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日本人の利他性と「無自覚の宗教性」

 現代の日本社会では、自分を無宗教と考える人が7割と多数派で、いわゆる教団型の宗教、「見える宗教」を信仰し、実践している人は少数派である。とはいえ、日本人の精神基盤には、今なお、宗教と関わり深いものが残されている。宗教や信仰に関わる初詣でや墓参りなどの儀礼、祖先祭祀を行っている人は七割ほどに上り、また宗教的な心を大切とする人も69%いる(2008年統計数理研究所「日本人の国民性調査」)。
 日本では、個人や団体が慰霊塔、モニュメントを建てる。また、人の死を悼むだけでなく、針供養、眼鏡供養、人形供養なども存在する。そこにはアニミズムの思想があるが、祖先祭祀には、命のつながりに対する感謝の意識が漠然と生きている。「おかげ様」という表現などに表れる感謝の念などは、今なお、日本人の多くに共有されていると考えられる。筆者は、このような「無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとのつながりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ様の念」を「無自覚の宗教性」(『利他主義と宗教』123頁)と呼んでいる。

本稿は、稲場圭信「日本人の利他性と『無自覚の宗教性』」『中央公論』2012年5月号、40-47頁に加筆修正してものです。

 今、日本社会は宗教に対する見方を変えつつある。東日本大震災と続く原発事故により、当たり前としていたものが当たり前ではなくなった。目に見えない放射線を恐れる私たちは、同時に目に見えない祈り、共感、心のつながりの重要性にも気がついた。被災地で祈る姿を多くの人が見たであろう。3・11の一周忌には、多くの人が黙祷を捧げた。犠牲者の冥福と被災者の安穏、そして被災地の復興を祈った。七割が無宗教と自認する日本人の多くが祈ったのだ。
 祈りは宗教の根源的要素である。そして、その祈りは人々の幸せへの希求の表れでもある。人びとのために何かをする社会貢献、それは、幸せへの希求とともに実質的な行動としての実践だ。宗教はそこにどのように関わり、社会はどう認識しているのか。
 社会貢献という言葉は、世の中のいたるところで使われるようになった。誰もが世の中の一員として、社会に何らかの貢献をすることが求められる。
利潤を追求する株式会社とて同じ社会の一員であり、会社は社会の公器と言った創業者もいる。ましてや、人の救いに関わってきた宗教が社会の苦から超然としたところにだけ存することはあるまい。

利他の目覚め

 利他主義という言葉がある。利他とは一言でいえば、他者の利益になることだ。電車で人に席をゆずる、人が物を落とした時に拾うなど他者のため
(p.41)
に動いたことがない人は少ないだろう。東日本大震災で多くの人が義捐金や物資を送り、被災地に救援に駆けつけた。なぜ、人間はこのような利他的な行動をするのだろうか。
 生物学者(遺伝学)柳澤嘉一郎氏は、『利他的な遺伝子』(筑摩選書)の中で、脳内にあるオキシトシンの分泌と利他的行動との関係を指摘している。オキシトシンは、「人間信頼のホルモン」、あるいは「共感のホルモン」とも呼ばれる。他人のために何かをしようとする時、脳のオキシトシン分泌をつかさどる視床下部の活性化がおこる。遺伝子のレベルから進化的にみると、「利己的な本能は、利他的な本能よりも古く、強固で、前者は生命誕生後まもなく生じてきたが、後者は、脳が発達し、動物が群れ社会をつくるようになってから生じてきたものだ。利他的な本能は、社会の形成にともなって生じてきたもの」と柳澤嘉一郎氏は記している。本能として利他性が備わっているとして、それが発現するかどうかは社会環境による。
 電通総研が東日本大震災後の四月に「震災一ヶ月後の生活者意識」調査を実施した。その調査報告のキャッチフレーズが「震災で目覚めた『利他的遺伝子』」であった。利他的遺伝子が目覚めたというのは、あくまでも比喩だが、未曽有の大災害という社会環境が私たちの中に眠っていた共感する心を目覚めさせたのであれば、希望が持つことができる。
 大垣昌夫氏(慶応義塾大学教授)と亀坂安紀子氏(青山学院大学教授)の調査によれば、利他性が震災前後で変化しなかったという人が約60%、震災後に下がったという人が約5%、上がったという人が約35%であった。震災前から利他性が高い人や震災後に高まった人たちは寄付やボランティア活動などの行為をする場合が多く、そうした行為はさらに利他性を高める働きがあったと分析している。(「震災後の日本人の価値観 利他性の向上、全国的に」『日本経済新聞』、2012年3月2日付朝刊)

