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アレクサ、看取って⑤ 笑う犬とうさぎの冒険


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犬が目をしばたいた。

二度、三度。

ぼくの前説で苦笑が満ちた会場に、山本の計略が張り巡らされた。闇に閉ざされていた戦場に高らかに閃光弾が上がる。荒野。隘路。死角。布陣。伏兵。ぬかりなく、露わに照らされる。

医療情報戦略には何が必要で、何がすでに行われていて、何が効果を発揮していて、何が足りないのか。

世界のロジックがネオンのように可視化される。


情報戦においては発信者だけではなく、中間にいてハブとなる存在が重要であること。

発信者の人柄によっては、「お前のいうことならきっとみんなの役に立つんだろ、俺まだ読んでないけどRTしとくわw」的な拡散があり得るということ。

情報に発信者の人間性をスパイスすることの効果。


山本の論説に、会場の人々の首が次々と落下した。うなずきすぎてチョウツガイの部分が劣化したのだろう。かわいそうであった。ぼくはそうなることがわかっていたから、あらかじめ首から上を空に浮遊させていたので、問題なかった。

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( 'ㅅ')  (図解)


ここまで美しい分析をしておきながら、山本は、自らが俯瞰のポジションに留まることをよしとしない。

最前線でレーザーを打ちまくって無双をキメる大将軍。あくまで、実践。


会場の熱気を実況するハッシュタグ #やさしい医療情報 には、参加者の感動があふれていた。まとめておいたから時間に余裕がある人は見てみるといい。

忠告する。上のまとめを見るのは、時間に余裕がある人に限る。午前のひとつやふたつ、簡単に溶けるから気を付けろ。



ここでカメラを、犬に向けるとしよう。

編集ができる大型犬。

和名「たられば」。

学名 cottofogeano comaenumpositionum tararebae(コトホギノ・コマイヌポジノ・タラレバェ )である。

彼はこの日の狂言回しだ。

しぬこさん、深爪さんあたりを除けば、おそらく最強の個人アカウントのひとりだろう。ツイッターで異常な数のフォロワー数を集めるアカウントの名前はどことなく全員狂っていておもしろい。

よくいわれることだがこの犬は、自分が好きだと思ったものを言語化する能力が図抜けている。ツイッタラーというものはたいていどこか(いろんな意味で)抜けているものだが、彼の場合は言祝ぎの能力において群衆から頭一つ抜けていると言っていい。


山本の講演を受けて、犬は、この日ほとんど唯一と言っていい「実況ではない、回想ツイート」をした。

けいゆう先生、すごいでしょう。
すごいんですよこの人。
で、こういう先生が集まってヤンデル先生が呼ばれて、(ヤンデルから)

「会場の予約とか椅子並べを先生たちが自分たちでやってるんだけど…。。これちょっとどうにかならないかな…。」

と相談されたわけです。マジかよと思いましたよそりゃ。

彼なりに、イベントにストーリーを添加してくれたのだろう。ありがたい。ただ、実際にはぼくはほとんど何もしていない。

山本(健人)、堀向(健太)、大塚(ブルーライト軽減メガネ)。

ぼくが勝手にオリジナル3と呼んで辱めている、 #SNS医療のカタチ の立ち上げメンバーたちこそが、今回の話のきっかけを作った。


彼らが医療情報を啓蒙するイベントを開催するにあたり、あまりに自腹ばかり切っているからぼくはゲラゲラ笑った。そしたらぼくの笑い声に対して人一倍びんかんな獣の耳を持つ大型犬がこっちに突進してきてぼくを跳ね飛ばした、というのが事の真相だ。犬はものすごい勢いで走り回って、朝日新聞ウィズニュースを加えてワンワン戻ってきた。

ぼくは犬と仲良くケンカしながら、なんとなくオリジナル3の出るイベントを気にしたり、ときにすっぽかしたりしつつ、今回はこうして、渋谷ヒカリエで彼らと一緒にしゃべることになった。ただ、最初からこの3名に完全に同調していたわけではない。それにこの3名いずれも、少しずつスタイルが異なる。ぼくらは愚連隊ではないのだ。

ぼくはツイッターにそこそこ長いこといるが、彼らの前にも多くの医療者達が集まって医療情報をまとめたり発信したり、ブログを書いたりニセ医学の発信者と戦ったりしているのを見ていた。

