(ひとり)善(がりな)行(い)

 イスラム社会では"物乞い"は堂々としており、お金や食べ物をもらっても感謝の言葉は無いという。
 イスラムの教えでは貧しい者を助けることは善行であり、天国に近づくことになる。だから"物乞い"は善行するチャンスを与えてくれる存在としてとらえられているという。 
 
 今日、都会を歩いていると道端に一目でホームレス生活をしているとわかるおばあさんが座り込んでいた。全体的に汚れて灰色で靴下は破れている。精神疾患を患っているらしく、誰もいない方向にぶつぶつ言いながらよくわからない身振りをしている。僕はたまたま持っていたきゅうりをあげようかと迷いながらおばあさんを横目に通り過ぎた。歩きながら、数分後にその場所を再び通る予定だったので、その時にまだ居てたらきゅうりを渡そうと決めた。
 問題は、何と言って渡すか。僕は最近読んだばかりの『その島のひとたちはひとの話をきかない~精神科医自殺希少地域を行く~』という本のエピソードを思い出した。
 ある自殺の少ない地域で、困りごとがあったときに村の人たちは「○○しましょうか?」「手伝いましょうか?」などとは聞かずに「これを持っていきな」とか「送ってやるから乗っていきな」と有無を言わせず助けられることが多かったという。僕はこのノリで渡すことにした。
 おばあさんはまだ座っていた。僕は紙袋のきゅうり3本を手に持って、「おばちゃん、これ食べて」と言いながらおばあさんの手の上に3本のせた。おばあさんは独り言を中断し、僕の顔をぽかんと見上げて「きゅうり?」と呟いた。僕は「じゃ」と言って立ち去った。
 直後に僕は大事なことに気づいた。おばあさんが食べ物に困っていたかどうかを確認していなかったことに。おばあさんはホームレス状態ではあっても"物乞い"はしていなかった。困ってなければ善行でもなんでもない。お腹は空いてなかったかも知れないし、そもそもきゅうりが嫌いかも知れない、それにきゅうりには大した栄養も無く腹の足しにはなりにくい。
 僕は、都会でのホームレス生活だときゅうりのような野菜を食べる機会がなく、かえって貴重で美味しく感じるかも知れないと無理矢理納得することにした。(小川)

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