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ひとりで飲むということ

ぼくはお酒を飲まない人だった。正確に言うと飲めないと信じている人だった。本稿は、そんなぼくがひとりで夜の街で飲むようになった経緯について短くまとめようと思います。

1.

1999年の晩秋にぼくはバンコクに赴任した。国際線に乗るのも初めてだったぼくが降り立ったその街は、猥雑で下水くさい熱帯の街だった。プロジェクトの立ち上げ要員はぼくともうひとり、経験豊富な先輩と2人での赴任だった。
タイには3つの季節がある。Hot、Hotter、Hottestであるというのは、タイの人々自身がちょっとはにかんだ笑いを浮かべて言う定番の冗談だが、そんなこともあって、仕事が終わると先輩と連れ立ってスクンビット通りの日本料理屋で晩御飯を食べた後に、近くにあったバーに通うようになるのにそう時間はかからなかった。
ここでぼくはカクテルというお酒の楽しみ方を初めて知った。ファラン(白人のことをタイではこう呼ぶ)のオーナーが切り盛りをするそのバーでは、タイ人のバーテンダーが両手にシェーカーを持って手首を回転させることでシェークするというおよそ考え得る限り最悪の方法でカクテルを作っていたが、飲んでみるとそれらはひんやりしてとてもおいしかった。
ぼくらは次第にカクテルのレパートリーを増やしていった。普及を始めたばかりのインターネットで調べては、両手使いのバーテンダーに挑戦的な目つきでオーダーした。バーテンダーは、あいまいな、しかし、余裕の笑みを浮かべると奥へ引っ込み、自信満々に酒を調合して、そしてなぜか両手を使ってひとつのシェーカーを持ってシェークした。初めてアラスカを飲んだあたりで、徐々にバーテンダーはこちらに興味を持ってきたようだった。彼は小さなノートを持っていて、ごつい体に似合わないかわいらしいまるいタイ文字でレシピを書きつけているようだった。彼はそのノートを見せるとおまえたちはこれを飲むべきだと自信満々に様々なカクテルをすすめてくるようになった。彼のノートにあるカクテルはすべておいしかった。定番のシンガポールスリングにいくつものレシピがあって、飲み比べたりするのは面白かった。そのうちオーナーも寄ってくるようになり、ぼくの赴任期間が終わりに近づいた2001年の初めには、なにか不思議なお酒を入手してはぼくらに飲ませてくれるようになった。中東の酒だと言ってラベルのない瓶の酒を注がれたときはちょっと困ったが、のんでみるとただのコアントローだったりして、なかなかの策士だった。けれども、だましだまされ、それはそれで楽しい時間だったと思う。そしてぼくは任期が終わり日本に帰った。店は次にバンコクに行ったときには服屋になっていた。夢のように消えてしまったぼくらの桃源郷をおもって、ぼくと先輩は C'est la vie「人生」というカクテルを作った。

ジン:カンパリ=1:1
氷を入れたタンブラーに直接入れてステア
人生によってカンパリの量を調整する

甘くて苦く、くそ強い。とても人前に出せるカクテルではないけれど、バンコクに残った先輩の部屋でそのカクテルで乾杯した。


2.

日本に戻るとぼくは引っ越しをし、蒲田の近くに住んでいた。蒲田は猥雑で下水くさい温帯の街だった。バンコクから帰ってからのぼくは、たまにキャバクラで安いお酒を飲んでは酔っぱらっていた。そんなある日、京急蒲田に近い路地で一軒のバーを見つけた。ふらっとはいってみると薄暗い店内は満席に近く、シガーの煙が充満してよい雰囲気に思えた。季節は夏だっただろうか。なにかさっぱりしたものをと頼んだ気がする。出てきたのはスプモーニのカンパリをシャルトリューズに変えたものだった。「シャルモーニとでもよんでください」とバーテンダーは言った。飲むとちょっとほろ苦いグレープフルーツジュースの味にシャルトリューズの薬草臭い甘みがからんで大変にのみやすかった。バンコクでバーテンダーにチャレンジする悪癖がついていたぼくは「ちょっと甘いね」といった。バーテンダーはそうですか。と言った。

次にそのバーに行ったのはひと月くらい後だっただろうか。同じバーテンダーがいたので「シャルモーニください」と言ってみた。はいと答えると彼は手早く酒のビルドにかかった。どうぞと出されたカクテルを口に含むと甘みを感じないとても上品なシャルモーニが口中を滑り落ちていった。とてもびっくりしてこれは?と聞くと「え?ちょっと甘かったんですよね?」と彼は言った。これは面白いと思ったのでぼくはキャバクラに行くのをやめ、このバーに通うことにした。


3.

このバーは楽しい場所だった。酒は濃いめ。メニューは言わないと出てこない。特にどこにも主張していないがフードに力が入っていて、特にピクルスは絶品だった。
この店ではじめてぼくはジャズのライブというものを聴いた。ジャズはウイスキーにとてもあった。ぼくはウイスキーを飲み始めた。アイラモルトという島産のシングルモルトが好みになった。いったこともない島の、荒涼とした岩とヒースの丘に吹き付ける海風の味がするような気がした。だがぼくの肝臓はあまり処理能力が高くなく、一杯飲むと酔っぱらってしまうのが大変に悔しかった。

バンコクのバーでしたようにぼくは様々なカクテルを発注し、バーテンダーは面白がってそれにひねりを加えた。よくわからないオリジナルカクテルがいくつか出来上がった。かたいやつ(卵リキュールとチョコレートリキュールのカクテル・硬い)風邪にききそうなやつ(ショウガの効いたホットカクテル・風邪に効きそう)鉄っぽいやつ(なにか卵のしろみをつかったカクテル・鉄っぽい味がする)など、おいしいものも、まずいものもあった。そのころになると僕は毎週末をこのバーで過ごすようになっていた。常連さんとも仲良くなり、とても楽しかったことを覚えている。とある出来事があって疎遠になりかけた時も、ぼくが彼女に振られて傷心のときも、結局ぼくはこのバーに帰ってきて、そしていつもの酒を飲んだ。このバーは久しぶりに帰ってきても服屋になっていることはなかった。しかし、ぼくはふたたび引っ越しをしてねこと暮らし始め、その結果動線が蒲田から外れてしまい、いつのまにかこのバーに通うことはなくなってしまった。


Conclusion.

いつものバーで飲む酒は幸せかもしれない。しかし、人の動線が変わるとその場所はシフトしていく。バンコクのバーはなくなった。蒲田のバーはまだある。沖縄の那覇にある米兵がイェーガーマイスターをショットでひっかけて夜の街に出かけていくバーもまだある。石垣で30年物のシングルモルトウイスキーを飲ませてくれたバーはなくなった。
人生が長引くにつれて、ここで飲むのが幸せと思える場所が夢のように出現しては、夢のように消えていく。疫病の時が過ぎ去ったら、久々に蒲田のバーに顔を出してみようかなと思っている。ぼくのここで飲むしあわせはそこにまだあるだろうか。

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