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人生の無駄な時間を悔いる

 先日、親しかったママ友さんが亡くなりました。

 家も近所で、共に長男長女の組み合わせで子供たちが同じ学区、娘同士が仲良しで同じピアノ教室、お父さんと僕はサッカーという共通の趣味を持っていて、僕たち夫婦とママさんは同い年で、特に僕の妻とママさんは本当に仲が良くてまさに家族ぐるみのお付き合いでした。

 数年前に妻が泣きながら「彼女、癌で余命宣告されてるんだって」と告げてきた時は驚きましたが、それから彼女はとても頑張っていました。
 少し前から寝たきりになったと聞いていたのですが、先日子供のピアノ発表会には「最後かもしれないから」と椅子で聴きに来ました。その際、妻には「もう会えないかと思ってた」と話したようで、妻もその時点で少し覚悟はしていたようです
 ですが、実際に訃報を聞くと何ともいえない気持ちになりました。これまで親戚を始め先輩、後輩、同級生の訃報に接してはきましたが、同い年で子供を持つ友人の死を目の前にすると、いろいろな事が頭を過ぎります。

 お嬢さんは来年から中学生、お兄ちゃんは高校生。残されたパパさんの苦労を思うと、少しでも手助けしたいとも思いますし、「もし自分が、妻が亡くなったら」と思うと、子供たちに何をしてやれるのかなという思いでいっぱいです。

 「何でも子供の為にやってやる事が子育てではない、自分がいなくなった時に自力で生きられるよう、最低限の事が出来るようにしてあげるのが子育てだ」

と思っています。
 これは自分の生徒に対しても同じです。方向性は示してあげる、練習方法は教えてあげるけど練習するのは自分だし、最後に決定するのも自分だよと伝えています。
 だから、なるべく自分の子供には「自分でやりなさい」「自分で考えなさい」という事を伝えるようにしています。妻は優しくてやってあげてしまうタイプなので、「子供たちの為にやらないであげて」とお願いもしています。今回の件で、自分がいなくなった時の事をますます考えるようになりました。

 そして自分のこと。

 私自身、これまで生きてきた時間より残された時間が短い事は確実で、そこで何を出来るんだろうと考えた時に、これまでの生き方に大きな後悔をしています。

 僕はこれまで本当に無駄な人生を歩んできたと思っています。屈指の音楽一族に生まれながら「楽しい事最優先」で中学・高校と遊び歩き、どうしようもない人生をスタートし、音楽大学でもそこそこの練習量で何とかなってしまって、最終的にはこの仕事で食べていけるようにはなりましたが、あの中学・高校をもっと一生懸命生きていたら、今頃全く違う人生を歩んでいたはずです。
 以前母にも「もっと真剣に音楽に向き合って、音大の時死に物狂いで練習していたら、あなたは今頃オケに入って全然違う音楽人生を歩んでいたはず」と言われた事があります。
 これについては、もし僕がそうなっていたら吹奏楽界のコントラバスを救おうとする人は現れなかったような気もするので、これはこれで良かったんじゃないかと思う部分もあるのですが、ただ、もっと真剣に向き合っていたらもっと楽に生きていけただろうなあとは思います。

 よく「紆余曲折あっての鷲見さんですよ」と言われるのですが、今思えばあの紆余曲折は不要でした。何よりあの時期の自分を許せない。だから当時の写真はほとんど手元にありません。無駄な時間が10年くらいはあったような気がする。

 武井壮さんが「1日1時間努力したら1年で365時間になる」と話していましたが、せめてその言葉に早く出会っておきたかったと思っていますし、息子にはその話をして、彼はいま寝る前の1時間を勉強の時間に充てています。

 子供たちに生きるための知識を残しつつ、僕自身無理の利かない身体になってきているので、程良く休みを取りながらも無駄な時間を過ごさないよう、一生懸命に生きていきたいと思ったのでした。
    

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