利他性を育む

 宗教は人をより利他的にするという言うことができるだろうか。イギリスの社会学者D・ジェラルドは、教育、収入、年齢は利他主義と無相関で、宗教的コミットメントのみが利他主義と正の相関を持つと、ヨーロッパ価値観調査の結果を分析している。アメリカの社会学者R・ウスノーは、利他的精神を陶冶する最適な環境は宗教的環境だと結論付けている。
 日本ではどうだろうか。最新の研究では、以下の二点の重要な知見が提示されている(三谷はるよ「現代日本社会におけるボランタリズムの要因構造」大阪大学人間科学研究科平成22年度修士論文)。
① 「ボランティア活動をする層」は「ボランティア活動をしない層」に比(p.42)
べて、信仰する宗教がある人の割合が有意に高く、また、多変量解析の結果からも、信仰する宗教があることは有意にボランティア活動の参加頻度を高める(2005年JGSS(日本版総合的社会調査)データを用いた分析)
② 個人の年齢や学歴、パーソナリティ要因などの影響を取り除いても、「決まった日に寺社・教会へお参りに行く」ことが有意にボランティア・NPO活動の参加を促進する、つまり、正月・盆のお参りといった伝統的宗教慣習を行っている人は(たとえ宗教組織に所属していなくても)、ボランティア・NPO活動に参加しやすい(大阪大学経験社会学研究室が独自に行った2010年SSPデータによる多変量解析)。
 利他性は社会生活によって学ぶことができるという研究結果もあり、その原動力として宗教の力は強い。しかし、そのことは日本社会にはあまり知られていない。

社会の認知度

 1995年、阪神・淡路大震災において、宗教団体は緊急支援のボランティア活動を展開した。活動内容は、緊急支援物資の運送・配布、炊き出し、避難所のトイレ掃除など多岐にわたった。一方、多くの被災者が心のケアを必要としたが、宗教団体による心のケアは布教活動につながるとの警戒感もあり、宗教団体が率先して行うことはあまりなかった。また、宗教団体の救援活動に対する報道も少なかった。
 宗教団体が行っている社会福祉活動が多数存在するにもかかわらず、そうした活動への社会的認知度や期待が高くない。実際、『宗教団体の社会貢献活動に関する調査』(庭野平和財団、2008年)では、宗教団体の社会貢献活動を知っている人は35%にとどまる。また、平和や医療福祉分野での貢献に期待する声もある一方で、約3割の人が「期待する活動はない」と回答している。筆者が大学で宗教の平和運動、教誡活動、文化支援、災害救援活動などに言及しても、それを知っている学生はほとんどいない。これらは宗教者が地域社会と強い信頼関係を持ち、住民との深い関わりを持って人々をつなぐ土壌があるとは言えないことを示している。
 しかし、今回の東日本大震災を契機に、社会はおおくの教団や宗教者が救援活動を展開し、大きな力となっていることを認識したのではないだろうか。それは、阪神・淡路大震災以降の各教団の社会的取り組みや宗教NGO活動があったためであり、また、ホームレス支援活動など反貧困問題を中心に社会的取り組みをしてきた宗教者の連携などに対してマスメディアの関心が高まっていたからであろう。
 東日本大震災以前から災害救援の組織を持っていた教団もあれば、震災直後に対策本部を立ち上げた教団もあった。新宗教、伝統仏教界、神社界、キリスト教団など宗派に関わりなく、そ
(p.43)
の動きは迅速だった。
 被災地で宗教はその力を発揮した。100を超える神社宗教施設が避難所や救援活動の場となった。宗教施設には、広い空間と畳などの被災者を受け入れる「場の力」があった。緊急時に提供する備蓄米・食糧・水といった「物の力」があった。檀家、氏子、信者の「人的力」があった。そして、祈り、人々の心に安寧を与える「宗教力」があったのだ。
 被災地での宗教者の活動に、布教に来たのではないかという見方もなかったわけではない。一部には支援と布教をセットで展開しようとした団体があったのも事実だ(しかし、受け入れられなかった)。多くの宗教者・宗教団体が布教活動を一切しない方針で、救援・支援活動に徹した。そうした宗教者の姿勢が被災者に受け入れられ、他の支援組織がそれを理解したことにより、連携の輪が広がったのである。(これらの動きについて、詳しくは以下を参照していただきたい
・宗教者災害支援連絡会 http://www.indranet.jp/syuenren/
・宗教者災害救援ネットワークhttp://www.facebook.com/FBNERJ
・宗教者災害救援マップhttp://sites.google.com/site/fbnerjmap/)

