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ゲーム規制とゲーム依存について

昨日9月18日(金)、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」に出演させていただきました。出演コーナー自体は「番組の一週間を振り返る」というものでゲームの特集とかではなかったんですが、前日の木曜日にゲームジャーナリストのJiniさんが「香川県と中国のゲーム規制について」というテーマでお話されていたので、それをうけるかたちで僕の考えも少しお話させていただきました。

Jiniさんのお話の主旨は、「ゲームに全く害が無いとはいえないが、複数の問題を混同して規制の根拠としてはいけない」というもので、非常に意義ある内容です。大きく分けて以下の3つに切り分けられるというお話でした。

①暴力や性などの描写について →作品内の表現の問題
②射幸性や課金について →経済面での問題
③依存症やハマりすぎ →生活習慣や病気としての問題

僕の方ではこれをうけ、Jiniさんに切り分けていただいた各問題について、今後どのような対処をしていくべきか?という視点で(本当に短時間だったので超ざっくりですが)お話をさせていただきました。その内容に少し補足を加えつつ、文章としても残しておきたいと思います。

①の作品表現については、基本的にレーティグとゾーニングで対処するしかないと思っています。しかし逆に言えばそれで充分なはずで、レーティングとゾーニングを誰がどのようにおこなうのか?という課題は常にあるにせよ、「表現の多様性を確保しつつ社会での実害を回避する」という意味では(番組内で宇多丸さんもおっしゃっていましたが)これはゲームに限らず映画などを含むすべてのエンターテインメントで共通の課題でもあり、すでに手法もある程度確立されています。大事なのは「ゲーム」のようなジャンル全体で雑にくくらず、作品表現ごと個別に丁寧な議論ができる環境をつくることです。

②の経済面での問題については、政府がゲームメーカーに対し、課金上限や射幸性を組み込んだ課金システムについて法的な規制をかけていくべきだと思います。もちろんメーカー側は利益に直結する話題なので抵抗もするでしょうが、数値化しやすく、明確な基準が設けやすいトピックなので、落としどころは見いだせると思います。法的な手順をきちんと踏んでいくことが大前提ですし、業界側がその前に自主規制をしていく方向性もあるかもしれません。しかし、少なくともお客さんの側でどうにかできるような問題ではなく、香川県のゲーム規制は「パチンコの客に出玉率や交換率についての注意をしている」ようなもので、ナンセンスすぎます。

そして最後に、今回僕が一番お伝えしたかったのが③の「ゲーム依存」に関することでした。前述のとおり①②は国とゲーム業界が対話すべきことで、ユーザーに責を負わせるようなことではありませんが、③についてだけは消費者側で考えないといけない面も多いからです。

実際いま日本には100万人規模で「引きこもり」あるいはニートの状態にある方がいるそうで、そのなかで(程度はわかりませんが)一部の方々は「ゲーム依存」の状態にあることも想像できます。2019年にWHOがギャンブル依存などと同様の精神疾患として「ゲーム依存」を位置付けたことをうけ、「依存症治療」として引きこもりを解決しようとする動きも出てきました。しかし、僕個人はこの「治療」の傾向にかなりの疑問を感じています。

実際にそういったお子さんを持つ親御さんが、我が子を心配する気持ちはよくわかります。(僕も二児の父親ですので…)ですが、ここでちょっと立ち止まって考えて欲しいのは、「そのゲーム依存は、引きこもりの原因なのか、結果なのか?」という点です。

多くの引きこもりは、学校でのいじめ、職場での人間関係、家庭内不和などのソーシャルストレス、あるいはもっと直接的に失業や病気などの原因があって始まります。そして社会に居場所を無くした人が、いわば最後に残された居場所として、ゲームに避難することも多いはずです。この場合、ゲームは引きこもりの原因でなく、結果なのです。

