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松尾綾子 なぎなた範士


わが身を修めるなぎなたへの道

〝心が手の内に通じてしっかり斬れる〟なぎなたとは、
言葉でなく、体で、自身で覚えるものであり、
それが、心、気合の置き所、人間性を鍛えていくのです。

なぎなたの原点は、「わが身を修める武道」と語る松尾師範には、半世紀以上にもわたる修行を続けてこられた方の重みと、あとを継ぐ若者たちへのやさしくも厳しい愛情が感じられました。
※所属や肩書きは、季刊『道』154号に掲載当時のものです。

<本インタビューを収録『武の道 武の心』>

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広島ねんりんピックで天道流の型演武
(右)美田村武子16代宗家 (左)松尾師範

 

女あり 二人行く 若きは美わし
老いたるは更に美わし

―― 松尾先生の師匠の美田村千代先生はどんな先生でしたか。

 自分が慕うて、先生のものを受け取りたいという一心で就いたんですからね。本当に素晴らしいと思います、技の上においてもね。
 千代先生はおきれいでしたから、歩いていても横からぱっと男の人がいじわるに出てくるらしいんですよ。それをひらっとかわすんですと。自分は歩いていても四方に気を配っている、周りのものが見える、心を開いているということですね。それはやはり極意に達していると思うのです。
 いつも臨機応変に働ける心構えが大切だと思います。
 私は生徒によく言うんです。「きょろきょろしてるんじゃないよ。まっすぐ歩いていても、左右気を配っていなければだめだ」と。

「女あり 二人行く 若きは美わし
老いたるは更に美わし」

 これはホイットマン(ウォルト・ホイットマン アメリカの詩人 1819~1892)の詩です。やはり女の行く道は、これだと思うのですね。お稽古によって心の統一が気位になって気品が出て姿が美しくなり、目が生きてくる。そういう姿が本当の女性の姿じゃないかと。

全身全霊でかかっていくことで、
師のすべてが心に入る


 千代先生は道場に入れば、きりっと油断がないから、自分も油断なく、「さあどういう剣をくださるか」と思って息をつめ、待ちます。来た剣をぱぱっと受けて入る時の手の内、うれしさ、気持ちの良いこと、そういうことが忘れられない。習う以上は、吸収しようという心、一つでも受けとろうという気持ちでおりますから、全身全霊でかかっていくことによって、先生の魂が自分の魂に伝わってくるのです。何かをとらえようという気持ちによって先生の全部の様が自分の心に伝わってくるのです。

 だから師を選べというのは、そこにあると思う。師を選ぶということがいかに大事であるか。

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