する。それが本展に散見される、「傾きながら強く自立する」アンビバレンスを宿した、鉄骨による「震災後のリアルな構造」の制作に繋がっていよう。
 あるいは、中東における紛争への眼差しは、クリスチャンである彼自身への自問自答を喚起した。世間では、イスラム教原理主義が盲目的に敬遠されがちであるが、敬虔とは言えないまでも、カトリック教徒"ヨハネ・ボスコ"としてのイナタウツボは、しかし、現代の抑圧的なキリスト教(原理主義)に疑義を呈する。であるがゆえに、「最期のカトリック思想を作品に変えて放出する」という。
 そして、イナタはここ1年の展示準備期間に、二人の友人を亡くしている。一人は自殺、もう一人は事故死だが、「本当の死因は当人にしかわからない」。これら身近な者の死による透明な喪失感は、空間に凛と鳴り、リリカルな叙情を湛えている。この極私的な経験は、作品による追悼を媒介に、普遍的な哀しみとして他者に共有され得るであろう。
 とうぜん、これら全てに、陸と海、揺れと静止、安全と危険、直立と傾斜、宗教対立、戦争と平和、人種の差異、そして生と死といった、数多の境界線が横臥している。そしてイナタは、「境界のジレンマ」に引き裂かれつつも、なお、その間を往還しようと企む。この展示は「境界の冒険」によって「自由」を取り戻すための営みなのだ。

展示作品のコンセプト
 ではそういったテーマは、具体的にどのような形をとって現れているのか。
 まずメインフロアには、映像作品《YabernModern/波音》が流れている。地震による津波——陸と海の境界線(波)が侵犯されるのは、あくまで自然現象だ。しかし彼はそこに「人間の意思」を重ね合わせる。近代社会の利便性を享受している人間の一面と、野蛮な動物としての一面、その二極が、情緒不安定によせてはかえす。「ザバーン、ザバーンと波の音がする。海岸線に立つ自分の心が聞く音はヤバーン、モダーン。」
 次いで真っ先に目を引くのは、二双の平行四辺形型屏風だ。先述したような平行四辺形への偏愛は、ここに極まっている。そもそも平行四辺形の定義とは、二組の対辺がそれぞれ平行な四角形のことである。これを踏まえて作家はムンクの絵画を、「傾きで不安を表現しながら、平行で平穏を望んでいるように思える」と読み解いている。この"傾き=不安”と"平行=平穏”の二律背反的な同居こそ、十字架に代表されるように、直角を基にして忠誠を誘う宗教画的秩序に対峙するアンチテーゼとして機能しているのだ。その上で、「平行四辺形は1枚では不安定だが、4枚で3次元的に自立することを発見」し、屏風状に組み合わせた。しかも、地面と接する四点もまた、平行四辺形を描いている。つまりこの絵画/立体は、いくつもの平行四辺形が自己相似的に反響し合うフラクタル幾何学の様相を呈しているのだ。
 その構造を前提にして《Vibes/野性》と《intellect/知性》の画面を見よう。前者には、彼がこれまで培ってきた絵画的記憶・方法論が百花繚乱に咲き乱れている。凹凸ある豊かなマチエールに、抽象とも具象ともつかない色彩や線が、力強い筆跡で描かれているのだ。彼の芸術的道程が、この一作に全て畳み込まれていると言っても過言ではなかろう。一方で後者は、無機的なアルミの鏡面によるアーキテクチャだ。空間や観客を反射しながら平行四辺形の構造そのものを浮き彫りにするこの作品は、前者の情熱に対し、あくまでクールにギャラリーに突き刺さっている。言うまでもなく、前者が野蛮さを、後者がモダニティを担って対峙されることで、空間全体に対立と境界が張りつめている。
 その中央に置かれるのが、《Smooth Criminal/華麗なる犯罪者》だ。マイケルジャクソンの曲名、そして曲中のパフォーマンス「ゼログラビティ」からタイトルの着想を得たこの作品は、イナタのクリスチャン的要素を(反語的に)抽出している。いびつに組み合わされた鉄骨は「傾いて倒れそうな十字架が、自分の影によって支えられている」イメージを表象し、また、「ゴルゴダの丘(キリストの処刑場)を十字架を背負って登っていくキリストそのものを模している」。ここにはむろん、十字架の垂直性、すなわちキリスト教の一神教的硬直性に対する、傾きを用いた自己言及的な批判意識も忍ばせてある。なおかつこの構造は、福島県富岡町にある震災で折れ曲がった電柱のメタファーでもあった。地震と津波によって傾いたまま、しかしそれでも踏ん張り、大地に自立し続ける電柱/十字架は、震災後の被災地における困難と不屈、そして復興への意思を未来へと投じよう。
 この宗教ないし震災的系譜として、《Retake/境界線上のマリア》や《recapture/奪還》、《Judgment/脱法》もまたある。その名の通りバッハ「G線上のアリア」のしらべを想起させる《Retake/境界線上のマリア》では、崖の上の黄金のマリアの胸から離れて、イエスは宙吊りとなって中空を曖昧に漂う。聖なる母子の蜜月は切り離され、その境界(教会?)の上で付かず離れずの離合を演じているのだ。同じく《recapture/奪還》では、海岸線で男女が別れる様を描いたムンクの《離別》を図像的モティーフに、流線形の特異なフォルムが切り出されている。《Vibes/野性》と反響し合うそのパネル上のペインティングは、事実、福島県南相馬の海岸でパフォーマティヴに描かれた。さらに鉄骨の秤《Judgment/脱法》が喚起するのは、公平性の象徴が、正義/悪、法/脱法といった二物のあわいで揺れている様である。
 まさにその意味で、生死の境を表したのが《Dead Man's Pill Stars/夜》だ。この処刑台は、新約聖書の一節を手がかりに、「錆びて黒ずんだ銅鑼を磨いて銀河を描いた」、自殺した友人への追悼作である。赤と青のロープ(「静脈と動脈、床屋のグルグル、起源は医者のシンボル」)によってぶら下がった銅鑼は、最期に首を括った友人の死因に見立てられ、表面を夜、裏面を昼と看做し、表にはイスラムの月が、裏には日の丸の太陽が描かれている。その表面=夜に散りばめられているのは、かの人が常用していた抗不安薬「デパス」の星々である。精神科医が処方する合法ドラッグへの依存は、クスリ無しでは気が狂いかねないこの社会の不自由や息苦しさを逆照射しよう。であるがゆえに、この処刑台のみ、傾きではなく垂直・直角をもってアイロニカルに設計されているのだった。

