見出し画像

55歳の私が今できること #未来のためにできること

「大人になったら何になりたい?」そう聞かれ、小学1年生の私は黙った。「原爆に関する何かをしたい」とは、何だか照れて言えなかった。どんな仕事を意味するかも分からない。結局、私の本気は、大人になっても心の奥で出番を待つだけだった。

 私は歳を取っても、相変わらず、何をすべきかを模索している。医師として病院で働く傍ら、ある時は、広島で被曝した伯母の体験を自分なりに書くことに取り組んだ。93歳の伯母は、1945年8月6日に広島駅で原爆に遭い、体と心に傷を負った。伯母は80年経った今も、「あの光景がフラッシュバックするから」と、帰りたくても広島に戻れないでいる。

 ある時、収集した医学資料の中に、1945年に亡くなった被爆者の声を見つけた。解剖記録である。被曝直後、次々と人が亡くなる混乱の中、現場の医師らは解剖を行い、原因究明に努めた。「14 才男性。中学校でシャツ1枚でいた時、閃光を感じ机の下に潜った。下敷きになったが這い出し、火を避け、民家で水をもらい、夜に帰宅。‥4日後嘔吐と下痢、5日後に受診。‥2週間後、全身倦怠感‥」3週間後に亡くなり、臓器の様子が記録された。少年が一人で真っ暗な夜、ようやく自宅へ帰った光景が目の前に浮かぶ。茶色く変色したページに載った古い医療記録は、「未来の平和を守ってくれよ」という先人達からのメッセージだと感じた。この伝言を未来に繋げられるだろうか。

 52歳の私は病院勤務を辞め、カザフスタンにある日本大使館の医務官になった。不思議な縁だ。カザフスタンには旧ソ連が建設したセミパラチンスク核実験場がある。1949年から約40年間、456回も核実験が行われ、多くの被曝者が今も病気と戦う。驚くのは、この事実が日本や世界では知られていないことだ。「人が人に対して、体や心を何十年にもわたって傷つけ続けてよいはずはない」カザフスタン人の友人アケルケさんが言った。私の伯母と同じように被曝した祖母を持つその友人と、「カザフスタン人と日本人の同じ思いを一緒に発信したら世界にもっと伝わるかも。いつか一緒に本を書こうよ」と、未来を語った。

 齢55の私が、未来のために何かできるのか、自信はない。でも、子供の頃の本気が、今も心で熱を放つのを感じる。たとえ不可能でも、傷ついた人々の声を未来に響かせ、命や心の尊さを伝えるよう頑張ったなら、子供の頃の私はどんな表情を見せるのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?