宗教の社会貢献

 日本における宗教者による弱者への慈善活動は長い歴史を持つ。聖徳太子や光明皇后が設けた悲田院や施薬院は身寄りのない貧窮の病人や孤老を収容する救護施設であり、慈悲にもとづく仏教実践として知られている。奈良時代の行基の公共事業も有名である。中世では、永観をはじめとする平安後期の浄土教の聖たちの慈善活動があった。昨今、社会参加仏教と呼ばれる仏教者の社会活動が取り上げられることが増えてきたが、源流は仏教の始まりとともにあるとも言える。また、カトリックの救
(p.44)
貧活動もよく知られている。こられは、今でいう宗教の社会貢献活動である。
 そもそも、宗教の社会貢献とは何をさしているのだろうか。筆者は「宗教者、宗教団体、あるいは宗教と関連する文化や思想などが、社会のさまざまな領域における問題の解決に寄与したり、人々の生活の質の維持・向上に寄与したりすること」と、ゆるやかに定義している。
では、そこに政治的活動は含まれるのだろうか。アメリカでは、たとえば政府が宗教団体の社会福祉サービスに補助金を出すことについて、合衆国憲法修正第一条に定められた政教分離の原則に抵触しないと判断され、世論調査でも七割近くの国民がこれに賛成している。また、半数以上が宗教による政治への参加を肯定し、7割近くが、宗教団体が社会問題の解決において貢献をしていると考えている(Pew Research Center "Public Divided on Origins of Life" 2005)。ここには、国家と宗教、社会と個人、宗教をめぐる制度の問題、宗教に対する社会の見方、社会の期待などが重層的に絡んでいる。
 しかし、宗教団体の活動に対する評価が、時代により変わる場合もあることを忘れてはならないだろう。たとえば、平和の取り組みもそのひとつだ。日本宗教連盟は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ後に、「戦闘によらない解決を求める声明」を発表した。また、世界宗教者平和会議は、テロを非難するとともに、貧困・暴力・不正を直視した上での国際対話・諸宗教間の融和への道を国際条約や国連活動に求めるなど具体的な提言をした。二〇〇二年の比叡山宗教サミットは、武力ではなく対話と相互理解、祈りによる平和実現を呼び掛けた。
 このような取り組みは、時代が異なれば、活動を制限される可能性もある。近代日本においても、宗教者が社会事業を行う時、公益との関係で葛藤状態に置かれている。

