食べるお布団ーーー食を語ることが野暮という感覚

https://youtu.be/FqGmUmfwr90

ちょうど昨日うとうとしながら聞いていたこの動画で語られていた日本の料亭文化と、正月に帰ってきた実家のテレビで流れていた芸能人格付けチェックと、千葉雅也が以前Twitterで格付けチェックがおもしろいと書いていたことがなんか自分の中で繋がった。

言語化できてない時に書きたくなるんだな。人に話すにはまだ未分化、未整理の情報が多いから。

発展が欲しいとなれば、適切な人に話した方がフィードバックが多いが、まだその前の段階。ふわっと考えるだけより、もうすこし具体的に言葉にしたい感覚。

日本の食文化は「わかる人だけわかればいい」

みたいなことが、はじめに貼った動画で語られていた。
料亭の料理の目的は人をつなぐためで、西洋のように批評すること自体のコミュニケーション快楽は無粋っていう価値観。
まあこれは日本人ならなんとなく納得できる感覚だと思う。
グルメ、という言葉の持つちょっとスノッブな感じ。
この動画の中では、贅沢と道楽の違いはなにかと言う質問があり、贅沢については何を言ってたか忘れたが、道楽は「道を楽しむ」と、数寄文化的な側面があると登壇者が言っていた。

よくある国境が他の国と地続きな西欧諸国と、島国の違いとして多文化とのコミュニケーションの仕方がある。日本の美徳とされる「いわなくてもわかってくれる」というのは、日本という土地条件だからこそ身分を関係なく国を通して培うことができるというもの。

食べるご飯について、ごちゃごちゃうんちくを垂れるというのが、ダサいという感覚は、味わったことがある人も多いのではないか。食レポを見て無粋だな、きちんと味わってないんじゃないか、黙って食えという文化。

とはいえ、テレビでうまい飯をただ味わっている絵を見させられるだけでは伝わらないから、説明は必要だ。映画の脚本などで説明しすぎるな、演技で見せろみたいなものがあるが、日常のテレビ番組の尺やテンポ感でそんなことはできない。調理過程やできあがった見た目の美しさは目で見てわかるが、火の入れ具合や下処理の素晴らしさなんてわからない。

わからないけど、わかりたい、食べているような気分になりたい、食べに行きたい、食べに行きたくなるような情報を得たい、というのが食をテレビで見る理由の大部分であろう。

語りすぎがなぜ野暮になるのか、という話。

いいライブでスマホを手にして録画すること、グッとくる風景や光景を見て写真を撮ること、それらは仏教的な執着と捉えると、確かにマインドレスだと思う。今この瞬間を味わえよ、ってやつ。

語ることも、語れないことでこぼされる物事が多いから両手を上げていいとは言えなかったりする。ただ、詩人は論理的には説明できない感覚を的確に言葉に閉じ込めたりできるので鑑賞の「語り」というくくりだけで話すのがちょっと微妙なんだと思う。

お布団を食べた日


僕が昔友達と二人で食べた、「お布団を食べているような感覚に落ちいった料理」について話す時、上に書いたような詩的な表現の良し悪しが出てくる。その料理を皿から取り食べた二人は、たぶん僕が言った「これ食べる布団やん!」みたいな発言に激しく同意をした。

確か東心斎橋でたまたま入った家庭的な台湾料理屋で食べたふわふわの卵焼きとかそういう系の料理だったと思う。ふわふわで、寒い冬に温かく、喉越しもよい。その料理を食べて僕たちはヌクヌクのお布団に入った気分になった。熱いお湯に入る感じではなく、コタツとかお布団って感じ。

これは批評にはなりえない。万人に伝わらないから。伝えようともしてないんだけど。その料理の美味しさを客観的に表すなら、とてもいい塩加減で、ふわふわで暖かい卵料理、くらいにしか言えない。食レポだとそのくらいだ。それでいいんだけど、それだと結構どこでも食えそうな感じだなとも思う。

食べるお布団、この表現が包み込むのはその時の環境や状況、腹の空き具合や気分まで入っている。だからこそ、マインドフルで、代替のきかない内容としての美しさがあると思う。

彦麿は食の批評家と言えるんじゃないかなと思う。彦麿は、多分その時の自分の気分とか状況でなく、真実はどうであれ、多くの人がそれを実際に目の前にして食べたらどうなるかを、伝えようとしていた。
「海の宝石箱や」は、コピーライトと同じようなセンスで楽しまれる。
きちんとした批評となると、さすがにキャッチコピーだけでは困るので中身が必要で、実際にはその食の成り立ちや文化の成立などを絡めて書かれるので詩的センスだけでは無理で実務的な能力が大事になってくる。

まったくもって輪郭がない話なので格付けの話にたどりつける自信がない。ので先に書いておこう。

格付けチェックの楽しみかた

①貴賤にかかわらず、「本物」を当てれるセンスがあるかだけが試されるゲームとしての楽しさ
②普段バイアスだらけで世の中を見ている「偽物」の化けの皮が捲れるのを見れる気持ちよさ
③普段の人間関係から一瞬離れて平等になれる気持ちよさ
④自分の「良い」基準と家族や世間の「良い」のズレを楽しむ

この4つがとりあえず思いついた。

この番組が嫌いな人というのは
A「正しさ」を押し付けられている気分になる
Bセンスに関してコンプレックスを持っている
C美を語るなんて野暮
D試されるのが嫌
だというところか。

僕は多分、AとCとDの理由で嫌いだったんだと思う。
千葉雅也が面白いって言ってたから見直してみると、僕は③と④が素敵だなと感じた。②は無粋だ。

親戚の老若男女が集まる正月に見るからこの番組は面白さを増す。
いろんな人の多層なレイヤーの欲望を満たし、コミュニケーションを発生させることができる、よくできた番組だと思う。好きな番組になることはそうそうなさそうだけど。

再び何かを語ることについて

こち亀で、極めたオタク同士は「あれ、いいよね」で通じ合うからもはや語らなくてもいいというのを読んだことがあって、なんかわかるなって読んだ時思った。

わかったような気になることと、きちんと言葉にすること、それの中間でまあ大体僕たちは生きている。

言語化も誰かとコミュニケーションを取りたいか、自分の頭を整理したいのかで内容が大きく変わってくる。

東裕之が言う「誤配」のことも話に含めてくると、変数が多すぎて話の落とし所が一人で書いているとわからない。

こう言う時は誰かと話すと有限性が発生するから良いな。

ということで、今年も一人で言語的に考えたり感覚的に考えたり、人と話して楽しくやっていきたいですね。





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