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忘られぬひとことを、忘れる

いまでもたまに思い出す一言がある。
言われたのはもう、何年も前のこと。

言った本人はきっと、私が何年も後に思い出すなんて考えもせずに言い放ったのだろうけど。

その言葉は、気付かぬうちに私の柔らかい胸にさっくりと刺さっているくいのようで、もはや私の身体と一体になっているようだ。

思い出すためのきっかけは何なのか、私にはわからない。でも自然発生的に思い出す。

新宿駅構内で、麻布の和食屋で、学会へ向かう新幹線の中で、真夜中の病院で酔っ払いの頭を縫いながら、思い出す。

そのたびに、心に雨が降る。音の無い、霧のような雨。

いつかそれを忘れたいと思う。思うよ。でもそのくいを抜くと、抜いたあとにぽっかりと穴が空くような気もする。そんな穴ができたら困るから、抜かないでもまあいいかなと思ってきた。

言った本人も、とうの昔に忘れてるに違いない。もしかすると、私のことも忘れているかもしれない。

結婚をした。

結婚をしたら、過去の恋の足跡は全て消えるものだと思っていた。
でも当たり前だけど、そんなことはない。私という人間の時間は、ずっと続いているのだ。これまでのことすべての積み重ね(あるいは擦り減らし)がいまの私なのだ。そして過積載のトラックのように、多過ぎる積み荷を抱えてよたよたと進むしかないのだ。

トラックをもし、目的地までスムーズに行かせたいのなら。
これも当たり前。積み荷を降ろすのだ。積み荷を。

そう思いが至った私は、忘れることにした。あの忘られぬひとこと。


「あなたはきっと、幸せになれない」



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