無自覚の宗教性と共感縁

 社会のさまざまな組織や集団の基盤にある「信頼」、「規範」「人と人との互酬性」を指して、ソーシャル・キャピタル(Social Capital、社会関係資本)と言う。ソーシャル・キャピタルがしっかりある社会では、人々の支え合い行為が活発化し、さまざまな問題が解決しやすくなる。欧米では、ソーシャル・キャピタルとしての宗教に対する関心が高い。宗教集団は、もともとその内部に信頼構造を備えていることから、それ自体が社会に貢献していると考えられるからだ。アメリカのような国では、宗教が人と人とのつながりを作りだし、コミュニティの基盤になっている。
 かつては日本も、地域社会は神社で行われる祭りや芸能など、宗教を通じて地域社会がつながっていた。しかし、現代の日本社会では、前述のように自分を無宗教と考える人が七割と多数派で、いわゆる教団型の宗教、「見える宗教」を信仰し、実践している人は少数派である。とはいえ、日本人の精神基盤には、今なお、宗教と関わり深いものが残されている。宗教や信仰に関わる初詣でや墓参りなどの儀礼、祖先祭祀を行っている人は七割ほどに上り、また宗教的な心を大切とする人も69%いる(2008年統計数理研究所「日本人の国民性調査」)。
 日本では、個人や団体が慰霊塔、モニュメントを建てる。また、人の死を悼むだけでなく、針供養、眼鏡供養、人形供養なども存在する。そこにはアニミズムの思想があるが、祖先祭祀には、命のつながりに対する感謝の意識が漠然と生きている。「おかげ様」という表現などに表れる感謝の念などは、今なお、日本人の多くに共有されていると考えられる。筆者は、このような「無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとのつながりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ様の念」を「無自覚の宗教性」(『利他主義と宗教』123頁)と呼んでいる。


 この「無自覚の宗教性」もボランティアたちの原動力になっているのではないだろうか。自分は生かされている、おかげ様で今がある、という感謝の念から苦難にある人へ思いを寄せるのである。神仏のご加護と皆様のおかげで生かされているという感謝の念が人を謙虚にし、自分の命と同様、他者の命も尊重させる。「無自覚の宗教性」における「つながりの感覚」「おかげ様の念」が、他者を思いやる行為の源泉ともなるのだ。
 「無自覚の宗教性」は多くの日本人の中に存在する。そして、その「無自覚の宗教性」は、他者を思いやる利他性を覚醒する景気を豊かに含んでいる。欧米型の新自由主義的ボランタリズムとは別の、「無自覚の宗教性」によるボランタリズムが、日本に新たなつながりを作っていくかもしれない。
 今、被災地では心のケアの重要性も増している。苦難にある人に寄り添い、行動をともにする。そのような関わりがいつしか心のケアにつながるのだ。誰しも、心のうちや辛い体験を見知らぬ人にすぐに話すものではない。さまざまな寄り添いの時間の流れの中で、心を開かれていく
 ひとつの例として、わらべ地蔵を刻み、震災で子どもを亡くした親に贈る「わらべ地蔵を被災地へ」プロジェクトがある(発案者は京都の仏師、冨田睦海氏)。全国で多くのボランティアが参加し、その数は一五六〇体に及んだ。自分が心を込めて刻んだ地蔵には愛着が湧く。しかし、それを他者のために祈りとともに自分の手元から離す。心だけを切り取った「心のケア」はありえない。思いを形にしてそれが被災地の人々の心に伝わった時にはじめて、心のケアにつながるのだ。
 利益と効率のみを追求し、人を物のように使える・使えないで切り捨て、自己責任論のもと、個人に過剰の負担がかかる社会。勝ち組・負け組の分断社会。地縁・社縁・血縁が失われてゆく無縁社会・・・。つながりがそぎ落とされてきた社会にあって、大きな変化が生まれたと言えるのではないだろうか。
 私たちの中にある、苦難にある人へ寄せる思いや共感によって人々につながりが生まれている。あらゆる縁が弱まった社会に、「無自覚の宗教性」にもとづいた「共感縁」が生まれたのだ。

