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【自然の郷ものがたり#21】観光汽船と共に歩んで60年 元船長がたどり着いた阿寒という故郷【聞き書き】

見る者に覆い被さるような迫力でせまってくる雄大な雄阿寒岳、特別天然記念物の大きなマリモが展示されているチュウルイ島、季節ごとに表情を変える多様な草花が彩る景勝地・滝口。阿寒湖には、船に乗らないと出会えない景色があります。

そうした出会いを提供し、訪れる人の目と心を楽しませてきたひとりが、阿寒観光汽船で船長を務めた神好美さんです。24歳のときに阿寒へと移住し、ゆっくりと、しかし絶えず変化してゆく町の様子を間近で見てきた神さんにとって、この60年はどんな時間だったのでしょうか。故郷を離れて阿寒に来るまでの経緯や、木彫りの熊を作っていたという冬の観光汽船の仕事、今も昔も変わらない暮らしの楽しみなどについて伺いました。

じん・よしみ/1940年、北海道厚岸町生まれ。中学卒業後は父親を手伝って漁師をしていたが、弟が家業を継ぐことになり転身。故郷を離れ、阿寒観光汽船に就職した。以後60年近く観光船の仕事に携わり、船長や機関長を歴任。83歳になった今も現役で仕事をしながら、休日には趣味の釣りを楽しんでいる。

※この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「自然の郷ものがたり 3」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

新聞広告で見つけた観光汽船の仕事

昔のことはもうかなり忘れてしまいましたけど、今日は記憶のある限りお話ししますね。僕は厚岸の生まれで、親は漁師をやってました。コンブやシラウオ、チカなんかをとっててね。親父がひとりでやってたから、高校に行くより自分も仕事を手伝わなきゃいかんと思って、15歳からコンブとりをやってました。

僕は7人兄弟の次男坊で、兄とふたりで漁師をやってたんですよ。漁師の息子は漁師になるもんだと割り切って、家業を継ぐつもりでした。だけど、就職してた弟が帰ってきてね。3人で漁師をやるだけの敷地もないから、どうするかなと思って。

その頃に漁組(厚岸漁業協同組合)で講習を受けて海技士免許を取ったんですよ。船の大型運転免許証みたいなものなんだけど。それを取ったばっかりのときに、新聞に「阿寒観光汽船の船長募集」っていう広告が出てたもんだから、ちょうどいいなと思って。
阿寒に観光客がどんどん増えてきて忙しくなってきた時期だったので、「ぜひ来てくれ」ということになりました。それで、弟に漁師を譲って、阿寒に来たんです。1964年、24歳のときでした。

当時は「幸運の森桟橋」のところに阿寒観光汽船の営業所があったんですよ。あの辺りは今と違って、お店はほとんどないし、ホテルも2軒くらいだったかな。そこに集まったお客さんを遊覧船の乗り場がある「まりもの里桟橋」まで運ぶ通船という小さな船があってね。最初は、その運転をしていました。
2年目からは阿寒湖内を回るモーターボートに乗るようになって、その後ですね。遊覧船の船長をやるようになったのは。
その頃の遊覧船は木造船で、コースを周っているのは7隻。船長も7人いました。まだ機関長を乗せる義務がない時代で、ガイドさんが甲板員の仕事を兼務しててね。着岸するときにロープを取ったり、縛るような作業もガイドさんがやっていました。

船長の仕事は操船なんですけど、阿寒湖をぐるっと回っていると、やっぱり自分の好きなポイントっていうのがあるんですよ。そういう場所では船のスピードを落としたり、なるたけ岸に寄せて見てもらえるようにしていました。
もちろん安全が第一ですけど、ガイドさんが「ツツジが咲いています」って説明しても、遠かったら見えないじゃないですか。それでも1周は1周だから、僕はなるべく岸に寄せて走るようにしてましたね。

でもね、安全に運行しなければいけないという管理者の立場もあるから、あるときに常務が僕に内緒で船に乗ってたらしいんですよ。危険な運行をしてないか、チェックするために。それでコースの途中で立ち寄るチュウルイ島に着いたら、急に常務が僕のところにやってきてね。怒られるのかと思ってハラハラしてたら、「やっぱり近くで見たらいいなぁ」って言ってくれたんですよ。あれはうれしかったですね。

