神戸5人殺傷無罪判決。精神科医がその仕方なさを描写する。

2017年に神戸で3人を殺害、2人に重症を負わせた男性の裁判で一審につづき二審でも心神喪失で無罪の判決が言い渡された。
自分と知人女性以外は人間ではなく、哲学的ゾンビであり、知人女性と結婚するためには哲学的ゾンビを殺さなくてはならないという妄想の影響下に犯行に及んだと認定された。
5人が殺傷されるという重大な結果に対する無罪判決に納得いかないとする声が多くあがっている。

それもわかる。法律の建前論を簡単に言えば、自由な行動主体としての人間が善悪を判断し、それに基づいて行動する。だからこそその結果に対して責任が生じる。
「善悪を適切に判断できる」「それに基づいて主体的に行動できる」これらの能力がなければ、「責任」というものをとらせることに意味はないし、「罪」という観念にも意味はなくなる。
法と道徳は別であり、法の具体的内容はたしかに単なる取り決めで、法的に正しい行動と道徳的に正しい行動とは必ずしも一致せず、見解が割れることもある。だがとはいえ罪や責任の観念は人間的な道徳の観念をベースにしている。つまり「悪いとわかっていて」「わざと、意図的に」「自分でその行動をすることを決めて」やったからこそ罪や責任が存在するのであり、行為の単なる結果を裁くのではない。
だからこそ故意か過失か、一人前の大人か未熟な少年か、情状酌量の余地はあるかなどが問題になるのであり、心神喪失かどうかも同じ考え方のもとにある。

ここからは精神科医として見た現場を描写することで、納得まではできなくとも仕方なさを感じてもらえるかもしれないと考えた。世論の強い憤りや逆に差別や偏見を助長すると言われかねない難しい状況の中で、なかなか表立っては言いにくい現実を描写してみたい。

まず私の描写の前に確認しておきたいのは、この事件の一審は裁判員裁判だったということだ。
世間の処罰感情は強い。その市井の人たちの中から裁判員は抽選で選出されるわけだが、その裁判員による判決でも無罪だったということだ。プロのエリート裁判官が前例踏襲で、相場で、法律の字義通りに冷徹に決めたわけではないのだ。

端的に言うと、「おまえはとんでもないことをした。その責任の重さをわかっているのか」「罪に向き合え」そんな言葉をこの人に投げ掛けても無駄だと一般人が見ても感じるような、そんな状態だったのであろう。判決を一般人のパッと見の印象で決めるわけではないのだが、この感覚というのは実は本質的だと思う。

統合失調症患者さんは外に出ることを怖く感じるなど苦痛があり、家から出ない人も多い。出掛けるとしても障害者の人のための施設などで作業や日常生活を送っていることが多い。
独特な表情や雰囲気があるのが世間一般にはわかりにくいかもしれない。
AbemaTVの討論番組に出演していた昭和大精神科の岩波先生は「ある程度経験を積んだ精神科医なら統合失調症は一発でわかる」と言う。

(※下記の各患者さんの例ではディテールを改変していることをご了承いただきたい。)

人のいない田んぼで独り言を言いながらうつろな表情で竹の棒を振り回して警察官に連れてこられた清潔な身なりとは言えない男性。

大量の殺虫剤を炊いて、入院後も虫の話を延々とし続ける初老の女性。彼女は自分が今どのような状況なのかには意識が向かず、専ら関心事は虫なのだ。

ロボットが病棟の自室をずっと出たり入ったりしていると小声でボソボソ話すアルコール依存症の中年男性。

幼稚園児の娘を妄想に駆られて絞め殺してしまった、実年齢よりもやや老けて見えた女性は、何度面接してもただただ「なぜあんなことしたのか。いい子だったのに」と泣き続けた。
ジグザクした病状の変動の中で、夫が買い出しで席を外し、そこに娘と自分しかいなかったほんの一瞬に「今しかない」という声が聞こえたそうだ。

