『NANA』ナナがレンに初めて会ったときの衝撃は「恋」や「一目惚れ」なのか。既存言語が与えてくれる経験のレンジの狭さについて。

矢沢あい作の人気漫画『NANA』で、大崎ナナがレンと初めて会う場面。

レンの後輩であるノブは、当時やさぐれていたナナに「包容力のある大人の男」としてレンを紹介しようとする。かしこまって異性として紹介されるのを照れているのか、乗り気ではなさそうな態度のナナ。レンが捨て子であったことや施設育ちであることはレンにとっては「自慢」であり、プロミュージシャンになるにあたってそのような生い立ちが「ハク」になるとレン自ら言っていたことをノブは素直に「カッコいい」と思ってナナに興奮気味に話す。ナナは冷めた態度のまま、ノブがペラペラ他人の不幸な生い立ちを話すことをたしなめ、レンのことは「自分の不幸を売り物にして同情買いたいだけ」「かっこわる」とまでいい放つ。

一般的な通念やそれらが規定するものの見方、そういった社会に流通しているものを「言語」と呼ぶことにすると、言語の内側ではノブは確かにアホだろう。他人の不幸な生い立ちを嬉々として他人に話し、その不幸な生い立ちをヒーロー像に当てはめてベタに興奮していること。釣られやすくてバカっぽく見える。
一方ナナは繊細な話をペラペラ話すものじゃないとノブをたしなめ、不幸を売りにしようとするやり方に対しては俯瞰してカッコ悪いことだと断じる。弁えていて賢く見える。
しかし、実際にレンに会ったナナはレンの魅力に引き込まれてしまう。
ナナのレンに対する見立ては表面的な通念や言葉の内部での観念的なものにすぎず、レンそのものの実際の魅力や深さは会ってみてようやく理解することになる。
そしてノブは一見アホに見えて、レンとナナが互いに必要な存在であることを言語的にではなく、もっと感覚的に理解していたことになる。
言語と、言語という表面の内側にある現実は見事に食い違っている。

実際にレンを見たナナは「あの夜生まれた感情を何と呼べばいいのか」「それは恋とかときめきだとか甘い響きは似つかわしくない」「嫉妬が入り交じった羨望と焦燥感そして欲情」とその時の想いを表現している。
この世にまったく普通の人というのは存在しないのだろうが、育った環境という点に限定すると、レンもナナも親に捨てられたという特殊な経験をしている。育った環境に性愛の内容や形式は大きく影響を受けるだろう。そして性愛という営みは感情などの内面的で完全に目に見えないもの、もしくは通常当事者以外の人には見せない行動である。つまり秘匿されがちなものなのだ。
しかし言語はそれらを名付けることで社会に流通できるように一般化し、それがどのような内容や形式を「普通は」もつのかについてまで言及する。
「恋」というのは甘酸っぱいもの、「自分以外との性愛的結合を除いては相手の幸福を祈るもの」、「互いが対等で、尊重しあうもの」などの通念があるが、ナナはレンを見たときそんな通念、言語を用いては表現できない何かを経験したのだ。そしてそんな経験をするまでは「自分も普通に『甘酸っぱい』恋をするものなのだろう」などと思っていたりする。
適応的でうまくやるということは社会の取り決めに自身の身体がマッチしていることだとすると、一般的に許容される非常に狭いレンジだけを生きていることになるのだろう。
ほぼ全ての人は何らかの側面でそれぞれが偏差をもつはずだ。名前を付けられない感情を経験したら無理に名付けず、その感覚のままを自分の中に保持するのも一興かもしれない。

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