石丸安芸高田市長をあえて批判する。言論的正しさと多数決の政治はどちらが上位なのか。会見の実況・解説付き

石丸安芸高田市長の切り抜き論破動画などが話題になっている。
自分の間違いを認めずに、通らない理屈を言い続ける議員や選挙で選ばれたわけでもないのになぜか偉そうにふんずり返ってる新聞記者が、石丸市長に論破されまくって笑い者にされている。見ていて痛快だ。

だが、視聴者は本当に二元代表制だの首長と議会それぞれの権限だのを理解しているのか。実は石丸市長側が苦し紛れなことを言っている場面はないのか。石丸市長がキリッと言い返せば、「そうだ、そうだ」と拍手喝采しているだけだったりしないか。
あるいはこれまで顧みられることのなかった地方議会に関心が向いたことに意義があるので、厳密な「理解」なんてどうでもいいのか。

今回はあえて石丸市長への批判をして、政治における正しさについて考えてみたい。

まずは無印良品の出店計画が頓挫した件。
市民の多くが望む出店を邪魔をしたのは議会だけであるというのが市長の主張だが、政治は結果責任だとも言われる。
「議会が不合理なことをした」というのはその通りかもしれない。言論的正しさは市長にあるのだろう。しかし、いづれにしろ市長の力で出店させることはできなかった、厳しいようだがこれが結果だ。
多数派である反市長の清志会なる会派を切り崩すなどできなかった。それ以前に、議会と市長が対立関係になってから議会選挙は行われているというではないか。ここで彼らを落選させることはできなかった。
地方の議会選挙なんて多くは無関心で、様々な利権やコネクションとつながる人間だけが投票して既得権を守る。国政選挙の不正の責任を取って辞職した人まで返り咲いているとのことで、地方政治のヤバさといったらひどいものなのだろう。「落選させることはできなかった」なんて無責任な外野が気楽に言っているだけというのもわかっている。
だがその現実は市長もわかっていたはずだし、わかったうえでどうするか考えて前に進めるのが結果を出すということだ。
きれいに言えば自治体ごとのやり方や事情があっていいのだし、それがないのならば自治体単位での政治は必要ないとも言える。
SNSなどで地方政治を「見える化」し、そのうえで民意を問う議会選挙も挟んでいる。そして4年なら4年という任期を正当に得ているのは市長だけではなく議員も同じだ。
議会が市長の提案する予算を否決するのも手続き上正当だ。何が言いたいかというと

言論的正しさが上位にあって政治的結論を確定させるのではなく、多数決の原理が上位にあって、その際の説得材料の一つに言論的正しさがある。

これが真実だ。議員が、好き嫌いや嫉妬心などの私情で意志決定しているのを批判してもよいが、それは選挙権を持つ一般市民も全く同じだ。
未成年者の選挙権を制限しているのは成年者が決定能力が高いもしくはその資格があるとされるからであるが、それでも「あの人を選べば自分に利権のおこぼれが来る」「あいつは気に食わないからあいつの足をとにかく引っ張りたい」こんな動機で投票行動を決めることも許される。これが多数決を基礎におく民主的意志決定の実像だ。

次に、市長の決定が早急すぎるという批判がある。
少子高齢化、過疎化の中で無駄なことをやってはいられない。そんなものをバッサバッサと切っていく。
その際、市長はきちんと説明していると言う。実際そうなのだろう。
だが無駄かどうか、合理的かどうか以前に、変化するスピードや猶予期間というのを考えることをしてもいいのではないか。良し悪しはさておき、そこにぶら下がっていた市民の生活が変わるのだから。
地方と都会という単純化はいけないが、競争競争、合理化合理化というのが性に合う合わないあるのではないだろうか。のんびりやりたいのかバチバチやりたいのか。
利権にぶら下がりたい人が投票に行く、ここまではわかりやすいが、それだけではなく、実は地方政治において投票に行かない人はそんな現実でも別に構わないと思っている可能性も大いにありそうだが、どうだろう。
「誰を政治家に選んでも苦しい生活は変わんないよ」そんな風にブーたれながら本気では変革を望んではいない。そんなものかもしれない。
だとすると優秀なエリート市長の独りよがりという可能性もなくはない。「国からの交付金引っ張ればいいじゃん」そんな意見が多数かもしれないのだ。実際市長はその方向でも動いたと議会で述べている。
あるいはもし「国への依存はけしからん」というのであれば、自治体の自主性や独立性の意義を粘り強く市民に唱えるべきだ。