春先になると船に乗って湖の氷割りをするので、どこに浅瀬があって、どの辺まで近づけるかっていうのは頭に入ってました。浅瀬の上を通ると船はグーンと上がるので、注意しなきゃいけない場所がわかるんですよ。そういう知識を生かして、事故だけは起こさないようにしながら、なるべく岸に寄せて走ることを徹底していました。
何百人、何千人のお客さんが来ても、ほとんどの人にとっては最初で最後の乗船になるかもしれません。たった一度きりの体験だと思ったら、近くで見せてあげたいし、喜んでもらいたい。そういう気持ちで舵を握っていましたね。

滝口を遊覧する観光船

年間約70万人が遊覧船に乗った時代

阿寒湖には、観光汽船ができる前から船でお客さんを案内する人たちがいたそうです。個人で船を持っていた漁師の人たちが、観光客を乗せてたみたいですね。その人たちが組合を作ったのが、阿寒観光汽船のはじまりだと聞いてます。

観光汽船ができてすぐの頃はマリモの生息地まで船が入っていって、お客さんが身を乗り出しながら水眼鏡で湖の中をのぞいていました。まだ定員50人くらいの船だったから、奥まで入って行けたんですよ。だけど、観光客が増えていくにつれて船が大きくなり、岸に寄ることができないので、チュウルイ島に展示観察センターを作って、そこで見てもらうようなかたちになりました。僕が阿寒に来たのは、その2年後です。

昭和30年頃、マリモをのぞいている観光客(提供:NPO法人阿寒湖のマリモ保護会)

ちょうど知床が国立公園になった頃で、摩周湖も有名だったから、阿寒もセットで周る人が多かったんですよ。それで観光客の数が爆発的に増えて、既存の船ではお客さんを乗せきれないような状態でした。
僕が入ってしばらくしてから、すずらん丸やまりも丸など、定員400名を超える船を一気に新造してね。それでも太刀打ちできないくらい、お客さんが多かったんですよ。
朝から夕方まで30分ごとに船を出して、一番忙しい時期は阿寒観光汽船全体で1日に24便。1回の運行に400人を乗せて、1日に5回走るようなこともありました。ひとつの船で1日に2000人ですよ。僕の記憶では、多いときで年間70万人くらいは乗ってたんじゃないかな。今が年間10万人くらいなので、それはもうものすごい数でした。

ホテルの人たちも景気が良かったんでしょうね。従業員の方々で遊覧船を貸し切って、花見をしたりもしてましたよ。各ホテル単位で。その都度、船長や乗組員はチップをもらったりしてね。そういう時代もあったんです。
ただ、観光客の増加に合わせてホテルが増築したり、数自体も増えていったので、生活用水がかなり湖に流れていました。下水道がない時代だから、排水はみんな湖に流されてて。そうすると、6月末〜7月ごろだね。植物性プランクトンが大量に発生して、湖が青くなるんですよ。そのまま夏になって水温が上がると、植物性プランクトンが浮いてきて腐るんです。その臭いがひどくてね。湖底のヘドロをとったことがあったんですけど、もう山になるくらいの量でした。
だから、遊覧船の運行をしながらも、だんだんと阿寒湖が汚れていってる実感はありましたね。下水道が整備されて、排水が流れ出なくなってからは、徐々に水がきれいになっていきましたけど。

冬に観光汽船スタッフが彫った幻のお土産「汽船熊」

冬は阿寒湖が結氷するから、観光船は休みになります。
その間、観光汽船の乗組員は、木彫りの熊を作っていました。もっと昔は、冬になると社員が一旦退職して、失業保険をもらってたんですよ。だけど、それではいつまでたっても生活が安定しないということで、先輩方が「なんでもやるから、年間通して仕事をしたい」って話を会社としたらしいですね。そうすると、厚生年金もかけられるし、将来の不安もなくなっていくじゃないですか。それで始まったのが、冬の熊彫りだったんです。

