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びっくりしタン!カザフスタン!     #4 セミパラチンスク核実験場(現地呼称ポリゴン)①

 これまで、#1首都アスタナについて、#2カザフスタンの歴史#3カザフスタンの人々の親日の理由について、皆さんと一緒におしゃべりをしてきた。今回のお話は、セミパラチンスク核実験場についてである。40年間で456回の核実験が行われた現在のアバイ州のセミパラチンスク(現在のセメイ。2007年に改名。現在アバイ州の州都)の話は、意外にも、日本人と大切な関わりがある。


かつての第4診療所 保健省の管轄を経て、現在はセメイ医科大学の放射線医学環境研究所

1.カザフスタンにどうして核実験場ができたの?

1945年8月に広島・長崎が一発の原子爆弾で壊滅状態になったニュースは、世界の人々に大きなショックを与えた。この時、カザフスタンはソ連の統治下にあり、カザフソビエト社会主義共和国と呼ばれていた。日本への原爆投下のニュースはソ連共産党党首スターリンStalinにとっても大きな衝撃であった。ただ、そのショックは、人々が核兵器の脅威を感じるものとは違い、スターリンにとっては、圧倒的な武力への所有欲へとつながった。投下されてまもなく、スターリンは秘密警察を統括する内務人民委員部(NKVD:KGBの前組織)の元長官ラヴレンチ―・べリヤLavrentiy Beriaを原子爆弾開発プロジェクトの監督に任じた。ベリヤは、民衆の粛清を大胆に繰り広げた人物の一人としても知られる。ソ連が自国で核兵器の生産を可能にするためには、核実験場の建設が必要であり、当初はカザフスタン国内に6ヶ所の核実験地が作られた。セミパラチンスク核実験場はその中で、最も活用された場所である。核兵器開発の責任者として選ばれたのは、物理学者イーゴリ・クルチャトフであった。クルチャトフの名前は、セミパラチンスク核実験場の研究都市名として現在も知られる。研究者の中には、後に反体制派のノーベル平和賞受賞者として知られるアンドレー・サハロフAndrey Sakharovもいた。
 1947年8月21日、旧ソ連はセミパラチンスク核実験場の場所を、旧ソ連の領地内ではなく、東カザフスタンのイルティシュ川の左側にあるセミパラチンスクとカラガンダ地域であるパブロダルの領土の合流点に決定した。ベリヤは、183,000㎢の広大なこのセミパラチンスク地域を「人がいない草原」として核実験場に選んだとのことだが、実際には、実験場から160Km圏内には、農業や放牧業を営む人々が100万人居住し、実験場の境界には複数の村があった。ベリヤらが、セミパラチンスクに住民がいたことを本当に認識していなかったかは、不明である。なお、当時のセミパラチンスク地域の住民は、ソ連の統治を最後まで拒んでいた地域であった。セミパラチンスク核実験場は、日本の四国よりも面積が広く、平らな草原の大地である。周囲に高い山のない地形によって、放射性物質が何百キロという距離まで飛散する原因となった。
 実験場の建設作業者は、1950年までで約70万人、そのうちの半数は強制労働収容所に収容されていた人々であった。当時国民は飢餓に苦しむほど生活に困窮していたが、一方で核開発に莫大な国家予算が投じられた。
カザフスタン全体で6か所に核実験場が作られたが、その大部分の実験がセミパラチンスク核実験場(通称ポリゴン)で実施され、1949年から1989年までの40年間、456回もの核実験が行われた。

2.最初の核実験は「長崎型原爆」の完全コピー
なんと被害は700km先まで!なぜ?


最初の核実験 1949年 
出典 GOV.KZ https://www.gov.kz/memleket/entities/mfa-kuala-lumpur/press/news/details/244973?lang=en


