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羽賀忠利 剣道 居合道範士

子供の心に焼きつく手本となれ


このごろは口を開けば悪口になる。
本当のことを言うと悪口になってしまう。
しかし、やはり専門家であることを自覚して、
きちっとやる必要があると思っています。

〝有信館の三羽烏〟のひとり、羽賀準一を兄にもち、剣聖 斎村五郎を師として歩んだ剣道人生。
戦後、武道の廃止からスポーツとして生き残った剣道に見られる弊害のお話、さらには〝剣の道〟を歩む後進の、心がまえの甘さにお話はおよび、それを正したいという強い思いを語ってくださいました。
(取材 2006年10月31日 羽賀範士のご自宅にて〈静岡県藤枝市〉)
※所属や肩書きは、季刊『道』151号に掲載当時のものです。

<本インタビューを収録『武の道 武の心』>

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指導をする羽賀範士 平成3年3月



「口ばかりは、しょうがないな」と
植芝先生も笑いました

―― 本誌の前身『合気ニュース』の合気道家への取材で、お兄様の羽賀準一先生のことはよく伺っておりました。準一先生は中山博道先生(剣道範士 1873~1958)の〝有信館の三羽烏〟として、中倉清先生、中島五郎蔵先生とともに知られていますね。

 兄はよく植芝先生(合気道開祖)のところに遊びに行ってはお話をしていたんです。兄は「いやぁ、植芝先生は神さんだよ」と言っていました。
 中倉先生が植芝先生のところに養子に入る前、植芝先生に「君たちは東京でずいぶん暴れているらしいじゃないか。好きな物を持って、いっぺんにかかってこい」と言われたんだそうです。
 私の兄が二十四、五の若い頃のことです。植芝先生の言われることがどこまで本当か、兄は半信半疑でいたのだと思うんです。「それでは」ということで、三人で木刀や竹刀を持って植芝先生にかかっていったら、いっぺんに投げ飛ばされてしまった。ところが、兄は最後に締められて「これで動けないだろう」と言われ、強情っぱりだから、「まだ動く」。「どこが動く」「口が動く」と(笑)。「口ばかりは、しょうがないな」と植芝先生も笑ったそうです。

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