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【企業研究】三菱商事


はじめに


当記事では総合商社の三菱商事についての企業研究を行います。

総合商社は就活生からの人気が極めて高い業界でありながら、
◆他社との差別化が極めて難しい
◆何が強みなのかが分からない
◆どの部署が花形なのか
◆どのような人物像が求められるのかを掴みづらい

といった特徴があります。

そこで、当記事では上記のような就活生の悩みを解決するべく、
◆三菱商事の他社との違い
◆三菱商事の中でどの部署が強い=花形なのか
◆三菱商事がどのような人物を求めているのか

を三菱商事の歴史を創業から辿り、丁寧な解説を行いました。

多くの方々のキャリア選択を成功させるきっかけとなれば幸いです。

基本情報



会社名 :三菱商事株式会社
設立年: 1954年
採用人数 :例年130名程度
選考フロー: ES・適性検査→面接(3回)や→内定

創業の歴史

-三菱の起源は海運業!?

出典:http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki4/yataro5.htm

三菱財閥(本文では三菱と略。)の沿革を抜きにして三菱商事の歴史を語ることはできません。三菱財閥の中核企業の一つである三菱商事の歴史は三菱財閥の沿革と共にあります。

三菱の起源は1870年にまで遡ります。三菱の創業者は岩崎弥太郎であり土佐藩出身の人間でした。明治政府の樹立によって廃藩置県が行われ、岩崎弥太郎が務めていた土佐藩の商事部門も撤退を余儀なくされました。その後、同じく土佐藩出身であった板垣退助と後藤象二郎は九十九商会を設立し、その海運事業を商事部門で事業経験が豊富な岩崎弥太郎に譲渡することにしました。この九十九商会こそが三菱財閥の原点になります。

-軍事輸送を担った西南戦争で急成長を果たす

出典:Tactial Media

1877年に日本で西南戦争が勃発しました。海運業と後藤象二郎の後ろ盾を持つ九十九商会はこの際に軍事物資の輸送を担いました。そのため、三菱は明治政府が軍事物資の調達にかかった資金を富として得ることに成功しました。その利益は明治政府が西南戦争にかけた金額の1/3程度とされ、いかに巨大な額であったのかが分かります。同時に、三菱は政府との関係が強い「政商」としての地位を獲得することになります。

-倒産の危機を迎え、事業を「海」から「陸」へと転換
西南戦争を機に、三菱の政商としての地位に世間の不満が高まりました。その批判の世論を先導する中心となったのが三井財閥です。三井はこの世論の流れに乗り、海運業を独占していた三菱に対抗するべく共同運輸会社を設立しました。三菱は共同運輸会社の海運事業に対して値下げをすることで競争優位性を築こうとしましたが、共同運輸会社側もそれに対抗したことで徹底的な値下げ合戦が行われることになりました。驚くことに、海運の運輸価格は初期の1/10まで下げられました。結果的に、三菱と三井双方が値下げ競争で疲弊し、三菱は倒産まであと一歩のところまで追い込まれることになりました。そこで、過当競争を止めるべく明治政府が仲介に入り、共同運輸会社と合弁で日本郵船会社が設立されました。

(当時の丸の内)

出典:https://smtrc.jp/town-archives/city/marunouchi/p07.html

海運業の独占的地位を失ってしまった三菱は大きく事業方針を転換することにしました。それが「海」から「陸」への転換です。具体的には、当時の主業ではなかった鋼材、金融、造船、不動産事業に舵を切る決断をしました。1885年に創業者の岩崎弥太郎は亡くなり、弟である岩崎弥之助が後を継ぎました。岩崎弥之助は留学を経験しており英語や海外の事業経営に精通している人間でした。彼は三菱の事業の多角化を行い、炭鉱、造船所、幕府の跡地(丸の内)の買収を行いました。

-三菱の組織改革と共に誕生した三菱商事 
三菱は1908年に変革を迎えることになります。それがアメリカのペンシルバニア大学で近代経営の基礎を学んだ岩崎久彌の組織改革です。当時のアメリカではロックフェラー・カーネギーを中心とした鋼材事業で巨万の富を収めた資本家が台頭しており、日本の未来図とも言える社会が生まれていました。だからこそ、これらの企業から近代経営を学んだ岩崎久彌は三菱系の企業に導入できると考えました。具体的には、事業部制の導入です。これは各事業部が担当事業の経営責任を負う近代的な取り組みです。従来三菱では岩崎家を中心とした企業経営を行っており、組織的というよりかは独裁に近い方針を取っていました。しかし、三菱は海運事業の切り離し後、事業の多角化を大規模に行ってしまったことで従来の統治スタイルでは効率的な経営ができないと岩崎久彌は考えたのです。そこで、三菱合資会社(当時の社名)は銀行、造船、商事、不動産部門へと分割されました。この際の組織分割によって誕生したのが旧・三菱商事(戦後に一度解体された)になります。

-財閥解体後の大合併の末、新・三菱商事が誕生

出典:https://jaa2100.org/entry/detail/037024.html

戦後、マッカーサー率いるGHQの命令により財閥解体が行われました。財閥は政府との結びつきが強いだけでなく、その巨額の資本を武器に政界に影響を与える危険性を持っているとアメリカ側が判断したためです。そこで、三菱、三井、住友、安田が解体の対象となりました。当時の三菱の筆頭企業の一つであった三菱商事も分割を余儀なくされました。しかし、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれると、財閥解体の法令は無効になり、三菱商事は再度合併を通じて一つに集約されることになりました。

