『ジョーカー』を観てつらくなった話

※映画『ジョーカー』のネタバレを含みます。

 話題の『ジョーカー』を観た。あんまり何かを書くつもりはなかったのだけど、今やっている書き物がちょっと詰まっているので気分転換に書く。いつもの通り、全文無料で読めますが、気の向いた人は100円投げ銭できます。

 『ジョーカー』についてネットを見れば、「社会的弱者」とか「格差社会」とか「悪のカリスマ」とかのワードが踊り、「胸糞悪い」とか「スッキリした」みたいな感想に溢れているし、それらを見て混乱している未見の人もいる。そりゃそうだろう。これ、その人の主観でガラリと印象が変わるように意図的に撮られている。

 映画を観る前、Twitterで『ジョーカー』=『天気の子』的な感想をいくつか見かけた。確かにきっかけは銃を手に入れたことだし、途中で気になってた女は消えちゃうし、最終的に社会的弱者が街を滅茶苦茶にするという点で同じだけども、自分は『ジョーカー』観終わった後、これに1番近い映画って、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』じゃねえの?と感じた。

 『ジョーカー』主人公のアーサーはコメディアンを目指すワナビだが、絶望的に才能が無い。『シャイニング』のジャックにしても、小説家を目指すワナビで、雪山のホテルで小説を書くものの進まない。そこから殺人に至るという筋書きは、夢追いに失敗したワナビの殺人劇という点で共通していると思う。

 そして主観の話。終盤、マレーの番組に出演したアーサーは、「主観」という言葉を複数回使っていたと思う。この通り『ジョーカー』は主観の物語で、主観によってかなり違う像を浮かび上がらせる構造になっている。

 『ジョーカー』はアーサー視点の物語だが、このアーサーの主観が全く信用できない。現実かのように描かれたと思ったら、後でアーサーの妄想・幻覚かのように描かれているシーンは複数あるし、アーサーの出生についても、客観的には養子であっても、母ペニーの主観ではトーマス・ウェインとの子であって、養子の書類はトーマスの圧力で捏造されたものだ。何が本当なのか、観客のこっちはわからない。

 あと、アーサーの殺人は、全て個人的な動機に基づいている。ウェイン産業の社員3人に対しては過剰防衛、母ペニーと同僚のランドル、司会者マレーについては復讐。最初に3人を殺した際、たまたま相手が大企業の社員だったから社会的に注目され「初めて目を向けられた」的に喜んでいるし、演説ぶってマレーを射殺した後も暴徒から持ち上げられ、いずれも個人的動機で行動したに過ぎないアーサーが、社会の一部からヒーローとして持ち上げられている構図。

 これ観た時、ちょっと辛くなった。薬を打ち切られ、普通を偽ることをやめ、ありのままのアーサーが、遂に悪の才能を開花させ社会に牙を剥くジョーカーとなる!……だったら良かったんだけど、そうはならない。アーサーはぶっちゃけ周囲に流されるだけの人。『ダークナイト』ジョーカーのような、人間を醜く争わせる悪の才能も無いんだよ……。

 でだ。この映画、『ジョーカー』ってタイトルだけど、アーサーがバットマンシリーズの著名ヴィランたるジョーカー本人かも怪しいと思う。あのラストシーンでアーサー主観の物語となると、「全て入院患者の妄想でした」って解釈も可能になってしまう。

 こうなると、つくづく持たざるもののアーサーは救われない。「悪の才能を開花させたハッピーエンド」と解釈している方も見かけたが、ぼくの主観ではそうは思えない。本当に大したことしてないんです、アーサー。もっとも、それが逆に危険というのは分かるんですが。

 なんか色々つらつら書いてたけど、気分転換なのでここまで。肝心の書き物は進んでいません。

All work and no play makes Jack a dull boy.

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