 セミパラチンスクで最初に行われた核実験は、アメリカのマンハッタン計画に参加した19歳の物理学者セオドア・ホールTheodore Hallが、ソ連に「長崎型原爆」の設計図の情報を流したことによって、1949年に同じ型の原子爆弾を製造、同年8月29日にセミパラチンスク核実験場で最初の大気圏内核実験を行なった。
驚くべきことに、長崎型爆弾Fatmanと同じ設計のこの原爆は、セミパラチンスクより北東に700kmもの長距離にわたり、狭い線上エリアとして、高線量の放射性物質を飛散させたことがデータより明らかになっている。これは、風向きが北東であったこと、この地域に山などの遮蔽がなく平原であったこと、爆発高度が低かったことなどが挙げられる。広島や長崎では高度500−600mで爆発したが、一方で、セミパラチンスクの大気圏内核実験は0−50mで行われた。低い高度の爆発が、大量の放射線物質が砂などの粒子とくっつき、気流に乗って遠方まで運ばれるという特性により、広島や長崎と比較すると被曝のエリアが非常に広範囲にわたった。別の角度から考察すると、広島や長崎の周辺に山などがなかった場合、そして強い風が一方向へ吹けば、その被害は広く他の地域にまで及んだ可能性があると考察される。地形に加えて、風や雨の状況、雲があるかなどの気象状況により、被曝の被害が大きく変化する。

セオドア・ホール ソ連のスパイとなった研究者
 ホールは、19歳でマンハッタン計画の一員となった天才とも言われる。1944年にロスアラモス国立研究所に勤務することになってすぐに、ソ連総領事館へ赴き、原爆の情報提供を自ら申し出たという。1951年にホールはFBIに尋問を受けるが、告発されることはなかった。ホールは1995年にスパイを行なったことを告白し、1999年にイギリスのケンブリッジで腎臓がんのため死去した。なお、原爆開発当時、ロスアラモス国立研究所には複数人のソ連のスパイが活動していたという。

3.セミパラチンスクの核実験

 ソ連は、715回の核実験のうち、456回をセミパラチンスク核実験場で行った。1949年から1962年まで、地表核実験(地表に穴を開ける)では25回、大気圏内核実験(空中で行う実験)で86回行っており、これはいずれも放射性物質が空中に飛散する実験であり、地表核実験では爆心地の土壌汚染は強い。1963年に部分的核実験禁止条約(PTBT)が制定され、それ以降、地下核実験と”汚い爆弾Dirty Bomb”が行われるようになったため、強烈な土壌汚染が人々の被曝に影響することになったと言える。(*核実験の種類については、以下参照)
1.大気圏内核実験
セミパラチンスク核実験場で行われた大気圏内核実験のエネルギーは、約6,4メガトンで、これは広島型爆弾の400個以上に等しい
特に、1949年8月29日(長崎型爆弾のコピー)、1951年9月24日、1953年8月12日の最初の水爆実験(480キロトン。広島型原爆の30倍のエネルギー)、1956年8月24日の4回の大気圏内核実験の人体への影響は非常に大きいもので、遠距離に飛散し、多くの被爆者を出した。
1956年の地表核実験では、爆心地から400kmも離れているウスチカメノゴルスクUst-Kamenogorskに大勢の急性放射性障害の患者を出し、住民をパニックにさせた。638人が入院施設に運ばれたが、しかし、この時もまだ核実験が行われていることは公表されなかった。
ただ、住民から不信の声が強くなることを恐れ、ソ連政府は初めて、1957年に”第4診療所Despensary No.4”という医療機関を作った。しかし当時は、被曝の影響のデータ収集としてのみ機能しており、診療にあたった形跡はない。また、放射線に関連するような病名をつけることを第4診療所の医師は禁止されていた。なお、1991年の核実験場閉鎖時には、第4診療所から住民から集めたデータのほとんどがモスクワに持ち去られた。一部の病理組織や奇形児などの標本は、第4診療所の現地の医師たちの努力によって一部を確保し、現在セメイ医科大学の解剖博物館で保管されている。
2.地下核実験と”汚い爆弾”Dirty Bomb実験
1963年以降は主に地下核実験が行われたが、実験には”失敗”も多かった。予定外に地表に露出し、放射性物質が飛散することもあり、遠方まで空中飛散することがあった。Dirty Bombの実験では、液体や粉末状の核物質を、迫撃砲で撃つなど、さまざまな形の放射線を使った兵器が試された。Dirty Bombの実験地では今も放射線線量が高い。さらに、地下核実験は土壌と地下水を長期間汚染した。植物は繁り、それを家畜が食べ、そのミルクや肉を人は食べることで、人体への内部被曝を起こす原因をなった。これによって、核実験のキノコ雲を見ることがなかった人たちも、病気がちとなり、原因不明の死を迎えるものがいた。

4.核実験の種類って、どんなものがあるの?


