見出し画像

感じること、考えること

某声優養成所に入って、1年半が過ぎました。門戸を叩こうと思ったきっかけについては長いので割愛します。

入ってから知ったのですが(おい)、この養成所は一風変わっていて、お芝居のテクニックは一切教えてくれません。ただひたすら、「感じる」ことを叩き込まれます。状況を「感じ」、「感じている自分の有様」を客観的に観察し、「その感じた状態」を再現できるようにする。意識すべきはそこだけだ、と繰り返し、手を変え品を変え、口すっぱく教え込まれます。

要は、「無意識」を「意識化」し、その「無意識」を「意識的に」「無意識であるかのように」再現する。これを超スピーディにできるようにする。そしてそれを、別の世界で応用していく。

「意識化」と「再現」に時間がかかってしまったら、結局その感情は、虚構の枠を出られなくなるのです。「今、嘘ついた」とは、シーンの抜き自主稽古の際、同じ所内の人間同士でよく交わされる言葉です。嘘って、「考えて行う行為」であり、「感情の行為」ではないんです。例えとっさのものであったとしても。だから、感情所以で吐いていないセリフを指して、「今のは嘘だ」と評されます。すごい言葉だと思います。

でも、感情だけを再現し、その結果客観性を失ってしまうと、世界が自分だけになってしまう。視野狭窄が生まれてしまう。実世界だとそういうこともありがちですが、舞台の世界ではそうはいきません。そこが、実世界と、舞台上に立ち現れる「実世界」の違いだと思うのです。

「感じる」という人間の究極の一次情報は、蔑ろにされがちです。

さらに言うと、「感じる」だけで、その先にくるはずの「考える」に至らないことも多々あると思います。わたしもそうです。

舞台は、その「感じて」から「考える」きっかけを与えてくれます。目の前で繰り広げられる物語を「感じ」、その心の震えを持ち帰り、さらにその先を考える。社会的なメッセージであれ、人の心の闇であれ、愛の話であれ。

そのきっかけを作る語り部である役者の、感じる力や、客観視して再現した挙句に全てを捨ててまた最初から感じる潔さ。これを永遠に繰り返している姿に、ほとほと、身が引き締まる思いがするのです。他者に感じさせる力が大きければ大きいほど、「考える」に進むドライブは加速するはずで、それは何度も経験しているけれど、その為の精神活動は、こんなに果てしなく終わりがないものなんて、やるまで実感できませんでした。

「感じてもいないのに考える」「感じただけで考えない」

この甘美で楽チンで、怠惰な落とし穴に、自ら進んでズブっていないか。

その検証の一歩として、「感じる」を怠っていないか。

秋と春、半年に1度行われる養成所内での発表会は、それらを突きつけられる場なのです。

この記事が参加している募集

言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。