コラム「異教徒と如何に相対すべきか」こばれ話(2):他法学派編

 以下は,前回の「コラム「異教徒と如何に相対すべきか」こばれ話(1):あの画像編」から,さらにこぼれてしまった話題である. 先のコラムでは,マーリク派以外での渉外規定の扱いについて,「後世の各法学派のテクストのうち、「ジハード」や「スィヤル」という章節のもとで議論されるようになった」としか言及していなかった.この点を少し補足しておく.

 ただし,留意すべき点として,筆者自身はハナフィー派とマーリク派の法学書の扱いには慣れているが,シャーフィイー派については大学院時代の講読ゼミくらいでしか,またハンバル派についてはほとんど触れたことがない.そのため後二者については,表層的な理解しか提示できないことを容赦いただきたい.またシーア派については,法学史について理解が及んでいないため今回は取り上げない.いずれ機会のあるときに,後輩の優秀なシーア派研究者に教えを乞わなければならないと感じている.


ハナフィー派

 ハナフィー派法学については,2人の法学者の著作に焦点を当てる.以下でも同じだが,法学者やその法学書の法制史上の位置付けについては,いずれ詳しく書くことになるだろうから,今回は簡潔な言及にとどめる.

カーサーニーʿAlāʾ al-Dīn al-Kāsānī(d. 1191)『諸聖法の整理に関する技芸の驚嘆Badāʾiʿ al-ṣanāʾiʿ fī tartīb al-sharāʾiʿ』

 まずはカーサーニーと彼の『諸聖法の整理に関する技芸の驚嘆』を挙げる.彼はサマルカンドにおけるハナフィー派法学隆盛の一役を担っていたサマルカンディーʿAlāʾ al-Dīn al-Samarqandī(d. 1144?)の弟子として,その学統を受け継いでいた.『技芸の驚嘆』は師の法学書の注釈の立場を取りながらも,実質独立した議論を展開している.またその構成は法概念/行為の定義から始まって,要件と効果,そこから細則に係る事例を挙げるといったように,イスラーム法学の理論的な完成段階を表している.しかしながら,他の著名な法学者とは異なって,彼の著作とその議論が後世の注釈によって受け継がれていくことはなかった.
 カーサーニーの『技芸の驚嘆』は,スィヤル章で,戦争の土地への商売についての言及する箇所はある(Kāsānī 2003: 9:401-3).前半は商人が戦争の土地の人々との取引で扱う品目について,禁制品の分類をする.後半はクルアーンの持ち出しについて取り上げている.いずれもコラムで紹介した議論と同じ内容である.そのほかスィヤル章では,イスラームの土地と戦争の土地の往来によって生じる法行為の効果や法的地位の相違について議論されている(Kāsānī 2003: 418-25).ただし,2つの土地が本質的に異なる法適用を想定している以上,それはスィヤルといった戦時を想定した議論に限定されず,『技芸と驚嘆』全体に——それは民事法や刑事法,身分法に及ぶが——この渉外規定のトピックは散見される.

イブン・ヌジャイムIbn Nujaym(d. 1563)『清明なる海al-Baḥr al-rāʾiq』

 ハナフィー派法学のもう1組は,イブン・ヌジャイムと彼の『清明なる海』である.彼の紹介には,「後期ハナフィー派法学者late Ḥanafīs」という表象を説明しなければならない.これについて詳しくは,Ayoub, Samy A. 2019. Law, Empire, and the Sultan: Ottoman Imperial Authority and Late Hanafi Jurisprudence. Oxford: Oxford University Pressを参照されたい.ざっくりとした理解としては,後期ハナフィー派法学者とは主として,13世紀以降のハナフィー派の学統に自らが連なると自認する法学者らを指す(Ayoub 2019: 9-11).研究史上,この集団はオスマン朝におけるハナフィー派法学の発展の文脈で研究の対象となってきた.イブン・ヌジャイムはそうした後期ハナフィー派法学者の「封緘khātim」と評される(Farrūkh 1988: 77).「封緘」といえば預言者ムハンマドの封緘という表現が有名であるが,ここではイブン・ヌジャイム以降に,彼を凌ぐ法学者は現れなかったという意味であろう.事実,17世紀以降のオスマン朝法学者は,彼の著作やその学説を参照するようになった.
 彼の『清明なる海al-Baḥr al-rāʾiq』は,カーサーニーの法学書とは別の系統に属している.というのも,カーサーニーが生きた12世紀の中央アジアでは,ブハラとサマルカンドの学統を結集させた法学者,マルギナーニーJamal al-Dīn al-Marghinānī(d. 1197)が法学書『ヒダーヤal-Hidāya』を上梓した.この法学書は『技芸の驚嘆』とは異なって,13世紀以降ハナフィー派法学の顔となるテクストとして,数多くの注釈がおこなわれた.『清明なる海』は,この『ヒダーヤ』の議論を発展させたハーフィズ・アル=ディーン・アル=ナサフィーḤāfiz al-Dīn al-Nasafī(d. 1310)による『嚙砕の至宝Kanz al-daqāʾiq』に対する注釈である.
 『清明なる海』での渉外規定の構成は,『技芸の驚嘆』と大きくは変わらない.スィヤル章においてジハードの遂行や戦利品の分割に関する規定と並行して,アマーンamān(安全保障協定)の効果や,改宗による法的地位の変動とそれにともなう法行為の効果などについての議論が展開されている.ただし同章では,カーサーニーでは見られた戦争の地への商売に関するトピックは見当たらず,クルアーンの持ち出しを忌避する議論だけが受け継がれている(Ibn Nujaym 1997: 5:83).その他売買や刑事に係る渉外規定に関しては,こちらはカーサーニー同様,法学書中に散らばっている.

