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ハエを滅した駐屯地司令の話

 先日こんなツイートがちょっとバズった。

 これは夏コミ新刊のネタを調べていた際に見つけたもので、元ネタは朝日新聞1957年6月18日東京朝刊の記事からだ。夏コミで『自衛隊 vs 動物』という自衛隊の害獣・害虫駆除についての同人誌を出すが、ハエ関連のエピソードは1965年の「夢の島焦土作戦」のみにしたので、この松戸駐屯地のエピソードは収録しなかった。ただ、ツイートの注目度は高かったので、この点だけnoteに少し詳しく書いてみたい。

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 さて、前述の朝日新聞記事の冒頭を以下に引用する。

毎日午前十時と午後三時、「蚊とハエは小さなアクマ」というハズんだ歌声がレコードから流れると、カーキ服の全員がハエたたきを手に立上る。会議も、ハエがとんでくれば、たたき落すまでは中止だ。魚屋さんのトラックが来れば、いやおうなしに薬をかけるーこれはここ二年間にほとんどハエをいなくした松戸市五香六実、陸上自衛隊松戸駐在部隊の話。

朝日新聞1957年6月18日東京朝刊

 魚屋のトラックに薬をぶっかけるのはいささかやり過ぎ感はあるが、記事に一切の注釈無く書かれていることから、当時は魚屋とハエが強い連想を引き起こす関係だったことも伺える。

 この記事で取り上げられているのは、駐屯地司令の工藤陸将補と工藤司令によるハエ対策の取り組みについてだ。記事にフルネームの記載はないが、当時の紳士録を確認したところ、この司令は需品補給処長を兼任する工藤友助氏と思われる。紳士録では一佐とあるのが気がかりだが……。(『大衆人事録 第20版 東日本篇』帝国秘密探偵社,1958)

 さて、今でこそ住宅地の只中にある松戸駐屯地。航空写真で見ても、新京成線を挟んだ東側に農地が少々あるくらいだ。

2019年6月時点の松戸駐屯地周辺
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス CKT20193-C13-29を筆者加工)

 ところが、工藤司令が着任した当時は豚小屋や牧場、肥料ダメなどが点在しており、冬でもハエが飛び回っていた状況だったと記事は伝えている。1955年の空中写真があったので同一地点を見てみよう。

1955年1月時点の松戸駐屯地周辺
(出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M68-33を筆者加工)

 当時は家もまばらの農村。最寄り駅の本山駅、くぬぎ山駅もこの写真が撮影された3ヶ月後に開業です。そんな1955年に工藤司令は松戸駐屯地に着任します。

 この工藤司令、松戸駐屯地のハエの多さにイラッときたのか、「中共でできたことが日本でできないわけがないじゃないか」とハエ退治を始めます。これは当時、中国で進められていたハエ駆除運動が「ハエ叩きを持つ周恩来首相」みたいに日本でも伝わっていました。後にスズメを根絶やしにして大変なことになったと言われている四害駆除運動は1958年の開始とWikipediaにはありますが、少なくとも中国におけるハエ駆除運動は1950年代中盤には日本でも知られていました。

 工藤司令は具体的にどのようなハエ駆除をしたのか。大まかに分けて、隊内向けと地域向けの施策をとっている。

 まず、隊内向けには、衛生班を組織して隊員向けに衛生講話を「うるさいほど」やり、月1回はドブさらい、1200名の隊員にハエ叩きを支給している。どれも低予算で実行可能なものだが、もとから予算がつかないことを見越して人海戦術と意識改革を中心にしていたようだ。

 次に地域向けには、駐屯地で映画上映会や音楽隊の演奏会を開いて住民を招き、そこでハエ撲滅への協力を呼びかけを行い、隊員は薬やゴミ箱に使える箱を配って歩いたという。

 隊内、地域ともに意識改革がその施策の根本にある。では、当時の日本人の衛生観念はどうだったのだろうか。今と比べると劣悪といっていいのは数々の証拠があるが、当時の自衛隊の認識が伺えるものがある。1956年に防衛庁陸上幕僚監部が発行した『統計からみた陸上自衛隊の赤痢』という冊子は、赤痢を自衛隊から追放することを目的としたものだ。この本の序にはこうある。

 非文明国の象徴たる赤痢が陸上自衛隊は勿論、日本中で年々多発していることは、寒心にたえない事実である。
 日本国民全体が、経済的に豊かになり、環境衛生が向上し、衛生的、文化的な快適な生活ができる世の中になれば、赤痢が自然になくなることは必定であろう。しかし、それはなかなか望めないことである。そこで今日の対策としては、国民の衛生知識の向上が期せられなねばならない。個人衛生、環境衛生について、細心の注意が払われるようになるからである。

『統計からみた陸上自衛隊の赤痢』防衛庁陸上幕僚監部,1956

 この序では日本の環境衛生が向上するのはずっと先の事なので、個人の衛生知識を高めることが当面は重要と説いている。この冊子に工藤司令が影響を受けたかは定かではないが、衛生意識改革は当時の平均的な日本人に必要なものだったと伺える。

 この他、日本航空による超低空での殺虫剤(BHC:有機塩素系殺虫剤)散布も行われている。

 これらの取り組みの結果、最初はバカにしていた隊員もハエの減少を実感し驚き、ハエ叩きを携行するようになったという。冒頭で紹介した「蚊とハエは小さなアクマ」のレコード放送が始まったのは1957年4月からだが、この頃には既にハエを駐屯地内でほとんど見ることはなくなり、駐屯地周辺からもハエがめっきり減ったと記事では伝えている。

 現在は環境衛生の向上に加え、日本人ひとりひとりの衛生意識も髙い。しかし、このような環境に至るまで、こうした多くの人々の努力があった事は記憶にとどめておくべきだろう。

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