黒埼ちとせと白雪千夜 黄金の日々へ

・人間の偉大さは、恐怖に耐える誇り高き姿にある

 黒埼ちとせは死が怖くないのだろうか?

 その振る舞いだけを見れば、彼女は死だけでなく、何ものも恐るるに足らず、と捉えているように思えてくる。

 いくつかの解釈が許される。①黒埼ちとせが死を受け入れていると考えること。②黒埼ちとせが死の恐怖を克服したと考えること。③黒埼ちとせが今もなお、死の恐怖と向き合いつづけていると考えること。

 この三つのどれであるかによって、プロデューサーが取るべき姿勢は違っているだろうから、まずはそこを見極めるべき…なのだろうか。

 忘れてはならないのは、黒埼ちとせが白雪千夜とともに始まったアイドルであることだ。むしろ、白雪千夜が黒埼ちとせとともに夜明けを迎えつつあると言ってもいい。

 黒埼ちとせには、(自分の死よりもはるかに)恐れていることが一つあるらしい。白雪千夜が「蘇らない」ことだ。

 黒埼ちとせは白雪千夜をこよなく愛し、讃える。白雪千夜のことを素晴らしい人間だと信じている。そして実際に、白雪千夜は素晴らしい人間なのである。そのポテンシャルや意識の高さにおいて。つまり黒埼家でちとせの側に仕えるほどには、また巻き込まれる形で始めたアイドルとしても『優秀』なのだ。

 ところがどうも白雪千夜は、そのことを理解していない。いや理解云々ではなく、そもそも期待することがないらしいのだ。周囲のあらゆることのみならず、自分にも、そして唯一価値を認める主・黒埼ちとせの行動に対してすら千夜は「戯れ」と言ってのける。

 それが黒埼ちとせには不満なのだ。黒埼ちとせは、白雪千夜のことを誰よりも分かっている。誰よりも評価している。そんな彼女を輝かせたいと思っている。

 自らの死という事実が、その思いを生んだのか、あるいは加速させたのか。ただ輝いて欲しいだけではなく、その才能を活かして生きて欲しい。世界と自分に期待して欲しい。誰にも期待しない態度を貫いたままでは、世界では生きていけない。もう庇護者はいなくなるのだから。

 こうして黒埼ちとせは、恐怖を克服すべく動きだす。白雪千夜を巻き込んで、アイドルの世界へ…。だが、その過程にも彼女の素晴らしい人間性が見受けられる。

 黒埼ちとせの最も偉大な点は、そのあり方がただひたすらに高貴であるということにある。高貴でありながら、彼女は決して普通人の感覚や視線、そして喜びを疎かにしない。高貴ではあっても高慢ではない。だから、一人で喜ぶよりもみんなで喜びを分かち合おうとするし、白雪千夜が幸せになるのと同時に、自分たちのファンも幸せにしようと願っている。高貴なるものの責務。

 また、彼女は自分に求められることをよく理解している。だからこそ彼女は「白雪千夜が世界と自分に期待すること」を安易に求めることができない。それはただの命令である。それではいけない。命令の結果として彼女が幸せになった、では意味がない。正しい道・正しい過程を経て、白雪千夜は「自らの手で」幸福へとたどり着かなければならない。

 時に白雪千夜を宥めたり諭すこともあるだろう。しかし、こうして欲しいと明確に示すことはしない。白雪千夜の自由をコントロールしようとしながらも、白雪千夜の自由を縛りはしない。ただ、望む結末を求めて残りの命を燃やす。高貴なるものの傲慢と敬意の両立。それが自分の命を燃やす形で実現しているのが、黒埼ちとせの異常性である。

 戦いには「なりふり構っていられない」状況があるが、高貴なるものはそう簡単に「なりふり構わない」という選択をしてはならないのだ。それは弱みを見せる。高貴なるものの周りには人が集う。弱みは、彼ら彼女らを失望させ、時にはつけ込ませさえする。それが分かっているから黒埼ちとせは絶対にそうしない。

 やはり黒埼ちとせは、自分のことをよく分かっている。そして他人のことも。明らかにすべきことを誰に明らかにすればよいのかもよく分かっている。訪れる終わりを見据えながら、必死に責務を果たそうとしている。死への恐怖がなくとも、望まぬ未来への恐怖はあるはずなのに。

 死との向き合い方、他者への敬意、誰しもを喜ばせようとするスケールの大きさ、そして高貴なるものの責務を果たさんとする意思。黒埼ちとせは、素晴らしい人間であり、素晴らしいアイドルになれるはずである。


