【論説】大東流と大本教 ―― 合気道の二大支柱

文・合気ニュース編集長 スタンレー・プラニン 

(1993年 季刊『合気ニュース』95号より)
 ※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。


合気道開祖・植芝盛平
は、ご子息であり後継者でもある植芝吉祥丸道主をはじめ、翁の生涯や業績をじかにご存じの方々が大勢いるにもかかわらず、武道家の年代記を書く者にとって、なかなかとらえがたい人物です。冒険小説とも言えるほど波乱に満ちた翁の一生は、今日の日本人にはまったく馴染みの薄い文化・宗教を背景に繰り広げられました。

 その中でも、特に武田惣角出口王仁三郎は、植芝合気道の形成に重要な役割を果たしており、これを明確に認識することは、現代合気道の創始に至った翁の精神的・技術的展開を把握する上でたいへん重要です。武田惣角は今世紀の日本において大東流合気柔術を普及させた人物であり、出口王仁三郎は大本教の指導的人物です。盛平は王仁三郎の教えを学んで悟りを得、それを身体的に表現する方法として惣角の技を用いたのです。

大東流合気柔術

 武田惣角 ここ5、6年、私は大東流合気柔術が現代合気道に及ぼした影響についての研究に取り組んできました。それ以前は、大東流の影響についての情報はなかなか入手できませんでした。その上、両者の歴史的なつながりについて初期に書かれたものは、大東流をゆがんで見たり、武田惣角を否定的にとらえるものだったのです。しかし、武田時宗宗家はじめ、大東流の師範方との会見を通じて、私は武田惣角と植芝盛平の関係について、従来の見解とは異なる、つまり史実の客観的な理解につながる見解を読者の方々に提供できるようになりました。

武田惣角 


以下にそれらを挙げてみますと・・・、大東流合気柔術が合気道技に最も重要な影響を与えたということ。これは合気道技の原型が大東流に見られることからも明らかです。植芝盛平は惣角の高弟の一人であり、大正11年から10年以上、教授代理として大東流を教授しました。また盛平は、惣角から授与されたものと同じ内容の目録を多くの弟子に出しています。しかし後年、目録には大東流と武田惣角の名前は見あたりません。

 惣角と盛平の関係は個人的にも武道上でも波乱に富んだものであり、次第に二人の仲は疎遠になっていきます。惣角の死(昭和18年)の数年前は、あきらかに盛平は惣角を避けていました。晩年、盛平は大東流が現代合気道の形成に果たした役割について、あまり口にしなくなりましたし、時には親しい人に惣角への軽蔑の念さえ洩らしています。

 大東流の後継者たちは、盛平の合気柔術歴や合気道の知名度は認めはするものの、盛平を大東流技を営利的なものへ変更させた謀反人としてみなす傾向があります。

 合気道に比べ、道場や稽古生は少ないですが、現在、大東流は何と言っても最も盛んな古流柔術です。明治以降、ほとんどの古流柔術が姿を消した中、大東流は21世紀に向かって脈々と伝えられていくはずです。(大東流が再認識されてきたのは、一つには、私達武道雑誌が合気道の生みの親としての大東流をとり上げてきたということもありますが・・・。)

 佐川幸義師範のような独自の立場をとる道場は別として、主な大東流組織には次のようなものがあります。

 武田時宗師範を宗家とする大東流合気武道、堀川幸道師範により創設された大東流合気柔術幸道会、久琢磨師範の技を継承する武道団体・大東流合気柔術琢磨会、堀川幸道師範の高弟岡本正剛師範によって主宰される大東流合気柔術六方会。

 去る1993年10月4日、武田惣角の没後50年を記念して、大東流合気武道総本部の主催により、日本武道館で盛大な演武会が開催されました。この催しは、本部、幸道会、琢磨会の師範方が同じ舞台の上で演武を繰り広げるなど、大東流界の結束を示すもので、このような機会はめったにありません。演武会後のレセプションの席上、近藤勝之、井上祐助、森恕の三師範が、大東流合気柔術の将来の発展を目指して、会派間の友好関係の維持・協力を誓う公式発表がありました。