そしてゲームの中でも特にオンラインゲームは、あまり馴染みのない方には一見バーチャルで怪しげなものに見えるかもしれませんが、ディスプレイとネットの向こうでは生身の他人がプレイヤーとして活動している「社会」です。そこで生まれる人間関係や、人間関係と呼べるほどでもないささやかな交流、あるいは交流など無くても「ただそこに他人が存在しているという実感」それ自体が、引きこもり状態にある方々にとって貴重な「社会との接点」なのです。

ですから、ゲーム依存への対処を考える際には
【ゲームが社会との唯一の接点である人もいる】
【ゲームにギリギリ命を救われている人もいる】
ということを、周囲の方々(特に親御さん)に知っておいていただきたいです。

番組内でも宇多丸さんが「(無理にゲームを奪うことは)危険ですらある」とおっしゃっていましたが、まさにその通りで、「杖をついて歩いている人」から「杖を取り上げれば自力で歩けるようになるはず」という発想は、非常に危険です。

しかもゲームはアルコールやギャンブルの依存と異なり、それ自体が直ちに健康や経済を破綻させるものではありません。なので、引きこもりに至るもっと根本的な問題の解決…例えば学校とか、職場とか、あるいは家庭内での居場所を確保していくことに、ある程度の時間をかけてじっくり取り組むことができます。もちろん「外部に他の原因があるかもしれない」という構造はアルコール依存やギャンブル依存についても同じなのですが、アルコールは健康上の被害、ギャンブルは経済的な被害が絶大すぎるので、依存状態と並行して問題解決にソフトランディングしていくことができないのです。だからこそ治療の過程で強制的な「引きはがし」をおこなう必要が出てくるわけで、その点がゲームとは決定的に異なります。

そういったわけで、ゲーム依存については、あまり安易に、劇的で性急な「治療法」を選ぶことはおすすめできません。それどころか、その「治療法」が決定的に親子の断絶を生むこともあります。お子さんからしたら文字通りの「生きがい」を奪われるわけですから、奪った相手を憎んでしまうケースがあるのも無理からぬことです。

それよりも、引きこもりでゲーム依存状態のお子さんがいたら、同じゲームを親御さんもプレイしてみたらどうでしょうか?もしかしたらそのゲームは、今お子さんが興味を持つことができている「世界で唯一のもの」かもしれません。しかし人間は精神的に弱りきってしまうと、何にも興味は持てなくなり、本当の無気力状態になります。つまり、周囲からは一見、非生産的なことに見えても、そのゲームへの興味はお子さんに残された気力の「ともしび」なのです。一緒にそのともしびを大事にまもれば、少しずつ大きな炎に育てていくことができるかもしれません。少なくとも、それをわざわざ奪うようなこと、ともしびを吹き消すようなことはしないであげてください。

そして前述したようにゲームは、社会との接点にもなります。オンラインゲームやボードゲームが明確に「コミュニケーションツール」の側面を持つだけでなく、1人で遊ぶゲームも、実際にはネット上にプレイヤー同士の情報交換やコミュニティがあり、趣味を通じた交流のチャンスがあります。もし親御さんが同じゲームを遊んでいれば、そこに親子のコミュニケーションの可能性が(それほど大きくはないかもしれませんが)残されているのです。それをわざわざ無にする必要がありますか?

なにせ昨夜の番組内では5分程度の話だったため、さすがに説明不足だったところをこの文章化にあたって補足させていただきました。結果的にちょっと長くなってしまいましたが、お伝えしたいことはシンプルです。

ゲーム依存は果たして問題の「原因」なのか「結果」なのかを考えてみてほしい。そして、ただでさえ傷ついている人をギリギリ支えてくれている大切なものを、周囲が無理解に奪ってはいけない。

「杖のせいで歩けなくなる訳ではない」

もちろんこれはゲームに限った話ではありません。本でも、映像作品でも、SNSでも同じです。だからこそゲームがあまり好きではない方にも、ここだけは理解していただけたら嬉しいです。

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