・ぼくはまだ「マイナス」なんだ

 白雪千夜についても語らなければならない。そもそも黒埼ちとせと白雪千夜は切っても切り離せないのだ。物語の始まりは常に参照される。それは彼女たちが別々の道を進んでいくことを妨げるものではないが、始まりへの意識は常に重要である。

 もっとも、白雪千夜の問題に関しては、その始点は黒埼ちとせでさえもどうしようもない過去にまで遡るのだが。家族の喪失は期待の喪失であった。それは冷笑の態度とは違う。問題はより根深く、白雪千夜自身が能動的に触れようとはしていない。期待の喪失を改善することさえ、彼女は期待できないのだ。

 白雪千夜が、黒埼ちとせが「長くない」ことを知っているかということは興味深いが、もし白雪千夜が「期待しない」態度を続けてしまったならば、それすら問題ではなくなってしまう。その場合、白雪千夜は黒埼ちとせの運命さえも「そういうもの」としか受け取れない。それが白雪千夜の防衛手段、生き方である以上、それを無下にすることはできない。しかし、黒埼ちとせはそこに変化を望んでおり、私は素晴らしい人間・黒埼ちとせに感化された人間であるから、余計なお世話だと言われたとしても、白雪千夜の変化に期待してしまう。

 白雪千夜の変化(傲慢だと分かっているから、彼女の変化を私は成長とは呼べない)はこれから様々な形で描かれるだろうから、それはまた機会とやる気があれば述べる。

 大事なことは、白雪千夜のポテンシャルの高さである。相方をカバーしてあまりあるパフォーマンスはもちろんだが、彼女の独白は鮮やかな言葉で彩られている。また、人間関係に関しても、プロデューサーへの厳しい態度はともかく、学校の同級生や同僚アイドルへの態度には問題はないようだ。

 それを踏まえると、白雪千夜の問題はやはり「世界と自分への期待の欠落」に帰結するように思える。人間としての根本的な問題であり、アイドルという特殊な業界でもやはり問題とせざるを得ない。現状はその欠落が黒埼ちとせとの閉鎖的な関係の中で問題となっていないだけであり、その関係の終焉は近づきつつあるのだから。

 逆にいえば、その問題が解決されたなら白雪千夜はその翼によってどこまでも飛び立つことができる。彼女の才能は疑い得ないし、彼女の人間性は善とされる(多少辛辣なくらいでいいのだ)。何より、彼女にもかつて夢があったのだ。

 マイナスをゼロにすることが、白雪千夜をめぐって行われるべき最初のプロデュースとなるだろう。

 ただし忘れてはならない。時間は限られている。白雪千夜は黒埼ちとせのプロデューサーでもある。黒埼ちとせは白雪千夜の将来を案じているが、将来を決めるのは白雪千夜自身であるというスタンスを明らかにしている。

 プロデューサーは、彼女たち2人の関係を尊重しつつ、的確な介入によって望まれた未来へと導かねばならない。それが傲慢にならないように。この2人が同時にアイドルの世界へと足を踏み入れた事実は、これからのプロデュース次第でいくらでも輝き、あるいはくすんでしまうだろう。


・気高き覚悟と黄金のような夢に賭けよう

 コミュにおけるプロデューサーの姿勢は適切だったと感じている。総じて今回のコミュは、一部を切り取ったTwitterの画像だけではわからない、文脈の中に意味があると再確認するためのいい機会でもあった。

 私がコミュの中でプロデューサーに望んだことは、彼女たち2人に「適切な」プロデュースをできるかどうかという点だった。シンデレラガールズは、ある個性を与えられたキャラクターが最初に登場し、そこからの成長や関係の変化を楽しむことに大きな醍醐味がある。それは属人的な物語、化学反応の結果である。

 一方で、この2人はすでに物語と関係性を保持している。与えられたコミュでも、このアイドルでこの物語を描きたい、というコンセプトが明確になっていた。だから私は今こうして文章を書いている。

 今回のコミュはその両立であったと私は考えている。プロデューサーは、2人の物語をしっかりと理解し、2人がともに輝くことを最初の一歩として選んだ。その一方、第4話に示された通り、プロデューサーは黒埼ちとせの意思を尊重し、より良き未来へと2人を落とし込む決意を固める。

