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【映】リアリティのダンス

『リアリティのダンス』を見に行く。公開が決まったときからずっと見たかったが、なかなか機会に恵まれなかった。いや、ほんとうにそうしようと思えば、ほかのことはすべてさしおいてでも、這ってでもお金も時間も命もなにもかもなげうってでも見に行けたはずなのに、やはりぼくはそういうものが惜しくて出し渋っていただけなのだ。

ということを映画を見ながらちょっぴり思い知らされる。日常はしょせん日常でしかなく、過去もいわゆる過去でしかない。色褪せた過去や退屈な日常は、イマジネーションさえあればいくらだって極彩色に塗り替えらえれる。そしてすなわちそれは、現実の未来をも変えることだと思った。未来の自分を作るのはいまの自分なんですよね。

1920年代のチリ。ウクライナから移住してきたユダヤ人の共産主義者の父と、母(この母親がとにかくユニークで、ふだんのセリフがすべてオペラの歌を歌うように話す)と少年の3人の家族の物語。ハランバンジョウ系。

─以下、内容にも触れています

はじめのうちは、ユダヤ人といバカにされじめられている少年を、なにごとも権威主義の父親が鍛え直すという話だったはずが、後半はこの父親が自らの権威と勇気を試すかのような奇妙な冒険の旅に出て、その父親の帰りを待つ母子というなんともヘンテコリンな方向転換をしていくのが面白い。

といっても、ストーリーは実質あってないようなものなので、こんなふうにあらすじを書いても意味がなく、そればかりかだんだんあっけにとられるような、このお父さんと一家の一大叙事詩のごとき様相に、ぼくは大いに感激してしまった。でもあとから冷静に考えると、なんだかどれもよくわからないエピソードなんだよなあ、宗教的でもあるし。

ただ、いえることは、映画のはじめの方で示されたお父さんの専制君主的な威厳は、冒険の旅で徐々に粉々に打ち砕かられ失墜していくということ。そのぶんだけ、お父さんは人間として(神の子として、といったほうがいいのかもしれないが)まっとうになってきたような気がします。それがちょうど、ヒトラーやスターリーンに象徴される軍事政権の台頭という時代背景と相前後するのが、痛烈な皮肉になっていると思った。

そして、お父さんという人間を最初から最後まで信じていたのがお母さん。たっぷりとした肉付きのいい大柄な女性で、おっぱいもびっくりするくらい大きい。台詞がぜんぶオペラという変わり者だけど、いかにも安心感を与える肝っ玉おっかさんなのだった。体格のいいマリア様ですね。

お母さんは実際、マリア様のように数々の奇跡を起こしては、お父さんや少年をピンチから救う。まあ結局いちばん頼りになるのはこのお母さんだったという、ひとつ教訓的な話だといってもいいかもしれません。監督のメッセージもそこにあったのかも。

ストーリー全体は大人になった少年の回想だから、過去の記憶はおそらくいい具合に捏造されていて、どこまでが現実の過去か、そうだったらよかったのになあという幻想の過去かは、作った本人にしかわからないのだろう。

彼らが暮らす小さな港町にやってきたサーカスの一団や、鉱山の採掘で使われたダイナマイトで手足をもがれた人たちや、感染症の病で隔離されているおおぜいの人々。台頭する軍事政権と迫害を受けるユダヤ人共産主義者、同性愛者。浜辺に大量に打ち上げられる死んだイワシの群れ。逸れに群がる貧しい群衆。あとよくわからない瞑想者とか、枚挙にいとまがないくらい不思議な人たちも登場する。まるで町全体がサーカスのテントみたいだ。

少年の服や靴の色、家々のドアや壁、装飾品、空と海の景色など、カラフルな色彩感覚が存分に楽しめてよかった。靴墨で全身真っ黒に塗って、それでみずから闇に溶けて闇の恐怖を克服するという発想とか、色がない透明人間になって全裸でバーの店内を歩くとかいうのは笑っちゃったけど。あと、いくどとなく目をそむけたくなるようなグロいシーンも出てくるし、人はよく死ぬが、ぼくはかたときもスクリーンから目が離せなかったですね。

見おわって震えるくらい感動した。「言葉にできないから歌にするんだよ」というのならまあわかるが、感想を書くのに「言葉にできない」というのはやっぱり逃げてるよなあ、と思う。けれども、まさにこういう映画を言葉にした途端、少年がかぶっていた金髪のかつらが、理髪師の掌の上で風に舞う砂塵のごとく消えてなくなったように、言葉もまたあっというまに幻になってしまうような気がします。それがすごく悔しい。

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