最初に観光汽船のスタッフに熊彫りを教えたのは、あの藤戸竹喜(※1)さんだったそうです。藤戸さんの作品は、本当に実物みたいで何度見ても感動しますね。僕が入った頃には、藤戸さんに習った先輩が先生になって熊彫りを教えてくれました。
(※1) 美幌町出身の木彫家。木彫り熊の職人だった父親のもと、12歳から熊彫りを始め、独立後は阿寒町のアイヌコタンに「熊の家」を構えた。自らのルーツであるアイヌ先人たちの精神が宿る作品を彫り続け、北海道功労賞などを受賞している。

その当時は、遊覧船の待合室にドラム缶のストーブを用意して、彫った木くずを燃やしながら暖をとってね。15名くらいでぐるっと火を取り囲むようにして、熊を彫っていました。それを町のお土産屋さんで売るんですよ。遊覧船の船長やスタッフの人が彫った熊だから、お店では「汽船熊」って紹介されてて、けっこう人気だったみたいですね。
丸太を買ってきて、作る熊のサイズに合わせて割って、まさかりで叩きながらだいたいの形を作って、細かく彫り込んでいく。そういう工程なんだけど、早い人だったら1時間半くらいで1頭を作ってたね。その頃は「爪と目さえついていれば木彫り熊は売れる」って言われたような時代だから(笑)。それくらいお客さんがいたんですよ。簡単に彫る人もいれば、芸術的な彫り方をする人もいてね。僕は適当にやってもつまらないので、形にこだわって彫ってました。ものを作るのは好きだから楽しかったですよ。

観光汽船のスタッフのなかには、好きが高じて退職後にお店で熊を彫ってる人もいましたね。店舗を借りて民芸品を売りながら、店前で熊を彫るんですよ。そうすると、お客さんは彫ってるところを見て買えるじゃないですか。要するに実演販売ですよね。
僕もね、5年くらいアルバイトでやってたことがあって。店の前でドンドンって音を出しながら彫ってると、やっぱりお客さんが寄ってくるんですよ。いわゆる木彫りの熊だけじゃなくて、電話台なんかも作ってました。今はもう見なくなったけど、腰くらいの高さの電話機を乗せる台で、下のほうにブドウを食べたり、木に登っている小熊を彫ってね。そういうものも人気がありました。

今の観光汽船ではもう熊彫りはやってなくて、冬の間、社員さんたちはスキー場に出向してレンタルスキーやリフトの仕事をしています。
熊彫りは、いつまでやってたのかな。僕が定年退職したときまでは彫ってたんですけどね。今83歳だから、23年前か。少なくとも2000年の冬まではやってました。作ったものはみんな売れてしまったから、もう汽船熊はないんじゃないですかね。自分で彫った熊は記念にひとつだけ残しています。

引退したら、もっと釣りがしたい

60歳で定年退職してからは、臨時職員として5、6年は船長をやってました。やっぱり好きなんだね、舵を持ってるのが。何年やっても飽きることはなかったです。ただ、自分ではまだまだやれると思ってても、会社としてはそうもいかないじゃないですか。何かあってからじゃ遅いから。だから、船長の職は降りて、今は機関長をやらせてもらっています。始動前のエンジン点検とか、運行中のメーターチェックとか、船にトラブルが起きないようにする仕事ですね。

あれは、まりも丸とすずらん丸が建造中の頃だったかな。それまでは船長がいればよかったんだけど、法律が変わって機関長も乗ってないと船が運行できないようになったんですよ。
そのときに会社から機関長の免許を取るための講習に行ってくれって言われてね。講習は2ヶ月あって、釧路まで行かなきゃいけなかったんですよ。でも、うちは子どもが生まれたばっかりでね。ほら、阿寒に住んでると、子どもが具合悪くなったら釧路まで走らなきゃなんないしょ。だから、講習は受けずに、独学でやらせてくれって頼みました。教本を買ってもらって、子どもが寝てから勉強してたから大変でしたね。
それでも、なんとか試験に合格して、まりも丸とすずらん丸という新造船に機関長として乗せてもらったんですよ。あれもうれしかったですね。新造船に乗れるのは本当に名誉なことで、最高の喜びですから。そうやって機関長の免許を取っていたお陰で、今もこうやって仕事をさせてもらってます。

