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人は霊的なものが好きなように作られている

こんばんは。カモミールです。

最近、僕の中で考えているテーマがあります。それは「霊」についてです。今回の記事は考えベースでこうなのではないか?という僕が考えることをここに書かせていただけたらと思います。聖書と正確に照らし合わせているわけではないので、間違えていることもあるかもしれませんが、僕が今頭の中でこのようなことを考えているということを知り、その題材についてあなたはどう考えるか?という、一つの考えるテーマとして受け止めてもらえたらと思っております。

僕は最近、「霊」というものについて考えています。というのも、神は霊であることから(ヨハネ4:24)、神ということを考える上で「霊」を見過ごして考えることはできないと思っているからです。

僕は21歳の時に洗礼を受けクリスチャンとなりましたが、家族では僕1人がクリスチャンの初穂であり、周りも誰もクリスチャンではない生粋のノンクリスチャンの環境で育ちました。救われる1、2年前までキリスト教のことなどほとんど知らなかった僕は、それまで聖書に書いてある教えは全く関係のない環境で育っていたのです。

それなので、救われる前は様々な罪を犯してきました。占いや、オカルト、魔術、道教、また霊的なゲームやアニメ、音楽など様々な神から忌み嫌われることを好んでしてきました。救われた時、それらの行いから離れるようになり誠の神を礼拝するように変えられましたが、過去には確実に霊的なものに心惹かれる性質は僕の中にはあったのだと思います。

そして、あたりを見渡せば本当に霊的なものに私たちは溢れています。住んでいる場所にもあたりを見渡せば神社やお寺ばかり。それ以外にも、お地蔵さんが立っていたり、何かを祀っているような祭壇が道路傍にあったり。会社でも神道の祭壇を置いてあるところもありますし、これからの初詣でさまざまな飾り物を置いて商売繁盛を願ったりしています。また、占いなどはごくごく一般的に行われていますし、手相や風水も自然に受け入れている人がほとんど。漫画やアニメ、ゲームなどは多くが魔法の世界があるファンタジー作品ですし、霊的なものや悪霊を題材にしているのがほとんどです。また一見そうではないように見える、芸能界もサタンが住まう偶像礼拝の世界ですし、スポーツもその気質はあるのではないかと思うのです。つまり、無宗教と言われている日本でも、生きていれば霊的なものに溢れていると言っても過言ではないのです。

何故、多くの日本の人たちは自分たちが無宗教だと言いながら、自分たちは現代の世界で合理的に生き、科学で証明されたことを土台に生きエビデンスの世界で生きていると信じて疑わない彼らが、どうしてそんな根も歯もないような霊的なものに惹かれ、傾倒していくのでしょうか?

それはまさに、人は霊的なものが好きだと言わざるを得ないでしょう。科学的なものを土台に生きているといいつつも、どこかで目に見えないものに惹かれ、何か人を超越した目に見えない存在がいるということを心のどこかで気づき、その存在に傾倒したいと願っているのが人なのではないかと思うのです。また人はそのように作られていると言わざるを得ないような気がするのです。

そうであるなら、私たちの信じる聖書にあるエデンの園はまさに私たちの先祖だと確信を強めてくれるものだと思うのです。神は私たちを神と共に歩む存在として作られた。だからこそ、目に見えない「霊」の存在である神を心の奥底では願い求め、想像主である神を愛したいという内なる願いが溢れてきてしまっていると言わざるを得ないような気がするのです。

また、神に願い求め、その超自然的な圧倒的な存在を体感し、人はそれを礼拝したいと心から思っていると言わざるを得ないのです。でなければ、こんなに多くの人が願い事を願いに神社やお寺に出向き、何かわからないものに対して願い求め、そしてそれが叶えられる奇跡を待ち望むはずがないと思うのです。また、こんなに多くの人がファンタジー作品を見て、人の能力を超越した超自然現象が人と共にあるファンタジーに心惹かれ、その超自然的現象を仰ぎ見て目を光らせることなどあり得ないと思うのです。それはまるで、神のみわざを見て、礼拝したいと思う礼拝者の心そのものと言ってもいいような気がするのです。

そのように、私たちの先祖は罪を犯しサタンの支配下に人類を明け渡されてしまったおかげで、偽りの神を拝むことが私たちにとって容易いことになってしまったということはありますが、しかし、根本的なところでは、人は霊により頼み、礼拝せずにはいられない生き物として作られてるように思うのです。そして、これは言うまでもありませんが誠の神を拝むことが私たちの本当に本当の幸せになる道だと思うのです。

だからこそ福音というものが必要なのだとも思います。たくさんの人たちは、それが偶像を拝んでいるということは気づいていないのです。彼らは知らずに拝んでしまっているのです。そこに罪の意識すらなく、気づいていない。ただそれだけなのです。気付かぬうちに、偽りの神を礼拝してしまっているのです。だからこそ、本当の福音を伝える必要があり、偽りの神を拝んでいる状況から、正しい神を拝むことができるようにする必要があるのです。

それがまさに、真の幸せになる道です。そこに気づく必要があるのです。

だからこそ、福音を伝えましょう。横にいる人たちはわからないから、偽りの道に進んでしまっているのです。その魂を救い出し、正しい神を礼拝することで、本当の幸せ、祝福、勝利を得られるように導いていく必要がクリスチャンにはあると思うのです。

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