dracaena
dracaenaメンバーがお送りする視聴者の眠気を促すラジオ。 毎回ぐだぐだなトークが醍醐味。
dracaenaインターネットラジオ「まどろむ窓辺 第8夜」 前回からかなり開いての第8夜。2017年ももうすぐ終わるということで今年の締めの話もちらほら。今回は少し熱く音楽のことを語っています。 川俣(vo.gt)の「音楽=お金という違和感」ミツダレイナ(b)の「旅は皆が求めるところには行かないわ」、小川(per)の「沖縄観光地の残念」ジョニー平井(gt)の「ライブハウスで尋常じゃない発汗」他。
弘法筆を選ばず。でも、気に入った良い筆で物を書くのはとても楽しいことだろう。 妻の誕生日。僕の兄から僕の妻にヘッドホンがプレゼントされることになり、日本橋(大阪)のイヤホン・ヘッドホン専門店に夫婦で連れて行ってもらった。 新品、中古、3000円台のエントリーモデルから15万円以上もする高級なものまでずらりとヘッドホンが並ぶ。ほぼ全て試聴可能で妻は持ち込んだ音源(スマホに入れた圧縮された曲)で聴きまくる。聞き慣れた曲で聴き比べた方が良いとの兄のアドバイスで、妻はファンで
ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(邦訳版)を読んだ。 少し言い訳するとノーベル賞を取ってから本を買ったんじゃない。僕の本棚には買ったけど読んでない本が10冊以上あって、その中に『わたしを離さないで』があったので読む順番を繰り上げただけで・・・だからなんだと言う話ですね。 さて、作品についてですが。この作品は、臓器提供のためにクローン技術で産まれた子どもたちの一人であり、現在はその『提供者』達の『介護人』をしている女性の独白という形で綴られて
ニルヴァーナ。 洋楽ロックを聴く人ならその名前を知らない人はいないであろう伝説的グランジロックバンド。 ただ、誰でも名前を知っているからと言ってエアロスミスとかコールドプレイみたいに大衆性のある音楽じゃない。一般的なイメージは「ネガティブ」「薄汚れた」「暗い」「狂気」というものだと思う。ボーカルのカート・コバーンはショットガン自殺で若くして亡くなってもいる。 そんな、ニルヴァーナのバンドTシャツを着ている人を最近よく見る。女子高生くらいの子が来てるのをチラホラ見かけた
深夜3時、車通りの少ない道路を走っていると、倒れた原付と転がったヘルメットが視界に入った。 数十メートル行き過ぎたが気になってバックする。見回すと一軒家の玄関前で座り込んで呻く男性。 「大丈夫ですか?」車を降りて声をかけると男性はこちらを向く。左目瞼の辺りをゴルフボールくらい腫らし、鼻と口は血まみれ。周辺至るところに血の染みがついている。 「救急車呼びましょう」それしかないと思い声をかけるとその20歳の男性はゆらぁと立ち上がって必至に拒んだ。 「大丈夫です」「いや、
毎日暑い。 毎日結構な汗をかく。 そして、時々やたらと汗臭くなる。 二週間ほど前、電車に乗ったらちらほら立っている人がいるくらいで、あぁ今日は座れないなと思っていたら、一つシートが空いていた。 ラッキーと思って座ったとたんに理由を悟った。 見るからに体育会系の隣の若者から漂う刺激的なフレグランス。 僕は悟られたら失礼だと思って自分の降りる駅まで座り続けました。辛さを忘れるために努めて読書に集中しました。 そして、つい先日の暑い日。 僕は早めに電車に乗ることが
台風5号直撃の最中、梅田のスタジオ246にてドラム録り。 スタジオキャンセルが頭をよぎるも、その考えを振り払う。 前々回は機材の不備でレコーディングできず。前回は僕が蜂窩識炎で寝込んでキャンセル。これ以上レコーディングを延期するわけにはいかない。 左手には濡れないように雨合羽を被せキャリーにのせたスネア、右手には壊れかけの傘。駅からスタジオまでの10分くらいを風雨に晒されながら歩く。 スタジオにはボーカル&ギター&レコーディングエンジニアのあきとが準備を始めていた。
