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藤田昌武 合気道八段

合気道――「無刀の位」からの出発

昭和31年、大学生の藤田師範は、植芝盛平翁に会ったその瞬間に入門を決意、以来四十有余年の修業の末、「合気道は入身の徹底した稽古」を根底とする藤田理論に至る。

現在は東欧など発展途上国に積極的に講習に出かけ、合気道の普及に努める師範からお話をうかがった。
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース124号』に掲載当時のものです。

お顔を見た瞬間、入門を決意

――藤田先生のお父様は、満州で盛平翁について合気道をやっていらしたんですね。

 そうです。私の父は満州国で仕事をしていましたが、もともとは柔道家であり満州でも柔道の稽古をしていたんです。満州武道会という会があって柔道だけでなく剣道、相撲などもやっていました。その会の世話役もうちの父がやっていたので、ほかの武道の人たちとも仲がよかった。その関係で当時、植芝盛平先生を満州にお招きした時に合気道を習ったんです。満州の建国大学の教授だった富木謙治先生(1900~1979 戦前の盛平翁の弟子の一人)と相撲の和久田三郎(1903~1989 元大関天竜 1939年に盛平翁の技を見て感服し入門)も一緒でした。

 終戦前は合気道というのは、何かほかに武道をやっている人で、しかも紹介者がいないと入門できなかった。だからみんな柔道や剣道などの猛者が多かったんです。うちの父も柔道をやっていたので、入門のチャンスを与えられたのですね。

――お父様はどういった仕事の関係で満州にいらしていたのですか。

 「協和会*」という、陰の政府のような関係の仕事をしていました。満州という国は軍隊が強かった。政府のいちばんのトップは中国の人、大臣とかえらい人、その下には日本人、そして政府と軍隊と協和会と三つでバランスをとっていた。たとえば軍隊が中国の人をひっぱっていったら、うちの父たちが助けるとかそういうことをやっていた。だから、三つのトライアングルでバランスをとっていた。だから軍部にも文句をいう力をもっていた。

(*協和会:「満州帝国協和会」 政党としての性格を否定し、また政権獲得を目的としない政治的団体として、政府と表裏一体となり、建国理想の達成、道義世界の創建を図った団体)

――藤田先生ご自身は満州のお生まれですね。

 ええ。満州の新京というところです。現在の長春市ですね。昭和12年(1937)の生まれです。うちの父は北海道の札幌出身でして直接満州に渡ったんです。

 満州には10年間いて、引き揚げてきました。たいへんでしたよ。間違えば私など中国残留孤児になるところだったですね。中国語は話せますが、これは日本で大学にいる時に勉強をしたからです。満州では日本の学校に行っていましたからね。しかし、大学当時、中国語は話せても日本と中国の国交がなかったので、職業に活かすことができませんでした。中国語は自信があるんですよ。昨日もロスの中国料理の店にはいってそこのおばちゃんとしゃべって、「あんた中国人なの、日本人なの?」と聞かれたくらいなんですよ(笑)。英語は遠慮して出ないけど、中国語は出るんだな。


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