 白雪千夜というアイドルを「こうプロデュースしてほしい」という方針はメタ的には運営から示されているることになるが、しかし物語の中では黒埼ちとせによって示される。トップダウンの物語という貴重な試みの代理人としての黒埼ちとせ。

 だが、ボトムアップの物語がないというのも見当違いだ。なぜなら、プロデューサーは直後に黒埼ちとせに対し、自分だけでなく、白雪千夜の協力を得て最高のプロデュースを実行することを約束している。黒埼ちとせを待つのは死という残酷な事実だけであるが、死へと向かう道をどうプロデュースするかという問題については、全くの未定であり、そこには無限の可能性がある。ボトムアップの物語という慣れ親しんだ体験の共同実現者としての白雪千夜。

 黒埼ちとせというアイドルにとって予想外であったこの展開、プロデューサーが「黒埼ちとせの魂に全力で応え、かつそれ以上の未来を示す」展開。このプロデューサーが、今後どのような形で白雪千夜に世界と自分への期待を持たせ、黒埼ちとせの残りの日々を彩るのか、俄然興味が湧いてきた。それはもう、親心のようなものである。


・呪いは解かなければならない

 これだけ述べて申し訳ないが、私は、今回のコミュについて語ってきた内容の全てがエンディングで覆ればいいと思っている。私は誰かの死が嫌いなのだ。つまり、黒埼ちとせの「長くない」は、彼女の勘違いであったりだとか、彼女のほんのいたずら心の現れであったりだとか。あるいは彼女は吸血鬼らしいから、彼女の「長くない」は人間にとっての「めっちゃ長い」だったりして。そうであればいいのに。

 だが、そう願ってはならないとも分かっている。第一に、彼女の死はイベントのコミュでほのめかされるだけでなく、既にコンテンツ内の複数の場所で(数少ない登場機会にも関わらず)示唆されている。それを無視して個人的な願望を押し付けるのは、解釈として真摯な態度ではないというのが私の信念だ。

 そして第二に、私たちが向き合うべきは彼女だけではないのだ。黒埼ちとせが肉体の死を迎える以前の段階、物語が始まった段階で、白雪千夜の心は死んでいる。やがてやってくる死を何らかの言い訳で回避できたとしても、目の前にある死をおざなりに扱ってはならない。

 黒埼ちとせと白雪千夜が二人ともにシンデレラの世界へ殴り込んできたのには意味がある。これから二人がどんな道を歩いて行くにせよ、始まりはこの二人だったのだ。

 二人の少女は呪われている、とTwitterで誰かが言っていた。呪い、とは実にいい表現だと思った。ある一節を思い出した。

 “これは「呪い」を解く物語——

 その始まり——「呪い」とはある人に言わせると、自分の遠い先祖の犯した罪から続く「穢れ」と説明する

 あるいは——坂上田村麻呂が行なった蝦夷征伐から続いている「恨み」と説明する者もいる

 また違う解釈だと 人類が誕生し物事の「白」と「黒」をはっきり区別したときにその間に生まれる「摩擦」と説明する者もいる

 だが とにかくいずれの事だが「呪い」は解かなくてはならない

 さもなくば「呪い」に負けてしまうか…”

               (荒木飛呂彦『ジョジョリオン』1巻)

 そうだ。呪いは解かなくてはならない。黒埼ちとせの死がそうである以上に、白雪千夜の死は深刻な呪いである。前者は乗り越える、耐えるための呪いであるが、後者は解くための呪いである。前者が後者に解決までの時間制限を与える。まず呪いを解かなければ、白雪千夜の十二時過ぎの物語はない。

 彼女たちは、彼女たちを取り巻く人々は、どうやってその呪いを解くことができるだろうか。その美しい答えが、これから描かれていくのだろうと心踊らせて、私はシンデレラガールズというコンテンツのことを少し見直した。

 始まりは帰ってくる場所だ。この二人の別々の物語は、常にVelvet Roseという始点を参照しながら進む。タイムリミットは定まっている。

 白雪千夜の「呪いが解ける」ことを願っている。黒埼ちとせの誇り高き人間性が、限られた時間の中でより多くの人々の胸を打つことを願っている。

 残されたそう長くはないだろう残りの日々が、黄金の日々であることを祈る。

今日の結論

・デレステの新アイドルはジョジョだった

・なんだかんだでシンデレラガールズやるじゃん

・二人の行く末に幸多からんことを

・この物語へと私を呼び寄せてくれた素晴らしいTwitter上のオタクに盛大な感謝を示したい


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