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まさに今がデータの世紀

エビです。
本日、日経COMEMOのトークセッションイベント「データの世紀-新時代のビジネスルール-」にご招待いただいたので、AIについて個人的な意見を書きます。

1.故人の人格再現AIを使いたい?

これは使いますね。
使いたくない理由がみえづらいくらいかもです。

どうしてかというと、私は、母がクリスチャン系で父がブッディスト系の家系に産まれたのですが、実家はお彼岸やお盆、クリスマスをやるんですね。もちろんご先祖様の命日には墓跡に花をたむけます。その際、お線香の香りに包まれながら、亡くなった祖母や祖父、生前の記憶を思い返して、感謝や現状報告をしたりするのですが、もし年に数回、親族の集まる場で、故人に想いを馳せて感謝する時間に、人格再現AIで会うと想像すると、きっと団欒が弾み、親族の絆が深まると思うからです。

誰しも、尊敬する人物を思い浮かべるときは「あの人だったら、こんな時きっとこう言うだろうな」とか、弱音を言いたくなったとき「けど、あの人はああいう風に思っていてくれたから、もう少しやってみよう」と心の支えになったことって、あると思うのです。

それが故人だと尚更、もはや想像したり思い返すしかないのですが、そこに例え再現であっても、機械学習のもとある一定のパターンに沿って応えてくれる技術と、一定のインタラクティブなコミュニケーションがあるとすると、挫けそうなとき、または念願を叶えたときなど、過去と現在の繋がりを大切に、未来を描けるのではないでしょうか。

2.自分の人格再現AIを使いたい?

これもYesです。
実際に使ってるひと、多いですね。

AIというとなんかものすごいものっていうイメージがあるとは思うのですが、実際はミニマルな学習だけさせた人工無能とか人工知能とか、学習させる情報量によって、その操作性って変わってくると思うのです。

その点、自分人格AIって結構身近で、私自身遊びで簡単なchatのやりとりをするだけの分身をつくったことがあるし、人工知能ラッパーをつくってLIVEをしていた友人もいて、にわかに開発してるひとも増えてきたような気がしています。

個人的には起業してはや10年、最近は日立さんの開発されてるIBM社のWatsonの対抗馬である経営AIに関心のあることもあって、様々な顔を持つ会社経営者やフリーランスなど、繁忙期は猫の手も借りたいというほどですが、そういった法人でも個人でもなんらかの事業を営んでいるひとこそ、使いたいのでは、と思っています。

1番使いたいのは、chatのやりとりや、スマートスピーカーなどのシーンかもしれません。普段同じことを何回も何人もの人に話してるな、って思う時があって、それはそれで個性的な反応をみられるので、嬉しいものでもあるのですが、ある一定数を超えると、大概その反応にもパターンがみられるような気がして、それを人海戦術で取り組むのって、人口減少の峠を下っている島国では、決して優先度が高くないように思うからです。

データ・ドリブン経営の価値があがってきているように、人格のひとつに構成される感情や認知機能は、その時々のフィジカルコンディションと相関が高いので、その点でも、AIによる機械的な判断は、ひとつの選択肢として、優良なのではないでしょうか。

私はコミュニケーションが好きなタイプなので、そこの手を抜きたい訳ではないのですが、定型文のようになってきてるやりとりについては、むしろ自分人格をもったAIがあるとオート化できて、いいのになあって思っています。

で、ブレインストーミングなど、ゼロからイチを産み出すクリエイティブな部分に注力したい。AIがひととやりとりしてる間に。

そうなると、ますますリアルで会う価値も高まるように思うんです。オフラインの対面で会うって、すごくないですか。もしかすると、人格再現AIの「中の人」とか呼ばれるのかもしれないけど、なんだかそれだけで、いまより特別な時間のように思える気がするのです。

10年くらい前、サイバーエージェント社の運営していたサービス「アメーバピグ」をやっていたことがあるのですが、自身がPCを見ていない間にも、分身であるアバターが動いたり、お野菜が育ったり、お部屋にお友達がやってきたりするんですよね。そこには、人格と言えるほどのものはまだなかったんですけど、自身の感覚の拡張だから、結構たのしいんです。

分身というと、忍術にも「分身の術」ってあるくらいなので、日本人とは相性の良い概念なんじゃないかなあ。SFの好きな私は、映画「AI」や「トランセンデス」のような世界観に、ある種の憧れのようなものを抱いているのかもしれませんが。笑

2045年のシンギュラリティに向けて、転移学習が容易になり、こういった人格再現AIの技術も、ますます育つといいなと思っています。

3.お題はこちら

今回のお題はこちらでした。

危惧することがあるとすると、それはひとの心です。
かつてのwinnyがそうだったように。例えばの話ですが、包丁はお料理に使うものですよね、だけど凶器として使うひともいる。だからと言って、包丁を無くそうとは思いません。

私の場合は、もしもひとに包丁を凶器として向けられたときは、服を全部脱ぐなりして、敵意のないことを示せば、またもとの包丁になると思っています。一定割合で、悪用するケースが発生するとは思いますが、それも予定調和のように思えます。

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