【論説】なれあい稽古にピリオドを!

文・合気ニュース編集長 スタンレー・プラニン
 

(1992年7月 季刊『合気ニュース』93号より)
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。

 数年前のある晴れた春の日、武道館における「全日本合気道演武大会」でのことです。高段位の師範が演武中、タイミングが狂って受けのバランスを崩しそこない、しかもまったく受けに触れないという失態を演じてしまいました。はた目にもわかる程、途方にくれた受けは、左そして右を見やってから、ようやくゴロンと受け身をとったのです。それまでの1、2秒が何と長く感じられたことか!

 これと似たようなケースを、私は一度ならず目にしてきました。合気道では、取りと受けの間に暗黙の了解のようなものがあります。つまり、受けは制御を効かせた攻撃を取りに仕掛け、受けはあまり抵抗することもせず、しかも投げられようが投げられまいが受け身を取る、というものです。

 これは演武会では特に顕著なのですが、道場の稽古でも同じようなことが行なわれています。

 演武会で一体私たちは何を披露しようとしているのでしょうか? 合気道の動きの美しさと柔らかさだけなのでしょうか? うわべだけの和合精神でしょうか? 合気道というと、しばしば「調和」「平和」「愛」など、観念的かつ抽象的な言葉が引きあいに出されます。しかし、ともすればこのような表現は、暴力を前にした時の屈従的、受身的、無抵抗といった概念と一緒に日常会話で使われることが多く、誤解されかねません。

 確かに開祖特有の思想には上のような崇高な概念が含まれてはいますが、彼の武道観には「武の要素」が絶対的要素としていつも存在していました。もし演武会が単なる演舞会になってしまうようでは、それは植芝盛平翁の名を辱しめるものではないでしょうか。

 養神館合気道の塩田剛三師範からお聞きした開祖の有名なエピソードがあります。大先生は1941年頃、皇室方のために、斎寧館道場において特別に演武をするようにとの要請を受けたのですが、最初は「嘘をお見せするわけにはいかない」と言って断られました。「嘘を見せる」とはつまり、もともと真の武術は攻撃者に対して大変な破壊力を持つものであり、演武会で見せるような代物とは違うというところからきています。しかし結局開祖は「嘘を見せる」ことを承諾されたのです。その演武会で、受けを務めた湯川勉氏は盛平翁の体調を気づかったために(当時、翁は黄疸を患っていました)、開祖に強烈な攻撃を仕掛けることができず、そのためかえって氏自身が腕を折るという結果となったのです。

 合気道には取りと受けの間にあからさまななれあいがあり、技の効用性に欠けるため、武道界での評判は芳しくありません。私個人としましては、稽古中の受けと取りの紳士協定にはなんら異議を唱えるつもりはありません、まして受けと取りに大きな技術的な差がある時はなおさらです。確かに、上級者や指導者が初心者を激しく攻撃したり、初心者が技を掛けているのに頑固に受け身をとらないのは適切ではないしょう。しかし安全な稽古の範囲において、受けが取りの力に応じて攻撃の強さを加減していけば、真摯な攻撃もできないことはありません。一方、取りの方は、相手のバランスを崩すこと、まずこれができるようにならなければなりません。うまくバランスを崩せれば、あとはスムーズに、余計な力も必要とせずに技を行なうことができるでしょう。

 演武会の話に戻りますが、トップ師範が大勢の前で演武をし、受けが華麗でしかも体勢の整った受けを行なう ― このような演武には美的価値があるかもしれません。しかし洗練された武道家の目から見れば、ほとんど茶番劇に等しいものです。受けが取りに投げられた時、体勢が整っていたら、取りは受けのバランスを崩していなかったということです。これは武道家にとり許しがたい事態です。そもそも取りの技が本当に効いていれば、受けは「美しい」受けなどとっている余裕はないのです。バランスを失えば受けは、怪我をしないように自分の体を守るのが関の山でしょう。

 合気道家の技レベルを計る方法として何年も前に私が考えついた方法は、受け側を注意深く見ることでした。一般に、私たちは取りの動きに気を奪われて、受けにはあまり関心を払いません。これは見世物的要素が強い演武会ではなおさらです。こうした方法で見ると、受けのバランスを崩していないトップレベルクラスの指導者がいかに多いかがわかり、驚かれることでしょう。通常は受けのバランスを崩せるはずだと思いますが、問題は一般の合気道家が師範たちのそうした演武を見て、それが正しい技のやり方だと思ってしまうことです。そしてそれを自分たちの稽古に持ち込んで真似をしてしまう。その結果技の衰退が徐々に現われてくることなのです。

 一方、このような見世物に感心しない合気道外部の人たちは、合気道には武道としての価値がないと見限ってしまいます。武道精神のまったく欠けた振り付けだけの演武は、むしろ舞踏場の方がふさわしいのであって、開祖の創始した合気道にふさわしくありません。

 私は何年もの間「稽古の質」についての懸念を私的レベルで言うことはあっても、公けにすることはありませんでした。合気道関係者の怒りを買うこともないと思ったからです。しかし、私の論文に対して読者から多くの反響、支持を頂いており、皆さんの中には私と同じような考え方を持ち、現在の合気道のあり方に不満を持つ方も多いことがわかりました。自分の意見を公開して、道場なり組織なりでの自分の地位を危うくしたくないという読者の事情も充分承知しておりますので、あえて私が本誌論説で「稽古の質」の問題を何度か取り上げてきた次第です。

 最後にあたり、皆さんが自分がなぜ合気道をやるのかを、今一度じっくり考えてみることを提唱します。もし皆さんが合気道を護身術とか武道精神を学ぶ手段としてではなく、道場における交流から生まれる家族的雰囲気や友情のために稽古をなさるのでしたら、今のまま稽古をなさることをお勧めします。わざわざ騒ぎを起こすこともありません。しかし開祖が創られた合気道の持つすばらしい概念に魅せられてやっておられるのでしたら、ご自分がどのような稽古をしているか、再検討してみる時ではないでしょうか。皆さんのお考え、迷いを指導者や稽古仲間と話し合い、また、稽古での真剣さも徐々に強めていくべきです。

 まず相手のバランスを崩しているでしょうか。これができればその後の動きがどれほど楽になるかは驚くほどです。当て身は使えますか。抑えは相手の動きをしっかり封じ、逃げを阻んでいますか。技が終わっても別の方向から攻撃されるかもしれないということに、充分気を配っていますか。

 つまり私がここで言っているのは、社交場代わりの稽古ではなく、真剣な合気道稽古のことです。真摯に合気道を稽古することによって得られる気力または集中力は、人生のあらゆる面で役に立つ強力な武器となるのです。

―― 季刊『合気ニュース』 №93(1992年7月)より ――

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