このnoteでもすでに触れた筋肉番付朽木(リンク先動画閲覧注意)もその一人だし、カメラ目線大須賀もまた彼らとは異なった活動を続けていた。アイコンの写真が未だに安定しない中山祐次郎、逆にアイコンの写真がかっこよすぎて誰が撮ったのかと思ったらやっぱり幡野広志だった西智弘。数え切れないくらい多くの医師たちが存在感を発揮していた。今こうして思い浮かべている人たちをすべてツイッターのアイコンによって記憶しているあたり、ぼくの人間性の一番やばい部分を無意識に露出した気がするが、その話をすると長くなるのでここでは深掘りしない。

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今はわりとぼくと年が近い人たちを中心に名前を挙げた。世代を上下に拡張すれば、ぼくが把握しているだけでも3ケタを超える医療者達がさまざまに情報発信をしている。医療情報発信においては物量と多様性がものをいうと考えている。あまり狭くまとまらないほうがいいだろう。以上は、確固たる信念があって言っているわけではなくて、なんというか、勘であるが。

医療情報が世の中に満ちていく過程では、誰か圧倒的なカリスマがどうこうするよりも、手数が豊富で、バラエティに富んでいることが重要であると思っている。無数の発信者たちがネットワークでゆるくつながりながら、全体として集合知性を形成するのがいいんじゃないか。それが理想だよな。


(・・・・・・今の太字の部分についても、あとで一段深く考えなければいけない。ああ、やることが多い。楽しいね。)


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朝の大塚、午前の山本。脳内に広大な風景を見せてくれる二人の講演は、しかし、ぼくの脳内にいくつかの針も打ち込んでいた。まだ考えるべきなのか。もっと探っていくべきなのか。

足を組み直して前を向く。そこに黄色い声援(カラーコードでいうと#996600くらい)が飛んだ。

次元の狭間をこじあけて、ほむほむ先生が渋谷に降り立った。

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笑顔に邪気がなさすぎる。

はじけるレモンの香りかよってくらい明るい。

これがにじみ出る人間性の差か。

ぼくは歯がみして悔しがった。

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堀向健太は声がやさしい。 #やさしい医療情報 というタグにもっともふさわしい第一印象を持つ男だ。


ちょっと話がずれるけれど。

「第一印象」というのは、ある人の心に踏み込もうとする際に入口の役割を果たす。第一印象がやわらかい人は、入口がユーザーフレンドリーでバリアフリーなのだ。だからすっと入っていきやすい。自然と、コアの部分に触れやすくもなる。UI(ユーザーインターフェース)が洗練されているサービスは長く深く愛される。

ただし、アプリやウェブサービスの場合と違い、人間の第一印象というのは決してその人自身の入口には留まらないようにも思う。堀向の第一印象は、ぼくに、(医者ってこういう人たちだったっけ・・・・・・)と、過去に出会った医者たちの記憶をさかのぼるきっかけをもたらす。彼との出会いを通じてぼくは、過去に蓄積してきた、彼以外の世界と交わったときの記憶をなんども再構成する。そして、医者全体をそれまでよりもほんのちょっとだけ好きにさせてくれる。

きっと人の第一印象とは、彼我双方の扉を開くものなのだ。堀向は自らの胸襟を開くのみならず、出会って彼の話を聞いているぼくら聴衆の心の扉をやさしく開く力を持っている。

そうか、だから、あの犬も、ツイッターのプロフィール欄に
「だいたいにこにこしています。」
と書くんだな。今さらだが、肌で理解する。

やわらかい声と表情の人と接するときのぼくは、心の中に宝石のいっぱい入った箱がしまってあることを思い出す。箱をそっと両手で持って、トントン、ゆさゆさ、やさしく左右に揺する。カランカランと宝石たちが踊る。集めたまま放っておいた宝石たちが、楽しそうに揺れて、キラキラと輝く。

だまってしまってあった価値に、気づく。


ぼくはいつしか、堀向に心酔した。彼のツイッターアイコンを見ながら、(ほむほむ先生がうさぎのアイコンを使っているなら、ぼくはもう、講演でうさぎの耳をかぶるのをやめよう・・・・・・きっと、聴衆も、うさ耳ほむほむを見たいはずだ。)と考えて、それ以来、講演ではシェリーメイの耳を頭に乗っけることにした。うさぎは卒業したのである。

