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見えないものを見ようとする誤解 全て誤解だ

見える化依存症

見える化、という概念はビジネスやエンジニアリングの現場において相当に重視されている。売り上げ、コンバージョン率、進捗、ミーティングでの議論…。

確かに、こういった要素が可視化されているからこそ重要な意思決定が出来たり、チームの中で起きている問題が小さな芽のうちに摘み取ることが可能となる。可視化の威力は疑いようもなく、可視化できるものはしたほうがよい。

しかし、可視化し万全を期したはずなのになにかがうまくいかないときがある。事象が可視化されていると信じている人間が、可視化されていない課題とぶつかったとき、その場に立ち尽くしてしまう。

そうしたときに人は、どういう行動をとるのか。それでも可視化したものを盲信し何かを見出そうと必死になるか、さもなくば「このツールは使い物にならない」と、急に切り捨ててしまう。ここには見える化に、「見えないものを見ようとする」ことに対する誤解があるのだ。

見える化は現実世界を切り取ったもの

売り上げのグラフ。カンバン。議事録。これらは現実世界の膨大な情報量を必要な形にモデリングして切り取ったものにほかならない。であるならば、現実世界との間に隙間が生まれ、取りこぼしがあるのは必然なのだ。

カンバンで可視化されていたはずの進捗がどこかで滞りはじめる。目の前のカンバンからはそのような兆候が見られない…よし、じゃあカンバンは使い物にならん。捨てよう。

こんなふうに考えてしまうと、問題の核心にたどり着くことができない。カンバンという道具では、どういった情報が欠落するのか。なぜそうなるのか。どのように補完するのか。

(その逡巡の果てにカンバンを捨てる、それはもちろんありうる選択肢だ。)

本来見えていないものを、見える化によって全部見れていると誤解するのではなく、何が見えていないのかを探る。そういった立ち止まる姿勢こそが見えないものを見ようとするあなたを助けるだろう。

今回の記事は、BUCK-TICKの同名曲にインスパイアされて作成した。




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