大本教

 出口王仁三郎 大本教は有名な新興宗教のうちの一つに挙げられます。昭和10年12月の日本軍事政府による苛酷な弾圧が行なわれた当時は、信者数は200万人にも達していました。貧しい文盲の女性・出口直によって19世紀後半に開教されましたが、教義の組織化・体系化を進めてその発展に大きく寄与したのは、何といってもカリスマ的存在であった出口王仁三郎でしょう。

出口王仁三郎 


盛平と大本教との出会いはまったくの偶然です。大正8年12月、盛平が重病の父親を見舞うため、北海道から和歌山県田辺町の実家へ向かう途中のことでした。盛平は綾部まで足をのばし数日間滞在し、父親の病気回復の祈願をしました。そして、王仁三郎に出会い、その人柄に魅せられたのです。父親の死後、盛平は家族の猛反対を押し切って、大正9年に家族もろとも綾部に移転します。盛平のたぐいまれな武術の才能を見抜いた王仁三郎は、盛平を食客として迎え、武術に興味のある大本信者に教えるよう勧めたのです。これが契機となって、私塾・植芝塾が開設され、盛平は小人数の稽古生に武術指導をするかたわら、自己の修行を続けたのでした。

 一方、惣角は大正11年、綾部で5ケ月を過ごし、盛平の自宅で大本教信者を教授しました。盛平と王仁三郎は盛平の武道の形成過程に欠くことのできない人物ですが、残念ながら ―― とは言え意外なことでもありませんが ―― 両者は反感を持ち合ってしまったのです。これは盛平にとって少なからぬ悩みの種でした。

 大正13年、盛平は王仁三郎の身辺警護員として満州に渡り、王仁三郎と共に大冒険をすることになります。満州の政争に巻き込まれた王仁三郎一行は、危ういところを命びろいするのですが、これによって王仁三郎と盛平の関係はますます堅くなり、満州で死線をくぐった体験は、後の合気道開祖に深い影響を与えました。

 大正14年の盛平の東京移転から昭和10年まで、盛平と大本の関係は緊密で、昭和7年、王仁三郎は盛平に武道宣揚会(植芝合気柔術の普及のために、特に設立された全国的な大本組織)を設立するよう勧めるほどでした。昭和10年、第二次大本事件の後、盛平はこの非合法教会の活動から離れることを余儀なくされますが、王仁三郎に傾倒する気持ちは失われませんでした。第二次大戦後、盛平は大本との友好関係を復活させ、亀岡や綾部の大本本部を頻繁に訪れました。

 合気道の理念・人道主義の精神的基盤となったものは、盛平が王仁三郎から個人的に授けられた教義と、王仁三郎著作の『霊界物語』であったと言えましょう。合気道が今日の日本武道において、その独自性を誇り得るのは、まさにその倫理観にあるのであり、そのためにも大本教の貢献はみのがすことはできません。

 勢力を誇っていた大本教会は、第二次大本事件のため破壊されましたが、戦後、愛善苑として復活します。昭和23年、王仁三郎が死去すると、妻・澄に、その後、娘・直日に大本教の教主は引き継がれ、名称も”大本”に復帰しました。昭和40年には、信者教も20万人にも達しました。

 組織が大きくなると避けられない運命なのですが、近年、大本の主流から離れて独自の道を進む宗派が現われました。その内の一つ、愛善苑は、王仁三郎の孫である出口和明氏によって率いられています。氏は王仁三郎の、膨大な巻数に及ぶ『霊界物語』の重要性を訴え、その研究に力を注いでおられます。先日、私は和明氏と会見する機会を得て、祖父・王仁三郎について、また氏自身体験された大本史について、いろいろとお聞きしました。本誌では、大本教初期の歴史およびその活動について、特に合気道の根底となった精神性への関連という点を踏まえて、今後読者に提供していく所存です。

 合気道の知名度は、今日では比較的地味な存在である大東流や大本教を凌いでいます。しかし、盛平の技を稽古する者として、また彼の倫理観を学ぶ者として、私たちが盛平の先達たちを認めるのは当然のことであり、それがこれらの先達から合気道が受けた恩義に、ささやかでも報いる第一歩だと思います。

―― 季刊『合気ニュース』 №95(1993年)より ――

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