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堀向は第一印象を裏切らない、終始やさしいペースで講演。

しかしその内容は骨太だ。繰り返される「出典」「引用」。信じられる医療情報かどうかを見極めるためのコツは、とにかく、そこに出典が明記されているかどうか。

言うほど簡単ではない。医学の素人にとって、紙媒体、ネット媒体に溢れる玉石混淆の記事の中に出典を探し求める作業は骨が折れる。しかし堀向はそこを譲らないのだ。聴衆は何度も何度もメモを取る。彼の笑顔とやさしい声を心のエンジンにくべて、必死でトルクを保つ。彼のやさしい医療情報とは、聴衆たちに「出典を確認することが何より大事だ」というわりと重めのコアを丁寧に探らせるための外付けモーターとして働く。

難しい内容を、噛んで含めて、理解できるように言い直す(易しい)。

そう簡単に実行できない技術を、一緒にやろうよと横に立って解説し、背中を押す(優しい)。

彼は複合的に、患者にやさしい。

加えてぼくが脱帽するのは、彼が一見、自分の診察室に入ってきた患者を相手にこんこんと説明をしているように見えて、実際には、自分ではない主治医と今戦っている患者に対して、

「あなたとその主治医が今までよりすこしラクに戦うための武器をここに置いておきますからね」

という姿勢を打ち出すことだ。彼は自分の患者でなくとも使えるよう、自分以外の医者も使いやすいように、情報を世の中にストックする役割を自認し、実行している。

上記のサイトは「ほむほむ」で検索すればすぐ出てくる・・・・・・と言いたいところだが残念だけれど2019年10月3日現在、「ほむほむ」で検索してGoogleトップに表示されるのはホムラチャン!!!である。堀向ブログを探すなら「ほむほむ先生」で検索するといい。すぐに出てくるぞ。


「小児アレルギー科医の備忘録」は決して「やさしい」内容ばかりが書かれたブログではない。

しかし、見知らぬどこかにいる、堀向ではない主治医と堀向ではない患者のために、出典を明記した使えるアイテムを豊富に取りそろえてある。

それはまるで博物館のようだ。知性に妥協はない。すべて理解するには時間も手間もかかる。

しかし、必要に迫られて、あるいは興味を掘り起こされて、ぜひ情報のコアに触れたいと思った人にとって、知恵は博物されていなければならない。

何より、その博物館の学芸員――堀向自身だ――の第一印象がとてもやわらかくてやさしいのである。だから博物館の扉はいつでも開いているし、博物館を訪れた客の心もすぐに開く。

堀向は、そういうことを、ずっと実践し続けている。

彼もまたシステムとロジックを見通す男だ。小児アレルギー関連の強固なエビデンスを何度も打ち立てた臨床研究者でもある。

しかし彼の活動はどこまでもナラティブな側面を忘れない。


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渋谷ヒカリエ前日に、ぼくは「打ち合わせ会」と称して幾人かと酒を飲んでいた。その中には「よう先輩」もいた。よう先輩はぼくの大学院時代の先輩であって、付き合いが長く、最近はいっしょにウェブラジオをやっている。

ぼくは堀向の話を聞き、感動し、よう先輩に言った。「堀向先生はほんとにすごいですね・・・・・・」。

すると彼はぶんぶんとうなずきながら、しかし、そこにあえて付け加えた。

「エビデンスにも物語はあるんだよ。エビデンスっていうと冷たい科学で、ナラティブっていうとあたたかいヒューマニズムみたいな切り口をよく見るけど、エビデンスだって人間が打ち立てた成果なんだから、物語性を必ず持っている。
 そりゃ、【○○って薬を△△に使ったら□%の奏功率】みたいな話は味気ないけど、ある薬を開発するにも物語があり、薬を熱望した患者にも物語があって、薬を使ってどうなったかにも物語はある。さらに言えば、エビデンスを組み上げた医療者の努力にだって物語はある。要は語り方の問題なんじゃないかな。サイエンスも、エビデンスも、物語として語ってもいいんだ」

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(2013年のよう先輩と不動明王)


堀向の講演を思い出しながらこうしてnoteを書いている今、なぜか、よう先輩の言葉が、浮かんだままいつまでも消えない。

みんな、語るところまで含めて科学だと、異口同音に言っている。

どいつもこいつも、戦場に降りてくる。

ぼくはまだそれを、高台から見ている。

(2019.10.4 ⑤)


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