核実験の種類って、どんなものがあるのだろう?
 核実験には、空中で爆発する待機核実験のほかに、地下核実験、水中核実験、高高度核実験という種類があって、それぞれに違った多大な被害を生む。
大気圏内核実験は、空中で核兵器を爆発させるため、空中に放射性物質が飛散し、生物に影響をきたす。広島や長崎に投下された原爆は大気圏内に爆発させられたものである。
地下核実験は、地下で爆発し、土壌や地下水を汚染する。放射性物質が地下に長期間残り、長年に渡り植物や生物に影響を及ぼす。また、地下核実験は実験の失敗によって爆発の影響が地上にも及ぼされ、大気圏内へ放射性物質が飛散することも少なくない。1963年に部分的核実験禁止条約(PTBT)が一部の国々で制定されて以降、地下核実験が核実験の主流になったが、だからと言って核実験の住民の被害が減ったわけではないようだ。むしろ、長年、土壌汚染や地下水汚染が継続して、長期間低線量の人体への内部被曝を近隣住民は受けることになっているかもしれない。
水中核実験は、核爆発を水中へ爆発させる。水中への汚染が甚大となることが想定されるが、人体や生物への影響に関する正確なデータはほとんどない。主に潜水艦などを使っての実験となるが、小規模の核実験であればどこで行われても分かりにくい。1963年のPTBTで、水中核実験は禁止されたが、批准しない核保有国も少なくないことは事実である。2024年現在では、核保有の状況が変化していることにも留意するべきかもしれない。
高高度核実験とは、高度40km以上の高層大気圏での核実験で、ミサイルでの打ち上げを要する。これまで1960年前後にアメリカとソ連が高高度核実験をしており、当時でも大規模停電や人工衛星の破壊などが起きた。強力な電磁パルスを発生させ、電子機器や飛行機運航、衛星の破壊など、特に現代においては間接的に多大な人命への影響があると考えられる。
汚い爆弾(ダーティボム・Dirty Bomb)とは、放射性物質を散布する装置・兵器である。いわゆる小型爆弾もこれに入るが、飛行機から散布したり、エアロゾル状のものなど、さまざまなものが想定される。セミパラチンスク核実験場でも、ダーティボムの実験場があり、その場所には2024年現在でも放射線線量が高いため、フェンスで仕切られている。

*セミパラチンスク核実験場では、大気圏内核実験・地下核実験・汚い爆弾(Dirty Bomb)の実験が行われた。また、人工池を作るなどの地上核実験が行われた。

5.セミパラチンスクの住民の状況

 1949年から1963年までは主に大気圏内核実験が行われ、それ以降は、地下核実験やDirty Bomb実験が行われた。つまり、大気圏内核実験が行われた当初は、飛散した放射性物質の影響が大きかった。たとえば、体外に放射線物質が付着したり、呼吸によって放射性物質が肺や気管支に吸入され、くっつき、体内被曝をしたと考えられる。また、放射線物質が付着した食べ物を食べたり、被曝した家畜のミルクや肉を食べることで体内被曝をしたと考えられる。のちに行われた住民アンケートによると、「キノコ雲が上がった後に、水たまりが緑色に光って綺麗だった。子供だったので、水浴びをしたり、池で泳いだ」という証言もあり、高い線量の被曝をしたと推測される証言も多い。1963年以降は、キノコ雲を見ることはないが、地面が揺れることで、住民は異常を感じた。目に見えない土壌汚染は、畑の野菜や家畜から、人体への被曝を進めた。人々は汚染された地下水を飲んで生活していた。次第に、家族が病気になり、死に至り、自分もいつ病気になるかという不安の中で人々は暮らした。精神的に不安定になる住民も多かったが、1991年に核実験場が閉鎖されてもすぐには、「放射線」や「核実験」の情報が与えられたものはほとんどいなかった。

6.人体への影響

1950−1960年


幼児死亡率:当時のカザフスタンの他の地域と比較し、3,4~4倍
 100〜110人/1000人が死亡した。
先天異常:比較地域より多かった。
 神経系の異常(無脳児など)や顔面奇形が多い。
白血病:1945年と比べ、1948年では約2倍の患者数となった。