公共性と宗教

 人間関係が希薄になった現代、生きることに困難を感じている人が増えている。行政主導のお上という「公」ではなく、つながり、支えあいによる社会を構築しようという動きが、さまざまなところで起きている。
その動きにあわせて、2010年、民主党政権は「新しい公共」という概念を打ち出した。これは民主党の専売特許ではなく、イギリスの社会自由主義に源流がみられる考え方である。日本でも、すでに市民が動き出し、宗教者も社会的力として存在している。
 1960年代以前の社会運動においては、階層間の問題、富の再分配、雇用および福祉の問題が解決課題であり、その活動のおもな担い手は労働者と知識人であった。1960年代以降の「新しい」社会運動においては、階層間の問題から個人に焦点が移り、人権や環境の問題が解決課題となった。その活動の担い手は市民、学生、主婦らであった。
 宗教は、1960年代以前の従来の社会運動においても、新しい社会運動においても、強い関わりを持ってきた。時にはともに活動し、時には一人ひとりの苦に寄り添ってきた。
 そして、今、新たらしい宗教NGOの動きが見られる。グローバルな地域間連携の流れとともに、一国・一地域における社会貢献型・利他主義型宗教から、トランスナショナルと多文化主義を前提としたネットワーク型のNGOへと変容しているのだ。国際社会の動きを理解する上で、宗教NGOは欠くことのできない重要なセクターとなっているのである。
 消費税を上げるならば、宗教法人に課税しろという声もある。たしかに大教団には布施・献金がたくさん集まるだろ。しかし、それは全国の支部・教会などから集まる合計額である。また、優遇税制はあっても、宗教法人の収益事業には課税がなされている。そして、宗教法人は、学校法人のように運営費交付金(もとは税金)を一切受けることなく、災害救援活動、義捐金、文化活動支援など社会を益する資金援助、支援活動を自前で行っているのだ。もちろん、公益性を一切もたず、私腹を肥やすような宗教者、金銭トラブルを起こす教団などがあれば、該当する法律で適切に裁けばよい。しかし、多くの宗教者、宗教団体は、宗教活動や文化活動、社会活動を通じて社会に貢献しているのだ。
 宗教者は、陰徳として善行を行い、それを社会に伝えることをよしとしてこなかった。しかし、今は、個人にも組織にも説明責任が求められる。宗教の社会貢献活動にも活動全体にわたる説明責任と社会改善への提言能力が要求される時代だ。
 教団側にとっては、信仰と社会貢献活動のつながりをどのように宗教思想と関連付けて教団内部の人や信者に説くかということが課題もある。それは、宗教者にとっても、宗教理念にもとづいた人間観、世界観、社会観を問い直す契機となろう。 
 宗教者の社会貢献活動においては、宗教が与える世界観と信仰が精神的支えになっている。さらには、それらを共有する宗教者同士のつながりも重要な精神的支えとなっている。それゆえに、宗教的世界観を共有したメンバーたちによって構成される活動は、宗教的世界観を共有しない人から見た時に、閉鎖的な感覚を与える可能性がある(いわゆる結束型のソーシャル・キャピタル)。一方で、宗教団体の社会貢献活動や宗教者のボランティア活動が社会的共感を呼んだ場合には、宗教を超えて世の中に利他的な倫理観を伝えていく可能性もある(橋渡し型のソーシャル・キャピタル)。
 東日本大震災の被災地で支援活動をしている人たちの中には、剃髪し、法衣・作務衣を着て読経奉仕をする仏教者もいれば、一般のボランティアと分からない格好で、地道に作業をする宗教者、在家の信仰者もいる。被災地で活動をする医師や看護師、福島原発に向かった自衛官の中にも信仰をもった人たちがいた。また、同時に、被災地から離れた地にあって、義捐金で支援をする人たちも多数にのぼった。さまざまな支援の形があり、それぞれが出来ることに取り組んでいる。
 宗教団体と宗教者による社会貢献活動は、活動の実質的な担い手としての機能に加えて、思いやりの精神を育てる公共的な場を提供する機能をも併せ持っていよう。「無自覚の宗教性」は、宗教者の利他的な実践によって、社会にさらに広く浸透する可能性もあろう。

参考文献:稲場圭信『利他主義と宗教』弘文堂


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