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磯山 博 合気道八段

実践合気――和の精神を日常生活に活かす

人を倒す武術としての合気道にとどまらず、それを超越した和の武道を唱えた植芝盛平。戦後、岩間において盛平翁から直接教えを受けた磯山師範は、翁の教えを踏まえながら、いかに合気道の精神を道場だけにとどまらず、日常生活に活かし、ひいては現代の国際社会に活かしていくかを語る。
(取材 平成11年6月4日)
※所属や肩書きは、季刊『合気ニュース122号』に掲載当時のものです。



合気道は戦後、岩間で

―― 合気道にはどういうきっかけで。

 昭和24年、その頃はものすごく世の中が荒れていてね、うちは旅館をやってましたから、いろんな人が来るわけです、やくざとか。これは何か武術をやってないととんでもないことになるなということで、たまたまその時に合気(合気道とはまだ呼ばれていなかった。のちの合気修練道場のこと)道場が少年部をつくったので、近所の子供たちと一緒にそこへ行ったのです。12歳の時です。

―― その頃は大先生は岩間ですね。

 そうです。大先生がちょくちょく岩間からよそへお出かけになるようになったのは、昭和30年以降でしょう。その少年部の夜間稽古では大先生が指導なさっていたのです。

―― 本部道場と同じ指導でしたか。

 東京の指導がどういうものだったかわからないけど、一人ひとりの手をとって教えられていました。大先生は受身を取ることはなかったけれども、たとえば正面打ち一教ならそれを全部の人にやってくださいました。それをまわりの者が見てるわけです。あまり詳しい説明というのはなかったです。
 畳がなかったから痛くて弟子が集まらないわけです。それで何年かして畳を入れたのですが、それまで板の間でやっていたので、かえってやりにくかったですね、最初は。頭をゴーンと打つと、板の間はすごく大きな音がするけど痛みは芯までこない。畳の場合はドスーンという感じで、頭の芯まで痛い。だから畳の場合の受身と板の間の受身はおのずと違ってました。

―― その当時いらっしゃったのは、斉藤先生とか……

 村田長男(故人)さん、島田栄(現茨城県連盟会長)さん、山根祥雄さんとか、とにかく少なかった。力道山の弟子になった大山邦夫さん、そういう人も内弟子でいました。

―― 磯山先生は自衛隊に入られたのですね。

 大学を出て、航空自衛隊へ入隊し、千歳へ行ったのは昭和33年です。

―― 千歳で合気道クラブをつくったのですか。

 そう。最初はアメリカ人(MP)だけでした。そしたら自衛隊のほうから警備隊の隊長がきて自衛隊の隊員にも教えてくれということで教えることになりました。必要にせまられて英語も覚えましたね。

―― 先月ロスに行かれた時は、英語で教えられたのですか。

 はい、全部。しようがないもの(笑)。

―― MPのような体の大きい相手に対して工夫は必要でしたか。

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