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ねえ、マスター

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ランチタイムの後は珈琲を淹れるのが日課だ。

アメ横の専門店で買った生豆をフライパンで煎るところから始める。焙煎した豆は手動のミルで挽き、ネルのフィルターにおさめ、銅製のドリッパーにセットし、専用のケトルで湯を注ぐ。ローストした豆から逃げた香りが店内を満たし、ランチタイムの残り香を中和する。脂の焼けた匂いや穀物を加熱した香りも嫌いではないが、夜のバー・タイムにカクテルやワインやシングルモルト・ウイスキーを楽しむ客には邪魔な要素だろう。

カップにコーヒーを注ぎ、カウンターの桐島に提供した。ひと口含んで、水中から顔を出したように深い呼吸をする。文句が出ないということは、気に入ってもらえたようだ。アルコールもニコチンも受け付けないくせに、カフェインは許容範囲らしい。バー・タイムの6時まで店は閉める。ドアは施錠するし、明かり取りの小窓もロールスクリーンを下ろす。命を狙われるヤクザ者でも、気を許せる場所と時間は必要だ。ほんの僅かだとしても、必要だ。

「昔、あんたと会ったことがある――昨夜そう言ったが、勘違いだったようだ。俺たちは会っちゃいない。俺が一方的にあんたの面を拝んだんだ。テレビの、ニュース番組でな」

聞こえないふりで、自分のカップにコーヒーを注ぐ。桐島はひとしきり無反応な俺を睨んでいたが、やがて記憶をたどりながら独りで喋りはじめた。

「10年ほど前だったか、イラクで輸送業務にあたっていたイギリス警備会社の車両が、イスラム武装勢力の襲撃に遭い、日本人の従業員1名が拉致された。武装勢力はその日のうちにインターネットで犯行声明を出した。身代金等の要求はなく、人質を即日、無条件で処刑する旨を発表した。で、犯行声明には画像が添付されていたんだ。跪いた日本人の青年に、覆面の戦闘員がイスラム風の装飾がほどこされた半月刀を突き付け、背後にはそれぞれアサルトライフルとロケット砲を手にした迷彩服姿の男二人が控えた写真だ。勇ましくもおぞましい画像は緊急特集扱いで、ニュース番組を中心に日本全土へ流れた。ほとんどの国民は続報を待った……マスター、どんな続報が流れたと思う?」

相手にするのは本意ではなかったが、桐島の見え透いた“引っ掛け問題”が癪に触るので、後から聞いた話を口にした。

「続報なんて流れなかった」

桐島の言う〈日本人従業員拉致事件〉は昼のニュースで全国に流れた。だが、その日の午後に当時の厚生労働大臣の不倫疑惑が発覚し、夜のニュースは与党大物議員のスキャンダル一色となり、哀れな日本人拉致被害者の存在は忘れ去られた――そう、帰国してから噂に聞いた。

桐島はひとつうなずくと、話を進めた。

「誰もが暗黙の了解のうちに、犯行声明通り処刑は執行されたと考えた。だが一方で奇妙な都市伝説も生まれた。拉致された日本人が、じつは生きていたって噂だ。いや生きていただけじゃない。監禁されていた武装勢力のキャンプから、単独自力で脱出した――しかも丸腰で、戦闘員十数名を無力化して――そんな伝説を信じる者たちは、武器も持たずに武装勢力のキャンプを半壊させた日本人を『フリー・ハンド』と呼んだ」

桐島が俺を見据えて反応をうかがう。せめてもの抵抗に店の紙マッチで煙草へ火をつけたが、話を逸らすことはできそうになかった。

「続報がなかったのは政府がマスコミに報道規制をかけたせいだろうな。日本は自衛隊を微妙な立場のままイラクへ送り込んでいた。そんな状況でマスター、あんたの生還は〈強い日本〉、〈好戦的な日本〉の状況証拠になりかねない。〈なかったこと〉にしたいのはイスラム武装勢力も同じだったろう。たった1人の日本人にベースキャンプを壊滅させられたと知れれば、世界中のテロリストから笑いものだ」

言うべきことを言ったのか、桐島が口を閉ざした。途端に沈黙がのしかかる。ランチの終了とともに音楽を止めたことを悔やんだ。こんな日に限って雨も降らず風も吹かず、大通りの遠い喧騒は静寂を強調して返答を迫る。

「750円だ」

煙草の煙とともに吐き出すと、桐島は首を傾げた。

「なんだと?」

「おまえの気付けに作ったカクテル――マンハッタンの代金だ。それを払えば、おまえはこの店の客だ。カクテル1杯だろうと、下戸のヤクザだろうと、客は客だ。助けを求められれば、できる限りのことをする。俺にできることをする」

黙って何度かうなずくと、桐島は札束の入った封筒を、ズボンのポケットから小銭を探り出し、カウンターに並べる。

「頼むぜ、マスター」

桐島にうなずいて、2種類の金を両手に掴む。握りしめた小銭が、札束より重い。

冷蔵庫の扉で、キッチンタイマーを兼ねたデジタル時計が午後3時12分を表示していた。いま出れば桐島の〈使い〉を済ませて、6時からのバー・タイムには戻れるだろう。よほどのことがなければ。

スイングドアを抜け、カウンターの桐島を回り込んで裏口へ通じるドアを開く。トイレ奥の物置。古い衣類を詰めた段ボールをかき回し、着古したM-65フィールド・ジャケットを探り当てた。カフェエプロンを脱ぎ捨て、ウイングカラー・シャツの上から袖を通す。色あせたオリーブグリーン。懐かしい重量感。

俺は裏口から細い路地へ飛び出した。

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