シャーフィイー派

 シャーフィイー派法学からは,マーワルディーAbū al-Ḥasan al-Māwardī(d. 1058)とガザーリーAbū al-Ḥāmid al-Ghazālī(d. 1333)の法学書を確認する.一方は,イスラーム世界の政治思想を,他方は哲学,神秘主義を代表する人物であると同時に,大部の法学書を上梓し,それはシャーフィイー派法学者の間で読み継がれてきた.シャーフィイー派法学の展開について,詳しいことは柳橋博之(2014)「ジュワイニー『ニハーヤ』:シャーフィイー派法学の展開」柳橋博之編『イスラーム知の遺産』東京大学出版会に譲るとして,ここでも2人の法学者とその著作を簡単に紹介しながら,渉外規定の扱いをみていく.

マーワルディー『大包括al-Ḥāwī al-kabīr』

 マーワルディーといえば,本邦でも湯川武訳で知られている『統治の諸規則al-Aḥkām al-sulṭanīya wa-al-wilāyat al-dīnīya』(慶應義塾大学出版会,2006)によって,アッバース朝カリフ権力の没落と地方勢力の勃興の現実の間で,イスラーム法にもとづく統治理論を大成させた人物である.一方で彼の実定法テクスト『大包括』は,学祖シャーフィイーMuḥammad ibn Idrīs al-Shāfiʿī(d. 820)の学説を権威とする法学派の伝統をなぞった著作である.具体的には,シャーフィイーの学説は,彼の最も有名な弟子ムザニーAbū Ibrāhīm Ismāʿīl ibn Yaḥyā al-Muzanī(d. 877-8)の『提要al-Mukhtaṣar』によってまとめられ,『大包括』はその『提要』の注釈という位置づけである.しかし,これらのテクストの関係には注意が必要で,『提要』であれ『大包括』であれ,先行するテクストからはかなり独立した内容を有している.そこには師弟関係や法学派といったまとまり意識はあるものの,それらに忠実であることとは同義ではない.
 さて,『大包括』に現れる渉外規定は,スィヤルとジハードの実践に関する議論に続くジズヤ章が主な舞台となる.マーワルディーは戦争の土地の人々であっても,生命や財産の安全が保障される法規定として,停戦hudna,和平ʿahd,アマーン,ズィンマ契約ʿaqd al-dhimmaをまず挙げる(Māwardī 1994: 14:296-8).前三者については,期間の制限面で学説の異同はあるものの,戦争の土地との臨時規定として,そしてズィンマ契約はイスラームの土地に編入された人々のための恒常規定として理解されている.その上で,個別の議論として,上記規定の要件や効果についてとりあげながら,異教徒との生活レベルでの関わりの中で発生する法学問題について一定の学説を提示している(たとえばMāwardī 1994: 14:320-5).その他細かい議論については,ハナフィー派同様,法学書中に散見される.

ガザーリー『中庸al-Wasīṭ fī al-madhhab』

 事情はガザーリーでもおおよそ同じである.ニザーミーヤ学院で教鞭を執り,哲学や神学などイスラーム思想に多くの功績を残した彼の法学書は3部,『明解al-Basīṭ fī al-madhhab』と『中庸』,『凝集al-Wajīz fī fiqh imām al-Shāfiʿī』がある.3つは順に執筆され,それぞれ後者が前者の要諦に位置づけられる.最近までに『中庸』と『凝集』の校訂が出版されていたが,2023年後半にUAEサールジャのイブン・アル=アラビー研究所から『明解』の校訂(全13巻)が出版された(https://x.gd/wgWBO).めでたくこれでガザーリーの議論をオリジナルまで辿ることができるようになったわけである.とはいえ『明解』もまた,彼の師ジュワイニーʿAbd al-Malik ibn Yūsuf al-Juwaynī(d. 1085)の法学書『ニハーヤNihāyat al-maṭlab fī dirāyat al-madhhab fī furūʿ al-madhhab al-Shāfiʿī』の要約として,シャーフィイー派法学の大きな伝統の中に位置づけられる.そしてこの『ニハーヤ』は,ムザニーの『提要』の注釈として——実質的には独立した著作ではあるが——上梓された.ガザーリーの議論は,『凝集』に収録されたものが後世に受け継がれた.詳細については,下の画像のように『ニハーヤ』の校訂版の序論で解説されている.

