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不徳を積むな。

最近、娘はイマジナリーおじいちゃんに出会うらしい。

はじめは朝練に行く途中によく出会い、野球のポジションを聞かれたり、がんばって、と声をかけられたりしていた。

そのうちに学校を早退するタイミングでも出会うようになった。
いつもと違う場所で。
近所でウォーキングしている老人は多いのだが、ピンポイントで違うタイミング、違う地点で頻回にそのひとに会うらしい。
ストーカーとは考えにくいため、一旦娘にしか見えてない存在だろうという結論に落ち着いた。

小学校1年の頃にも、イマジナリー猫のような存在に出会って、それはいつも決まった場所にいたが意思疎通できていたそうで、娘はそういうタイプのひとだと私は認識している。

※イマジナリーフレンドという概念があって、実在しない人物や動物、ぬいぐるみなどを「友だち」として目の前にいるかのようにいっしょに遊んだり会話したりして空想のなかで仲良く過ごし、成長とともに消滅する存在のことを指す。幼少期特有のもの。


近所の「女たらし」の男の子が大怪我をして入院しているらしい。

体格も性格も10代にしては規格外で、スポーツの才能があって、中身はお調子者の女好き。
話しは娘からよく聞いていて、なんか危なっかしい子だなと思っていた。
スポーツ時ではなくてまったく不注意による怪我だった。

たくさんのひとと関わるということは、エネルギーの交換が大量に行われるということ。
それがよい関わりであれば徳になり、
一方通行で害を及ぼすような関わりであれば不徳になる。

私はそのように考えていて、彼がどこかで止まらないとまずいことになるなと薄々思っていた。
本人が言うには家庭環境も酷いようで、外で憂さを晴らすしかなかったのかもしれない。
根源には寂しさ、ありのままの自分を認めてくれるひとを探している、ということなのだろうが、自覚しない限りは空回りし続ける。

寂しさは他人で埋めようとしても埋まらない。
根源になにがあるのか、家族関係の改善あるいは諦め、縁切り、新しい愛のある家族をつくる、天命、ライフワークを見つけるなど、徹底的に取り組まなければ何度も同じ問題が人生に浮上する。
自分で自分を癒すことだ。

大怪我をすることで、彼の生活が強制停止し、自分の今後の在り方を考えたり、家族が自分の行いが最善であったか振り返る機会になり、各々の関わり方が変わるきっかけになるといいのにな、と思う。

彼はたぶん背負っているものが大きいので、意識不明になって生死の境を彷徨ったりする経験が人生のこのタイミングでもたらされたのではないだろうか。
誰もがそのような体験があるわけじゃない。
やはり規格外だと思った。

娘が彼はスポーツを続けられなくなるかもしれない、と言う。
ほんとうにそうなるならば、彼にとってそのスポーツは人生の通過点でしかなく、何か次に見つける新しい道につながるステップなんだよ、と伝えた。
振り返るとそうだった、みたいなことはよくある。

そのスポーツがすべてじゃない。
その仕事がすべてじゃない。
その音楽がすべてじゃない。
その恋人がすべてじゃない。

あと、彼がどのように女の子と関わってきたのかくわしくは知らないが、次々に思わせぶりなことをして雑に扱ってきたのだとしたら、そのエネルギー、怨念とまでは言わないが、もらってきて積み重なったものが彼に怪我をさせた、そんな風にも考えている。
もし、心を込めてひとりひとりと気持ちの通い合う交際をしていて相手も自分もハッピーだったなら。。。
起きることは違ったのかもしれない。
どこかで自分は変わらなきゃ、という意識が働いたのかもしれない。

怪我をするひとすべてが不徳を積んでいるということではない。

彼個人にとって、立ち止まるべきタイミングがいまであり、いまならまだ取り返しがつく状態で、彼だけが大怪我をしたところが、なんだか深い意味があるように私に考えさせる出来事だった。

大きく躓かされるとき
それは誰かがあなたに何かを伝えている。

もしかしたら自分の潜在意識からのメッセージかもしれない。
そう考えたら、どんな困難も自分を改めさせ、輝かせるためのターニングポイントだと受け取ることができる。


私自身も、酷いよこんなこと、っていう躓きがいくつかあった。
それを思い出したので今日は書いた。


覗いてくれたあなた、ありがとう。

不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。

また私の12ハウスに遊びにきてくださいね。









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