機関長の仕事は毎年更新で、ぼちぼち僕もいいかなとは思ってて。
だけど、免許を持ってる人が少ないから、会社からはまたお願いしますって。もう83だし、釣りが好きなもんだから、本当はもっと早い時期から鮭釣りに行きたいんですよ。
車で斜里まで行くってなると1時間半くらいはかかるでしょ。朝の3時頃に出発するんだけど、そうすると釧北峠なんかは凍ってるときがあるんですよ。それが心配だから、家内は「もうやめれ」って。だけど、釣りはしたいから、氷が張る前の時期に行きたいなと思って。船に乗ってると、冬まで仕事があるからさ。斜里まで行けば1泊2日で10本くらい鮭が釣れるんですよ。まぁ、トバを作ったりして、みんなにくれてしまうんですけどね。

釣りは昔から好きでね。厚岸にいた頃から魚を取ってたし、船長をやってるときも、休みっていえば、まず釣りに行ってました。阿寒湖は冬になると結氷するんだけど、湯壷といって、湖底からボコボコって熱い泡が出てて、氷を溶かす場所があるんですよ。そこに竿を入れて、ヒメマスがかかるのを待つんです。あれは好きで、けっこうやってました。今はもうやってる人はあんまり見かけないですけどね。湯壷は氷が割れやすくて危ないから。

船長をやってる頃は4月の10日過ぎになったら、船を出して湖の氷を割ってたんですよ。だぁーっと乗り上げて、船の重みでバリバリッとね。それを毎年やってるうちに、どこに湯壷があるかが頭に入るから、あちこち行けたんですよ。いつも同じとこに空くから。船に乗ってなかったら、そういう釣りもできなかったと思いますね。

故郷は厚岸なんだけど阿寒のほうが故郷ですよ

家内は、もともと僕と同じ厚岸出身でね。こっちに来てから知り合ったんだけども。
僕より3年くらい後に来たのかな。観光汽船でガイドをやってたんですよ。

子どもたちは、もう阿寒にはいません。娘2人なんですけど、それぞれ結婚して、ひとりは釧路、もうひとりは東京です。孫も大きくなって、就職もしました。
なかなか会えないけど、大晦日にはみんなで集まったりしてね。家内は「もうみんな大きくなったんだから、自分の家でやりなさい」って、娘に言ってるみたいだけど来るんだよ。だから、来てもらえるうちはいいんじゃないかなって。それぞれ仕事をしてれば、大晦日の晩にご馳走も作れないだろうからさ。その分だけは、ばあちゃんに作ってもらおうってことにしてますね。やっぱりここに58年もいたら、故郷は厚岸なんだけど阿寒のほうが故郷ですよ。そう思います。

僕が定年退職した頃からは観光客が減ってきました。急にガクンって減るんじゃなくて、徐々にね。30分おきに走ってた観光船が1時間おきになり、空席も目立つようになりました。町の雰囲気もずいぶん変わったと思います。コロナになってからは、さらに人が少なくなっちゃいましたからね。

だけど、阿寒湖で遊覧船に乗った人は、みんな喜んでくれてると思うんですよ。お客さんが船を降りるときに挨拶をしてると、「すごくきれいでした」とか「乗ってよかったです」とか言ってくれるので。そういう声を聞けるのは、やっぱりうれしいなと思います。だから、あんまり混んでもダメだけども、これからも100人以上は乗せて走りたいですね。

阿寒には、本当にいい季節がたくさんありますから。葉っぱが落ちた木が一斉に芽吹いていく新緑の6月もきれいだし、9月〜10月にかけての紅葉の時期なんかも素晴らしいですよ。
最終便で周ってくると、ちょうど日が落ちてきてね。1年のうちに数回しか見られないような、ものすごい夕焼けと出会えることもあります。そういうのをね、少しスピードを落とした船で見ていってもらいたいなと思います。

取材・執筆:阿部光平
撮影:大川彩果、國分知貴

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