Dīb, ʿAbd al-ʿAzīz Muḥammad al-. 2007. “al-Muqaddimāt” in: Kitāb Nihāyat al-Maṭlab fī Dirāyat al-Madhhab (by Abū al-Maʿālī al-Juwaynī). 20 vols. Jeddah: Dār al-Minhāj. 225.

 残念ながら筆者はまだ,『明解』を手に入れられていない.そこでできることとして,彼の『中庸』から渉外規定の議論を追うこととする.ガザーリーもマーワルディー同様,ジハード章と続くジズヤと停戦章で異教徒の安全を保障する契約として,アマーンとズィンマ契約,停戦と類型を提示し,主にズィンマ契約に関する箇所で,異教徒がイスラームの土地で従うべき規定を紹介している(たとえばGhazālī 1997: 7:80-6).両者の議論に共通するのは,イスラーム教徒と異教徒の間の交易が必ずしも議論の前提となっていないこと,そして渉外規定が戦争規定に対する一種の例外規定として機能し,それによって,本来なら改宗すべきところに暫定的な措置を設けるかたちで,異教徒の行動を制限することに焦点が当てられていることである.この点は,ハナフィー派法学のようにスィヤルやジハード関連の章節で議論を提示していても,シャーフィイーは法学ではその内実が異なっている.

ハンバル派

 ハンバル派の法学書については,筆者の不勉強もあり,最低限抑えておくべき法学書を挙げて,渉外規定を確認することにする.ハンバル派法学の発展については,中田考(2003)『イスラーム法の存立構造:ハンバリー派フィクフ神事編』ナカニシヤ出版が,文献解題とともにまとめてくれている.

イブン・クダーマMuwaffaq al-Dīn Ibn Qudāma(d. 1223)『大全al-Mughnī』

 それによれば,ハンバル派についてまず参照すべきは,イブン・クダーマの著作である.彼は学習者の段階にあわせていくつかの法学書を残しているが,そのうち最も重要なものが『大全』である(中田 2003: 68-69).ハンバル派法学の祖アフマド・ブン・ハンバルAḥmad ibn Ḥanbal(d. 855)は自らの学説を著作のかたちで残していない.彼の2人の息子によってその学説が『設例集al-Masāʾil』として編纂されたが,他にも多くの弟子が独自に彼の学説を伝えている.このような状況下からイブン・クダーマに至る,ハンバル派法学の学統を確認しておこう.ハンバル派法学の基礎を築いたのは,アブー・バクル・アル=ハッラールAbū Bakr al-Khallāl(d. 923)と彼の『アフマドの学知の集成al-Jāmiʿ li-ʿulūm al-Imām Aḥmad』とされる。さらに彼の弟子ヒラキーAbū al-Ḥusayn al-Khiraqī(d. 945-6)は,『提要』によって学祖の学説をまとめあげた.彼の『提要』は300以上の注釈が書かれ,その中で最も有名な注釈がイブン・クダーマの『大全』である.注釈とは銘打ってはいるが,その構成は他法学派の学説とアフマド・ブン・ハンバルの学説を比較しながら,後者の優位性を擁護するねらいがあった(中田 2003: 68).
 『大全』での渉外規定は,学説比較の構成上,ハナフィー派やシャーフィイー派と大きく異なる位置づけはされていない.ジハード章で異教徒との戦時規定が考察された後,ジズヤ章にてジズヤ賦課の要件や徴収方法について議論される過程で,平時の渉外規定が設例を通して個別に考察される.その意味で,マーワルディーやガザーリーほど理路整然とした議論展開でなく,ズィンミーの人々の建築物に係る制限や,彼ら/彼女らのクルアーンの売買といった,具体的な事例を通して学説の当否が検討されている(Ibn Qudāma 1997: 13:242, 250-1).

おわりに

 結論と言うことのほどはない.冒頭にも述べたように,スンナ派イスラーム法学では,異教徒との渉外規定については,戦時と平時それぞれの規定という区分とパラレルに,法学書においてジハードorスィヤルとジズヤの章節で当該議論が展開されてきたというだけのことである.しかし同じ枠組みであっても,そこで想定されている異教徒関係には違いはあった.マーリク派が交易という具体的な状況に即した議論を発展させたとしたら,その対極,すなわち異教徒関係をより理論的に分析したのはシャーフィイー派の議論であった.ハナフィー派は学派の中でも理論的な構成のカーサーニーでさえ,具体的な渉外規定に紙幅を割いているところをみると,マーリク派の認識に近いのだろう.ハンバル派については,今回取り上げた法学書の構成が特殊なだけに傾向に言及することはできない.いずれにしても,法学書の記述がそのまま現実にあった異教徒関係を反映していたと断じるつもりはない.もちろんその一部において,法学者やその学派が置かれた環境が議論の形成に一役買っている可能性もあるかもしれない.しかし,法学書を読むときに前提とすべきは,そこに記述されるのは「あった」現実よりも,とあるフィルターを通して描かれた「あるべき」現実であるという点である.その点で,渉外規定の議論の異同は,それを著した法学者の自らの宗教や異教徒との関係理解という点で,興味深いものである.


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