企業理念/求める人物像

出典:三菱商事公式ホームページ「企業理念」

-三綱領

三綱領とは三菱グループが掲げる3つの行動指針です。

「所期奉公」:事業を通じ、物心共に豊かな社会の実現に努力すると同時に、かけがえのない地球環境の維持にも貢献する
「処事公明」:公明正大で品格のある行動を旨とし、活動の公開性、透明性を堅持する
「立業貿易」:全世界的、宇宙的視野に立脚した事業展開を図る

出典:三菱商事ホームページ「企業理念」

三綱領は1934年に旧・三菱商事の行動指針として岩崎小弥太によって制定されました。岩崎小弥太はケンブリッジ大学を卒業し、若くして日本だけでなく世界の文化・価値観に触れる経験をしました。1916年に社長になると、組織内で多角化していた事業部門を株式会社として独立させ、三菱財閥拡大および日本の重化学工業発展の礎を築きました。その後は政府の丸の内の買取依頼を引き受けるなど国益に叶う貢献をしています。これらの取り組みを支えてきたのが岩崎小弥太の価値観=三綱領だったのです。だからこそ、三菱グループにとって三綱領は三菱および日本発展の礎を築き上げた理念そのものなのです。したがって、採用過程においても世界を見据えて視座高く行動してきた学生、組織の規律を遵守できる礼儀を備え、強い誠実さ・正義感を持った学生が好まれるのだと考えられます。

事業内容

三菱商事の事業部は10個に分かれます。

なかでも注目すべきは都市開発グループです。複合都市開発グループは近年設立され、アジア新興国へ都市開発を主軸としたサービスを提供しています。この事業部を独立させて設立したことから、三菱商事がアジア市場を成長の鍵として今後の進出を活性化させる方針が読み取れます。

三菱商事の強み

-純利益の40%以上を稼ぎ出す金属資源・エネルギー事業

明治~昭和時代に培われた鋼材・エネルギー事業経営の経験

出典:https://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/
mc-me/mission/mineral-resources/

三菱には高島炭坑をはじめとする炭鉱経営の長い歴史があります。1800年代後半に共同運輸社との価格競争によって疲弊した三菱は主力事業であった海運事業を切り離しました。その後、明治時代の軽工業から重工業への潮流の変化に乗り、主力事業を鉱業へ大きく転換しました。その際に、三菱は高島炭坑を落札し炭鉱運営に踏み出します。そして、高島炭坑の埋蔵量を懸念した三菱は次なる収益の柱となる炭鉱を追い求めるべく、三池炭坑の入札に参加を仕掛けました。しかし、三菱は三井に競り負け、三池炭坑の落札を許してしまうことになります。そこで、三菱は三井の戦略とは逆に、中小規模の炭鉱を次々に買収し、経営を行っていきました。しかしながら、大規模な炭鉱の埋蔵量と同等の生産量を作るためには効率的な炭鉱運営を行う必要がありました。そこで、三菱は海外の先進技術を活用することで経営の効率化を行い、三池炭坑に引けを取らない生産量を出すことを試みました。また、三菱は戦後の日本の高度経済成長期にかけてエネルギー資源の発掘・流通の役割を担った歴史があります。だからこそ、三菱は金属資源およびエネルギー発掘・運営・流通に対して他社を寄せ付けない強みがあります。

三菱グループが持つグローバル流通ネットワーク

三菱は明治から昭和時代にかけて日本の軍事需要に対応するため、世界中から物資の流通を担ってきた歴史があります。そのため、海外の拠点および取引先を多く有しており、他社を寄せ付けない流通ネットワークを有しています。したがって、開発・生産した金属資源・エネルギーを大規模に販売できることから大きな利益を上げることができます。

-バランスの良い事業ポートフォリオ

古くから培ってきた多角化経営の経験

三菱は得意の海運業を切り離した後、次なる収益の柱を作るべく造船、鉱業、金融、不動産、建機など様々な産業に事業を多角化してきた歴史があります。そして、それらの事業部に欧米の近代的な経営手法を導入してマネジメントを行い、成長させてきました。三菱商事は戦後に解体され統合された後も、企業理念である立業貿易の精神の下、将来の成長分野に対する投資を総合的に行ったことでバランスの取れた事業ポートフォリオの作成に成功しています。その証拠に、競合の三井物産と三菱商事の注力事業および強みは成長の背景が似ていることから同質になりがちですが、三菱商事の方が三井物産よりも資源に対する依存度が低い事業ポートフォリオを有しています。これは当時海運業という主力事業を失い、さらにその後の炭鉱の獲得競争で三井に競り負けたという困難な状況を経験した三菱だからこそ、事業を安定的かつ継続的に成長させる意志が三井よりも強いのだと筆者は考察します。

金属資源・エネルギーの周辺事業にも圧倒的な強み

三菱商事は調達した資源・エネルギーを管理・輸送・加工する中流領域にも強みを持ちます。三菱は明治から昭和にかけての日本の発展段階において、産業インフラの設計・開発・運営を行ってきました。だからこそ、三菱グループ全体として産業インフラ作りの経験および実績を有しており、それらを今後の発展が期待される新興国に対して展開することができます。

出典:https://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/mc-me/
mission/industrial-infrastructure/

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