みな警察官に連れてこられた人たちだが、コトの大小はあるが、「人としての道」や「罪と向き合うこと」を諭したり、「無期懲役や死刑」を求めるなどという気は起きない。それは法の理念を勉強しまくったからでもなければ、ある種独特な思想としてのヒューマニズムに染まっているからでもなく、自然な感覚として彼らにそのようなことを求めても仕方ないと感じるのだ。
私の下手くそな記述を読まされても「そんな感覚的なことは共感できない」と感じる人も大勢いることだろう。たしかに感覚的ないち意見にすぎない。
だが、それでも本記事で伝えたかったメインは実際に現場を目にして得たこの感覚だ。

ここから少しばかり理屈っぽいことを話そう。
健常者に比べても精神障害者の犯罪率は低いというデータがあっても「それでも精神障害者の方が怖い」という感覚を持つ人もいるだろう。
私は何も、「データが障害者の犯罪率は低いことを示しているのだから、怖いと感じることの方が差別的で非合理的だ」とか「精神障害者の方が健常者よりもいい人たちだ」などというつもりはない。

問題なのはなぜ過剰に怖いと感じるかだ。
それは動機の面で見通せないからであろう。何がスイッチとなって暴力的となるのかも読めない。そう思うからであろう。それは犯罪が引き起こされる「件数」ではない。質の問題だ。

むかついた「から」我慢できずに殴った、得をしたい「から」他人を騙した、あるいはバレて処罰されたくない「から」証拠隠滅をした。
動機の部分に納得や共感することもあれば、人として許せないと感じたりもする。
認知や思考と、行動とのつながりである「から」が健常者と違う形式に違いないと想定するからこそ、予見できない、それゆえ怖いと感じるのではないか。
もしそうなのであれば、行動と、責任や罪のつながりの形式もまた健常者に対するものとは異なるものであるべきだ。つまり刑法上の責任も斟酌されるべきなのだ。

しかし、それでも納得できないという感情はあるわけで、現実的に被害をなくす対策も採れずに「強権的な拘束はよくない」といった綺麗事だけを言うのも無責任だ。法的な理念のせいで処罰感情が満たされないならば、その法的理念を掲げる国家が賠償を肩代わりするなどして納得感を得るべきだ。そして医療であれ刑罰であれ、次の犯行を起こさせない具体的取り組みを提示すべきだ。

昔よりは改善されたとのことだが、それでも1、2年で社会復帰するという点に危機感を持つ人もいるであろう。
この点に関しては絶対ではないが恐らくそこまでは心配ない。
精神病状態の凶暴さ、粗暴さは数週間もすれば服薬である程度落ち着く。
そして、動機の形式が違う中での行為は、服薬で落ち着いてしまえば、繰り返されることは少ないというのが道理だ。

自分が起こした行動を理解できていない、覚えていないということもあるが、服薬開始からだいたい数日もすると、呂律が回りにくかったり、ボーッとした状態で「あんなことやっちまったな」とほそぼそと話している。
実際、再犯率も健常者より少ない。もし再び理性的なコントロールが効かない状態に陥っているとすれば、それは服薬がきちんとなされていなかったり家庭などの環境が悪かったりするケースがほとんどであるように感じる。つまり支援体勢次第なのだ。

また幻覚や妄想にとらわれている人は多くの場合、複雑な計画を立てたりそれを実行することだけでなく、バレない捕まらないというような自身を守ることもままならない。
つまり能力的に、大それたことをやったり、ましてや逃げ切るなんてことはほぼ不可能な状態だ。
複数人が亡くなる事件というのは言ってしまえばレアケースだ。
放火や殺人は、健常者よりも精神障害者は率が高いようで、もちろん憂慮することなのだが、被害者は家族などの近しい人であることが多いようだ。計画性に乏しく暴発型と言えるだろう。

統合失調症患者さんでも、電車を乗り継いでクリニックに通院してる人もいれば、就労してる人もいる。健常者同様多様だ。
激情に駆られてとんでもないことをしてしまうことが誰にでもあるように、例え服薬していても病状が急に悪化してコントロールできなくなってしまうこともある。

差別や偏見はやめましょうという空疎な言葉や、法的な理念を上から目線で押し付けるだけでは思考停止に陥る。
中身ある議論をしたり、一般社会の納得感を醸成すべく、現状を「絵」として思い浮かべてほしくて今回の文章を書いてみた。参考にしてもらえるとうれしい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?