1960−1985年


幼児死亡率:1950−1960年の期間より減った。
がん死亡率
:他のカザフ地域よりも3,5倍高い。
食道がん、胃がん、小腸がんが目立つ。(内部被曝の影響か)
1980年代後半にはがん死亡率は低下したが、しかし、原爆実験開始以前のレベルには戻らない。
染色体異常:1962年から1975年までの間に250mSvを超える被曝をした420人検査をし、染色体異常の率が非常に上回った。
心血管系の異常
被曝者の中の40−49歳の心血管疾患の率は、比較対象グループの50−59歳の率に相当した。セミパラチンスクの被爆者の研究では、心疾患や脳梗塞・脳出血などの疾患頻度が非常に高い。(筆者注釈:広島や長崎のデータでは、当時、高血圧や心疾患の詳細、脳卒中率などは追跡しきれていない可能性がある。放射線被曝と心血管系との関連性は、今後の研究が要される
子供の時に被曝した女性による、出産児の先天異常率:
子供の時に被曝した女性が、出産すると、比較グループと比べて先天異常児の出産が多い。具体的には1000人の出生児のうち先天異常を持つ出生児は10−12人であった(比較対象グループでは、1000人中3−5人)
1985年以降、先天異常を持つ子供の率は下がったが、これは、子供の時に被曝した女性の数が減ったことによるものと考えられる。

1985ー2010年

がん発生率の上昇:3倍。被爆者10万人当たり420−430人のがん患者が見られた。比較グループは140−145人のがん発生率であった。
呼吸器系がんの率の上昇:食道がん、胃がんは減り、肺がんや気管支がん、乳がんが増えた。

広島・長崎の被爆者が残したデータの重要性

〜セミパラチンスクの被爆者のデータが示す「心血管疾患」「精神的疾患」「先天異常」〜
 

セミパラチンスクの研究論文やデータを読むと、広島と被爆者の残してくださったデータが、どんなにか重要であることを感じる。
実際、セミパラチンスクで1994年から被ばく線量をあちらこちらで危険を顧みずに自らの足で測定し、住民に放射線のリスクを指導した広島大学の星正治名誉教授は、広島で得たデータを基準に比較するため、あえて当時の広島で測定された方法を使って、セミパラチンスクで放射線線量を測定した。これにより、被害の状況がよくわかるようになった。
セミパラチンスクの被爆者と広島・長崎のデータには違いも見られる。
「心血管疾患がセミパラチンスクで多いこと」
「被曝と精神疾患の関連性」

これは単なる違いではないく、広島と長崎の被爆者のデータとして血圧や心臓疾患、脳血管疾患の検査が、時代的になされていなかった可能性があり、今後の研究として継続されるべき項目である。
精神科疾患も同じである。被曝者は、自殺率が高い。これが、家族の死や病気など、人々を環境的にうつ病になったという理由だけで説明がつくのか、いまだに不明な点はある。高い自殺率はこの地で大きな問題となっており、高知大学教授井上顕医師は、セメイ医科大学の専門家を指導しながら研究をしている。広島や長崎の被爆者の時代では、まだ被曝と精神科領域への関連性は注目度は低かった。今後の研究の継続が望まれる。
また、
「先天性疾患が多い。放射線と第2世代・第3世代への遺伝子異常の関連」
も、今後の研究課題である。セミパラチンスクのような、長期間の内部被曝を起こした地域例は世界的にない。
 ある放射線物理学者は私にいった。「医療の検査や治療で、レントゲンが欠かせないように、放射線は上手に使えば、人のためになるものである。しかし、使い方を間違えば、人の命を危うくする。だから、しっかりと放射線を勉強し、管理し、人の役に立つように、謙虚に使わなくてはならないのである」
冷静に、感情的になることなく、しっかりと被曝の影響を見つめることは、被曝を経験した日本で生まれた人として、忘れたくないことだなぁと思う。なぜって、日本の被爆者の方々も必死に残したデータがあるから。私は、被曝直後に亡くなられた被爆者の解剖記録を読んだことがある。最後に家族に会えなかった方も多くいたと思うが、被爆者の方が最後に残された体の記録は、彼らの声のように思える。彼らのために「平和のため」に使わなくてはいけないと思う。

参考文献
 Semipalatinsk nucler testing:the humanitarian consequesces NUPI Report(Report no.1,2014) Norwegian Institute of International Affaires,
Roman Vakulghuk and Kristian Gjerde with Tatiana Belikhina and Kazbek Apsalikov

  SEMIPALATINSK TEST SITE 2018, National Nuclear Center of The Republic of Kazakhstan Institute of Radiation Safety and Ecology

#続きは次回 、#5 セミパラチンスク核実験場②住民の声 をご覧ください。






 


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