【特集】戦後の合気道復興の原動力

前編・後編

プラニン本誌編集長による植芝盛平伝シリーズ4回目。これまで、田辺時代(青少年時代、1900年代初期 135号)、皇武館道場時代(壮年時代、1930年代~40年代半ば 131、132号)、岩間時代(晩年、1940年代から1950年代半ば 130号)と盛平翁の足跡をたどってきた。今回は大戦後、合気道が合気会の発足とともに再生していく時代が舞台である。岩間にいる盛平翁に代わって、合気道復活の原動力として活躍したのは、植芝吉祥丸をはじめ、塩田剛三、藤平光一などの盛平翁の高弟たちであった。 (文中 敬称略)

※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』140号、141号に掲載当時のものです。

植芝盛平伝1956年頃


[前編]  文・スタンレー プラニン 

はじめに

 「合気道」という言葉が初めて採り入れられたのは1942(昭和17)年のことであるが、この武道が日本において隆盛期を迎えるのは、1950年代後半まで待たなければならない。
 というのは、合気道も第二次大戦の被害を免れ得なかったからである。その結果、芽生えかけていた合気道の発展を阻む、さまざまな悪条件が作りだされていった。経済や国勢の衰退に加えて、戦後の日本には、戦前の軍事機関や軍事思想に関係する全てのものへの根強い反感が見られるようになった。武道もその例外ではなく、戦前には教育の一環として採り入れられるなど、高く評価されていたにもかかわらず、その評価は落ちていった。

 合気道の誕生に関して、詳細な知識を持つ合気道家は僅かなため、合気道が、いかにして現代日本武道としての今日の地位に至ったかについては、多くの誤解が生じていると思われる。
 その最たるものは、開祖植芝盛平が戦後の合気道普及の原動力であったというものである。
 これは、事実とはまったく異なり、開祖は普及の原動力というより、むしろ初期の門弟たちを精神的に鼓舞した存在だったというほうがより正確である。なぜなら実際は、当時合気会にいた藤平光一や開祖の子息植芝吉祥丸、それに養神館の塩田剛三といった主要な弟子たちによる技術とその指導法が、今日の合気道の基礎をつくったと言えるからである。今日でも大半の合気道組織や独立会派の採用している稽古方法は、これらの師範たちにその源を求めることができる。
 この稿では、戦後日本における合気道の試練の第一期と、その間に活躍した師範方の、合気道初期時の発展につながる思想や行動を述べ、最後に合気道が日本や海外において、盛んに行なわれるようになった諸事情について触れたいと思う。

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