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怪談市場 第九話

『おじぎ池の主』

釣り好きのヒサシ君(仮名)が、小学校4年生の時に体験した話である。

家の近所に「おじぎ池」という農業用水用の溜め池があった。面積は小学校の体育館ほどで、湧水があるらしく比較的澄んでいる。池のほとりに数本のシダレヤナギが植えられていて、その枝が頭を垂れる様子から地元の人々は「おじぎ池」と呼んでいた。近隣の小川や野池に比べて格段に魚影が濃く、生息する魚の種類も豊富だ。大人の釣り人たちにも人気の好ポイントである。子供の頃から釣りに夢中だったヒサシ君も、休日は愛用の釣り竿を片手に「おじぎ池」へ通う“常連”の一人だった。もっとも、彼を引き付けたのは、魚影の濃さばかりではない。

「おじぎ池」には、1匹の猫が住み着いていた。

赤トラの、でっぷり太った猫である。半ノラらしく、毛並みも悪くない。近所の家で定期的に餌をもらいながら「おじぎ池」を縄張りに、釣り人から弁当のおかずや釣れた雑魚をもらうため、栄養状態はすこぶる良い。ヒサシ君はその赤トラを心の中で「ヌシ」と名付け、小鮒やクチボソが釣れると“ショバ代”として与えることを楽しみにしていた。

「ヌシ」は賢い猫だった。複数の釣り人が竿を出すと、一番釣りが上手な者を見抜き、ピタリとその背後に位置を定める。より多く魚を釣る人間に寄り添えば、より多くの分け前にありつけると理解しているのだ。また、「ヌシ」は舌も肥えていた。雑食性の魚より肉食性の魚のほうが臭みもなく淡白で美味しいと感じるのは、人も猫も同じらしい。小鮒やクチボソが釣れても、釣り人からの献上を鷹揚に待つヌシだが、ライギョやナマズの子供がかかると、いてもたってもいられない。思わず釣り人の足元に走り寄り、まだ水辺にいる獲物に手を伸ばすほどの大好物だった。

その事件が起きたのは、5月の連休が終わった平日のこと。

学校は授業参観の振り替え休日で休みだった。朝からよく晴れた日で、もちろんヒサシ君は午前中から釣り竿片手に「おじぎ池」へ駆け付け、釣り糸を垂れた。平日であることもあり、この日は大人の釣り人はおらず、釣り場はヒサシ君の貸し切り状態だった。池に住み着いた赤トラの猫「ヌシ」は、「仕方なしに」とでも言いたげな気だるい足取りでヒサシ君の背後へ歩み寄る。

「今日こそは好物のライギョかナマズを釣り上げ、ヌシに一目置かれる釣り人になってやる」

意気込んで竿を振るものの、釣れない。よく晴れて、風も穏やかだ。いっけん絶好の釣り日和だが、じつは魚の食いは渋いのだ。むしろ風でさざ波が立ち、小雨のぱらつくような日のほうがよく釣れる。動かないウキを睨み続けて昼になり、母親が持たせてくれたオニギリを二つ腹に収めると、少し眠くなった。柳の木陰に場所をとりはしたが、細くまばらな枝では初夏の陽射しを防ぎきれない。ヒサシ君は釣り用の折りたたみイスを水際ギリギリまで寄せると裸足になり、両足をくるぶしまで水につけた。

「ふー、快適快適」

暑さはしのげたものの眠気は去らず、いつしかヒサシ君は船を漕ぎ始める。どれぐらいの時間ウトウトしていただろう……異変を感じて目を覚ました。

左足の親指に、嫌な圧迫感がある。

水草が絡まったかザリガニでもしがみついたか。水面は午後の陽射しを反射して水の中は見えない。思わず足を縮めると、重い。動かないほどではないが、足先に連動した重量感のある物体が水底を引きずる感覚がある。自由な右足を水から上げ、硬い地面に下ろして踏ん張り、問題の左足をじわじわと水中から引き出す。

足の親指を、何者かの手が鷲掴みにしていた。

「赤ん坊!?」

プクプクした指と小さな手のひらから、赤子の手と判断した。水中に長く浸かっていたせいか、皮膚は青黒く変色している。反射的に跳び退こうとしたが、片足を抑えられているためバランスを崩し、折りたたみイスが倒れる。だが尻もちをついたおかげで接地面積が増え、少なくとも物理的には安定した。自由な右足と両手をばたつかせ、必死に後ずさる。滑りながらも少しずつ、後退に成功した。だが青黒い赤ん坊の腕は離れない。すでに肘までを水面に覗かせている。ふと、ヒサシ君は全身の動きを止めた。

「このままさがったら、水面に頭が出てくる……」

水底に潜む異形の赤子はどんな顔なのか、どんな声で泣くのか……見たくない。聴きたくない。されどこのままではらちがあかない。手をこまねいていればやがて水中に引きずり込まれそうな気もする。

「どうすればいいの!?」

パニックになりかけたヒサシ君の視界の隅で、何かが動いた。細長く薄茶色の影が、真っ直ぐに突進してくる。

「ヌシだっ!」

赤トラの猫、「ヌシ」は足元に走り寄ると、水面から伸びた赤ん坊の腕を、前足で連打した――猫パンチである。右前脚で数発、赤ん坊の手の甲を叩くと、今度は左前脚に変えて手首を叩く。左右の執拗な攻撃に怯んだか、次第に赤子の指がゆるみ、やがてヒサシ君の足を解放した。四つん這いで水辺から離れ、柳の幹に抱きついて振り返ると、青黒い赤ん坊の腕は、大型船が沈没するようにゆっくりと水中へ戻っていくところだった。「ヌシ」がトドメとばかりに一撃を見舞うと、異形の赤子は完全に水没した。ヒサシ君は「ヌシ」も釣り竿も置き去りにして、「おじぎ池」から逃げ帰った。

帰宅して、母親に一部始終を告げたが、「寝惚けたのだろう」と信じてくれない。夜になって仕事から帰った父親がその話を耳にし、興味深い証言をした。

「それは、おじぎ池の主の仕業だな」

「違うよ。ヌシは僕を助けてくれた猫の名前だよ」

「そうじゃなくてさ、池の主は、亀なんだ」

父親の説明によると、「おじぎ池」には何十年(もしかしたら百数十年)も前から1匹の年を経た亀が住み着いていてモノノケと化し、ときおり人を化かすのだそうだ。それでも、せいぜい悪戯程度で、怪我をさせたり命を奪ったりはしないため、地元住民は放置しているらしい。

「だからな、安心しろ」

そう父親は言うけれど、あんな目に遭っては、やはり怖い。置き去りにした釣り道具を取りに行きたいし、なにより助けてくれた赤トラの猫、「ヌシ」のために、好物のライギョかナマズを釣って献上したいが、どうしても「おじぎ池」に行く気にはならなかった。

「四半世紀すぎたいまでも、それが心残りでね」

そう言ってヒサシ君は、寂しそうに笑った。

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