議員も地方紙の記者もどの程度の能力なのかは動画を見ればわかる。だが、もしそんな人ばかりなのだとしたら、そんな人たちのための政治をやらなくてはならないという側面もあるのだ。


最後となるが、論破はし切ってしまってはいけないということだ。
将棋で王将を直接取ることまでしてはいけないのだ。恥をかかせるとこまで執拗に追い込むのは余計だ。
たくさんの人が市長を応援している。もちろん投了せずに食い下がる方が悪いのだが、そこは王者の貫禄を見せてほしい。
似た手法として橋下徹元大阪市長を思い浮かべる人もいるだろうが、よく見ると彼は勝負がついているときは相手に逃げ道を用意してあげていることが多い。
無用な敵を作る意味は特にない。地方紙があのレベルの人間であるとか、そういった現実はやりこめるとこまでしなくても見ている方はわかる。
あまりに瑣末な話まで、追い込み認めさせるということで時間を費やし会見が進まない。
「くどいし、市政が滞っているのは瑣末なとこまで市長がこだわるからではないか」という見方がそのうち市民から出てきかねないのではないかと心配している。

それにしても中国新聞の記者はひどいものだ。
会見動画内の「保護者」の方はまだ頭が回る人間だ。お行儀のいいテイのいい文章で、陰湿さや権力への嫉妬心を隠し持つルサンチマン層を煽ったりはできそうだ。間違ったときは早めに認めたりするお行儀の良さももっている。
だが、権力の私物化をやめろと市長に言われ、「その言葉そのままお返しします」と余計なことを言ってしまう。権力への想いの強さが出てしまったようだ。
市長は間違った報道、恣意的な報道がなされているからその点を説明しろと中国新聞に迫っている。
そこを確認することも市の広報活動として必要な範囲だという主張であり正しい。間違った事実の上にいくら会見で質問に答えても全体の整合性が取れなくなるに決まっているからだ。なのに説明する必要はないとの答え。ふてぶてしく厚かましい。
マスコミは第4の権力と言われるが、実際は第1の権力だ。なぜなら政治家の当落さえ左右できるのだから。事実確認の手順も踏まず間違った情報を出し、しかも間違いを訂正しないのならそれはもう報道ではない。
政治家への暴力は許されない。なぜなら悪いとこがあれば正しく報道し、次の選挙で落とせばよいのだから。
しかしマスコミがその力を横暴に使った場合誰がどのように糺すのか。ようやくネットでその横暴さがこのように露呈しつつあるからよいが、昭和のように大手に牛耳られていては「赤報隊」も容認されてしまうことになりかねない。

またその手下に至っては論外だろう。感情的で視野が狭く、抽象度が低い思考しかできないのだ。市長が追い込む価値もない小物だ。あまり追い込まないでほしい。
なぜなら「反権力」の旗だけ掲げて仕事をもらうような社会の敵、国家の敵を作るだけだからだ。「中国」にも「東京」にもおかしなのはいる。
排除された、恥をかかされたと感じれば、最後は社会への復讐に転じるのが人間だ。
市長が正しいのだがこのような根拠で批判させてもらった。

地味であるゆえに好き勝手されていた地方政治がエンタメ化され注目が集まり、真実が炙り出されたのはよかった。安定と破壊、地方政治であれ国政であれどちらが必要かは状況によるだろう。
石丸市長は二期目はやらないかもしれないが、いい形で今後も引き継がれることを祈る。




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