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言葉に興じること

多和田葉子『飛魂』(1998年5月6日初版)について

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梨水、亀鏡、煙花、紅石、指姫、粧娘、朝鈴……著者によれば、登場人物に与えられたこれらの特徴的な名前は、漢字を適当に組みあわせてつくられたという。そのため著者にすら読み方がはっきりしないものがあるという。漢字のイメージが組みあわされて生じるあらたなイメージ。漢字のイメージ形成力。

本作のタイトルも同様だし、作中にも見慣れない熟語がちりばめられている。思わず、言葉に興じる多和田氏の姿が脳裡をよぎる。

鬼の言葉

多和田氏の言語世界は独特である。独特すぎて、氏がこれまで過ごしてきたであろう孤独を思わずにはいられないほどである。

ちょうど氷のことが講義で話題になっていた時、「滑るというのは、水の骨のことである」とわたしは発言した。

たしかに、ひとつの漢字でさえ、意味と意味が混ざりあっているものがある(偏傍冠脚という意味のグリッド)。だが、上に掲げたような文にぶつかった時、無性にドキッとしてしまうのはどうしたわけだろう。

多和田氏が行っているのは一種の言語遊戯だが、数ある作品のなかでも、本作はとりわけその透徹さが際だっている。あまりに徹底していて、表現するものとされるものの間に言葉しか存在しないことを思い起こさせるほどである(そもそも“言葉”は“存在”し得るのか。読者であるわたしに、これまで生きてきて思ってみたこともないこのような疑問を投げかける多和田葉子という人は、いったいどれほど長い間、そしてどのようにその言語感覚を保ちつづけてきたのだろうか)。

「魂」という字は鬼が云う、と書きます、つまりものを云う鬼が魂です、と発言した。講堂にどっと笑いが起こった。つまり、わたしがしゃべっていても、実際はそれは鬼を招待して、その鬼にしゃべらせているのであって、そういう訳で、わたしの魂の本音はいつも鬼のしゃべっていることです。

魂の本音は鬼のしゃべっていることだという。まるで他人事のような言いようである。しかし、そのような境地に立つことができなければ、ここまで遊戯的に言葉を捉えることは難しいのだろう。そしてそのような境地に達したときにはじめて、言葉は話者を超えたもの、鬼の云わせたものとなるのだろう。

言葉にしばられること

飛魂の基本構図のひとつとしてあるのは、まるで言葉それ自体が生きているかのような独特の価値観である。ただし、独特といっても、わたしたちからそう遠いものではない。話者から生じた言葉が話者を超えた力を持つことは、言葉をはなし、言葉で思考するわたしたち人間にとって、ある意味逃れようのないことである。

一度ある言葉に捕えられてしまうと、その言葉に繫がっているいろいろな言葉が鎖になって、わたしの欲望を縛り上げてしまう

上に引用した通り、この感覚は作中でも自覚的に語られている。実際、これと似た感覚を抱いたことのある人は少なくないのではないか。言語と思考の関係に注目した研究も数多くなされているようである(たとえばS. I. ハヤカワ『思考と行動における言語』1949年。その他チョムスキー、ヴィゴツキーなど)。

そもそも、ある角度から見れば、すべて作家と呼ばれる人びとは言語遊戯に興じているといえるだろう。しかし、その遊戯性を常に意識の俎上にのせた上で、言語遊戯そのものを主題に、ここまで見事に物語に転化させ、かつ自らの人格と溶けあわせることができる人は、多和田氏をおいてほかにいないのではないだろうか。

言葉を生きることの滑稽さ

物語の語り手・主人公である梨水をはじめ、本作の登場人物は、すべて言葉を生き、言葉によって生かされている。そんな彼女たちの人生は、他人の目には滑稽なものとして映ってしまう。

「女たちが遊んでいる。道に捨てられた文字を拾う女、蜘蛛が怖いから密封テントの中で寝る女、いつも煙草の三分の一を吸っては火を消してしまう女、郵便配達の手伝いをしている女、何をしても指が痛い女、詩を書く時にいつも梨を齧っている女」この歌を聞いて、わたしたち三人は深刻に黙り込んでしまった。

たしかにあらゆる遊戯には、その遊戯特有の滑稽さがつきまとうものである。けれどもその滑稽さを自覚した上で、やめたいと思っているのにやめられないとなると、これは深刻な事態である。

実はこの“深刻な滑稽さ”に多和田氏の眼目があったのかもしれない。もう後がないという状態になってはじめて生まれる笑いがあるだろう。笑いは共感の一形態であり、共感は孤独をおぎなう。後がなければないほど、そこから生じる笑いは、より深いところで孤独を癒すだろう。以下は『飛魂』の末尾である。この稀有な小説は、笑いで終わるのである。

鬼の字が入ってきたので、張り詰めていた力がゆるんで、ほぐれ、隙間から新しく流れ込んできたものがある。戸惑いの唇がくずれて、笑いに変わった。回転する車輪のように亀鏡が笑い、その笑い声の中にわたしは虎を見た。

飛魂

多和田氏にとって『飛魂』という小説はいったいどのような意味をもっている/いたのだろうか。意味、というほど明確なものではないかもしれないが、そのことをつい考えてみたくなる。

本作において多和田氏は徹底して言葉に興じている──たとえそれが孤独や滑稽さをもたらすとしても。その意味で『飛魂』は作者が言葉に興じる場であったといえる。いい換えれば、多和田氏にとって『飛魂』を書くことは、自分の魂に居場所を与え、生きながらえさせ、かつ飛翔させることだったのではないか。

──ここまで考えて、思わず感動にふるえる。言葉に興じること自体は自分にも経験がある(読むときも書くときも)。でも、まさかそれが魂を生きながらえさせることにつながるなんて思いもしなかった。実際、わたしの中にあった言葉にまつわるモヤモヤは『飛魂』という場を得て息をふきかえし、魂となって多和田氏のつづる言葉とともに飛翔していた。なんとすばらしいことだろう!

最後にもうひとつ、感動ついでに記しておきたいのは、ここから芸術の意味を類推できることである。おそらく芸術の意味のひとつは、送り手にとっても受け手にとっても、魂に居場所を与え、生きながらえさせ、かつ飛翔させることにあるのだ。

#多和田葉子 #飛魂  #小説

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