おわりに
 斯様に作品をくまなく見通してゆけば、自ずから、イナタウツボというアーティストによる「YabernModern-波音-」が、海の底から立ち現れてくるだろう。まさしく、「砕け散った瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座」(ベンヤミン)が、ナオナカムラの銀河系に明滅するのだ。
 であるからといって、もちろんこれは私の読みであり、各人各様の鑑賞の仕方があることは言うまでもない。各々が、各々の網膜に浮かんだ「星座」を仰げば良いのである。
 最後に作家の言葉を引用しよう。

「言葉で書くと矛盾をはらむしかないから美術にする。(中略) 傾いてるけど安定してる、意味わかんないけど美しい、それがクソったれな世の中の活路だ。」

 そう、長々と言葉を尽くしてきたが、イナタウツボは、その芸術は、本質的に語り得ない。
 なぜなら、いつもイナタはひとり、深い瞑想の中で微笑しているからである。


※この文章は、イナタウツボ個展「YabernModern-波音-」(ナオナカムラ)に寄せたものです。
以下詳細
イナタウツボ個展「YabernModern -波音-」
会期:2015年3月20日(金)~3月24日(火) 14:00~23:00
オープニングレセプション:20日(金)18:00~
イベント:22日(日)19:00~イナタウツボ×中島晴矢(現代美術家・ラッパー)によるアーティストトーク
会場:素人の乱12号店(東京都杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F)
http://naonakamura.blogspot.jp/2015/03/yabernmodern.html

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