イスラム社会では"物乞い"は堂々としており、お金や食べ物をもらっても感謝の言葉は無いという。 イスラムの教えでは貧しい者を助けることは善行であり、天国に近づくことになる。だから"物乞い"は善行するチャンスを与えてくれる存在としてとらえられているという。 今日、都会を歩いていると道端に一目でホームレス生活をしているとわかるおばあさんが座り込んでいた。全体的に汚れて灰色で靴下は破れている。精神疾患を患っているらしく、誰もいない方向にぶつぶつ言いながらよくわからない身振
本日はドラムレコーディングでした。私がまさかのパソコンの電源アダプターを忘れるという失態につきミツダ氏の怒りのドラム。大変申し訳ございませんでした。絶賛レコーディング日記でした。 アキト
「幸せはお金じゃない」 巷で溢れる言葉であり、事実だと思う。 そして、お金があるということはどういうことかと考えて一つの捉え方を発見した。 お金があるということは「選択肢が多い」ということでもある。 昼御飯の予算が300円であれば、コンビニのおにぎりか、松屋の牛めし(並)ばかり食べることになる。がっつり弁当を食べたければスーパー玉出に限られる。 でも、予算1500円出せる人は小洒落たパスタランチを召し上がることもできれば、牛めしをかっ食らうこともできる。成城石井で
本日は盟友ヒトリバンケットのレコ発イベントだった。彼との出会いは話すと長くなるので割愛するけど今となっては家族ぐるみの付き合いになっている。同じ年でお互い「生活」と「音楽」が行ったり来たりしているあたり会うとそういう話をしてしまう。 今日の彼のライブは良いところも悪いところも含め彼らしいライブだった。不覚にも最後の暮らしの歌でうるっときてしまった。彼の今の気持ちが表れていてこういう歌を聴きたいなと思った。 今日一緒だったカーデンズも素晴らしいライブだった。 今日の3組はそれぞ
左上の角から放射状に流れる数本のライン。 右手からするりと逃がれた彼は重力からは逃れることができず、約1メートル分の重力加速度でもってコンクリートに体当たり。 スマホ歴三年。 初めての体験。 今のスマホに替えて一年。 本体代金完済まであと一年。 残念無念。 ショップに持っていくと「一万六千円くらいかかりますね」と無慈悲な一言。「あと一年逃げ切ります」 全て僕が悪い。 よく物を落とすくせに、 横着なくせに、 破損時の保険にも入っていたくせに、
dracaenaインターネットラジオ「まどろむ窓辺 第7夜」 2017年初の放送となる第7夜。久しぶりのメンバーの登場にいつもより番組を忘れてるようなトーク。最近の音楽事情も少し発言な夜。 川俣(vo.gt)の「バナナの安定感、洋梨の急上昇」ミツダレイナ(b)の「週末はサングリア」、小川(per)の「人の間違いを流せない男」ジョニー平井(gt)の「まどろんでた空白の期間」他。
子どもの頃、映画や漫画を見て、まるで登場人物の一人になったように恍惚とその世界に浸ることが多々あった。次に活躍するのは自分のような気がした。 でも、知識や経験が蓄積されていくとこれは現実じゃないということをわかった上で、あえてそのことを忘れて作品を観賞するようになる。現実とフィクションの区別のない子ども時代に素晴らしい作品に出会えることはなんて素敵なことだろうと思う。まあ、大人になったらなったで大人なりの楽しみ方はできるけど作品に対する純粋な接し方じゃない。 大概の大人
昔の話ですが、付添人として救急車に乗る機会がありました。 病院救急車という民間病院が所有している救急車ですが、サイレンも赤いランプもついていて、道路交通法でも緊急車両のカテゴリーに入るようです。 何故こういう知識を得たかというと救急車に乗りながら色々違和感を持ってしまいネットで調べたからです。 精神科病院に入院する予定の人を病院が施設に迎えに来て、施設から病院に搬送する時に僕も同行したのですが、その人には明らかに緊急性はありませんでした。身体の不調はなく、自傷や他害の
この日本で育児をするにあたってアンパンマンは避けることができない。 アンパンマンを知ることなく大人になることはほぼ不可能だというくらい、生活の至るところにアンパンマンがいる。 つまり、アンパンマンは日本中の子どもか共有する知識であってアンパンマンの世界の価値観は日本の平均的価値観になっていると思う。倫理観と言ってもいい。 前から気になっていたのはアンパンマンが最後はアンパンチという暴力によって問題解決をしているということ。これをちょっと考えてみた。 僕は問題解決手段