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奥村繁信 合気会本部道場師範

現代と合気道


戦前の満州で富木謙治師範の下で合気道を始め、敗戦の混乱期には同世代の故合気道二代道主・植芝吉祥丸氏と共に、合気道の復興に尽力した奥村繁信師範。いくたびかの時代の節目を体験してきた師範が、いまあらためて、現代に合気道の果たす役割、価値を語る。
(取材:スタンレー・プラニン/編集部)
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース』に掲載当時のものです。

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戦争を運でくぐりぬけて

―― 先生は、戦争体験者でいらっしゃいますね。

 ええ。戦争中、僕は最初あのグアム島で発見された横井正一さんと同じ部隊にはいったんです。横井さんは上等兵でしたから、あの人の指揮で動いていました。あの部隊は昭和19年の3月に動員がくだって、グアムに行った。私は幹部候補生の試験を受けて受かったからグアムに行かなくてすみました。満州に残ったのです。日本が負けたのは昭和20年8月だけど、その10ヶ月くらい前に部隊はグアムで玉砕した。横井さんは生き延びましたけどね。
 昭和19年頃、僕は沖縄に行こうとしたのですが、その年から徴兵が19歳にさがり、しかも朝鮮の人も日本内地人と同じように徴兵になったので、その人たちを教える教官が必要となった。その教官要員に我々見習い士官がやれというわけで、また満州に戻って、19年の暮れから20年の5月まで教えていたのです。
 昭和20年5月になると沖縄がおち、いよいよ本土決戦だということで、大砲からなにから分解して満州から本土へ持っていき、優秀な生粋の軍人はみな日本へもどした。残ったのはアマチュアの我々や臨時の将校です。それで40歳以上の人も動員し、僕らの漢文の先生や柔道の先生もみんな40歳すぎでも招集され、我々の部下になっていました。そして今度は、将校不足のため我々は見習い士官のくせに中隊長の仕事をしなくてはならなくなった。そして中隊長の教育を受けるために遼陽に集合したので、ソ連の進行した8月の9日に私は国境にいなかったんですね。ほかの人たちはそこでみんな死んでます。なんだか僕はいつも偶然安全地帯にいたんだ。人間の運命というのはわからないね。
 終戦になって、僕は中央アジアにつれて行かれて、3年半いましたが、大学でロシア語やっていましたから、捕虜の通訳をしていました。日本人の代表として行くと生意気なこと言ってといじめられ、ロシア側の言うことは過酷だからそのまま日本側には言えない。板挟みになってたいへんでした。

衰退化、スポーツ化のなかで

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