悲しみの果てに ~ 舞台 刀剣乱舞 慈伝・日日の葉よ散るらむ

超!!!!!核心に触れるネタバレですよ。

いやずっと騙されんぞ騙されんぞほのぼのっぽく見せたってそうはいかないぞ!!!!!!!という意気込みで初日に挑みましたが、まあ半分正解という感じでした。

2時間20分休憩なしのスタイルながら、中身は語り役に前田を置いた6話オムニバス構成(とはいえ繋がっている)。本丸にやってきた長義とまんばちゃんが対峙して、まんばちゃんが修行に出る決意をするまでのお話。

中盤まではかなり真正面からコメディをやっていて、これはこれですごい挑戦だな~と思った。いや、原作ものではあんまりできないことですよ、こんなにずっと真正面からコメディって。脚本自由度の高い刀剣乱舞ならではだなと思った。雰囲気としてはジョのドタバタパートがずっと続く感じなんだけど、山伏・長谷部コンビが完全に吉本新喜劇のノリ(特に和田)なのと、リーサルウェポン加藤将演じる大包平がとにかくハンパねえので一見の価値あり。鶴さんもかなりいい仕事してるけど、大包平、マジで何度見ても笑う気がする。あれはずるい。コメディは笑いのノリが合う合わないとかあるけど、大包平はそういう問題じゃない。とにかく、大きい。(笑)

6話それぞれにタイトルがついてるんだけど(「ふたつの山姥切」とか「五虎退の探しもの」とか、あとなんだっけさすがに忘れた)、最終話のタイトルが「されど営みは続く」なんですよね。そしてやはりこれが今回のテーマ。

「されど営み(=歴史)は続く」

結局今作は、「意味が分かると怖い話」みたいな感じで(笑)ざっくりいえばハートフルコメディだけど「意味が分かると悲しい話」。TRUMPシリーズによくあるアレです。

新作にちょぎが出るって発表があったときに、「いやステ本丸のまんばちゃん、あんなことがあった後にちょぎが来るなんて踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂すぎでしょwww」って言ってたんだけどまさにその通りで笑ってしまった……。

長義と相対することになったまんばちゃん(山姥切って書けない問題)は、長義を通して自分と向き合う。長義は“自分が本歌であること”しか、この本丸での存在意義を見出せなくて、だから呼び名に拘るけれど、修行(未)のまんばちゃんはそれをうまくかわせない。「写しであっても俺は俺だ」と一度は乗り越えたように思えたけれど、また心が揺れてしまう(長谷部曰く「ぶり返しだ!」笑)。

ここでまんばちゃんが言うんだよね。「俺が写しでなければ、三日月を失わずに済んだんじゃないか」って。

ステの山姥切国広が修行で乗り越えなければならないものは大きい。自身のルーツに、三日月宗近の喪失を絡めている。

いや~~~~これはマジで(脚本が)上手いな~~~~~って唸ってしまった(苦笑)。またさあ、長義が言うんだよね。「この本丸が強いことは認めるけど、お前がこの本丸をここまで強くしたとは思えない(意訳)」って。それを聞いた時のまんばちゃんの顔よ……。そうだよ、この本丸は、三日月宗近が作った、三日月宗近が強くした本丸なんだよ。

三日月宗近によって強くなった本丸。三日月宗近によって強くなった自分。6対1でも歯が立たないほどの強さ。長義とサシで戦っても、刃を向けず、蹴りと鞘だけで長義に勝ててしまう。

彼が手に入れた強さは、彼の「歴史」、彼の「物語」そのものだ。「生きた証が物語よ」、そこにこそ価値がある、とソハヤも言ってくれるのだけれど。

長義との勝負に勝った彼は、ぽたりぽたりと汗を滴らせながら、虚しさを噛みしめているような顔をしていた。長義を相手に力を見せつけたところで虚しくなるだけ。三日月宗近を救えなかった力など、三日月宗近を止められなかった物語など、彼にとって価値がないのだ。

ああ、彼は今、自分の物語を、自分自身を、愛することができていないんだな……って思ったらめっちゃ悲しくて、すげえボロボロ泣いてしまった。前半大包平であんだけ笑ったのに。はあ……。つらい。

「されど営みは続く」。それは、まんばちゃんが修行の旅に出た後の本丸のことでもあり、三日月宗近がいなくなった本丸のことでもある。

三日月宗近を失ったのちも続いていく日々の「営み」を、三日月宗近が繋げたいと言った「歴史」を、山姥切国広は、愛せるのか。

その答えや可能性は、今はまだ(=今作の中では)、どんぐりに象徴される「日々の営みのなかに潜む三日月宗近のかけら」を拾い集めることでしか提示されていなくて、それもまた胸が苦しい。

これまで他の刀剣男士たちが、物語(歴史)を愛する(受容する)ことで主の死を受け入れてきたように、まんばちゃんもいつか、三日月宗近の喪失も含めて自分の物語を愛せるようになるのかな。愛せる物語を作っていけるのかな。そうなってほしいけどそうなってほしくない複雑な気持ちになるし、彼自身もどこかで、そうなりたいけどそうなりたくないんだろうな。でも、そうなるための最後の一歩を、三日月宗近に背中を押されて、踏み出す決意をするという話。だった。

愛とエゴイズム/悲しみの果てにしか「強さ」はないのか

刀ステというよりすえみつさんの中での大きなテーマなんだろうという、愛とエゴイズム。

悲伝で三日月宗近がみせた愛って、エゴイスティックなものだったと思うんですよね。わたしは。それって「手に入れたい」に近いんじゃないかって思っていて。

でも慈伝でふたつの山姥切に対して本丸の仲間たちがみせる愛って、多分、エゴとは真逆の、与える愛だったと思う。慈だからね。

特に小田原でいっしょにいてくれた長谷部、山伏、小夜、だぬさん(そしておそらくばみさんも)がずっと寄り添ってくれているのがすごくよかった。少々スットコドッコイだけど(笑)。鶴さんや鶯丸も、一歩引いたところから支えてくれていて。でもそれがまた悲しいんだよな……これだけ愛されていても、たったひとつの喪失によって自分を愛せないのだな、というところが……。うう……。

刀剣男士の、もっといえば刀剣の、根源的な欲求が「強くあること」だとしたら、悲しみの果てにしかそれはないんだろうか。歴史の中には常に悲しみがあって、悲しみ(喪失や敗北の歴史)を経由することでしか強さ(望み=幸せ)が得られないのであれば、刀剣男士というのはアンビバレンツな生き物だなあと思う。強さと争いと悲しみは常にワンセットだから、当然といえば当然のことなのだけれども。

悲伝のときからずっと考えてる。ハッピーエンドってなんなんだろうなあ。

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